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File.3 Spiral 8

  8

 翌日、署内の一室。七条が入っていくと、既に少年が待っていた。彼に気付いているのかいないのか、肘をついて窓の外を眺めている。ブラインドが半分ほど下ろされた窓から入る光は、少年の頬に縞模様を作っていた。その影が、彼の表情をどこか陰鬱な、美しくはあるのに明るさの全くない、退廃的なものに見せている。
「桐生君」
「七条さん」
 彼は振り向き、かすかに微笑んで会釈した。
「何度も足を運んでもらってすまないね」
「……変な人ですね、七条さんて」
 くすりと笑う。
「僕に謝ってばかりいる」
「……そうかな?」
 七条はつられて笑んだ。
「今日も一人で来たのかい」
 確か昨夜、京都に住む桐生美里の両親が、こちらに着いたはずだ。美里が亡くなった直後にも上京してきていたが、品のいい老夫婦という印象を覚えている。
 桐生慶吾の父親は既に亡くなっており、今千影に一番近い親戚はこの二人だ。
「ええ」
 千影は頷いた。
「祖父たちにはいろいろやらなければならないことがあるし……」
「着いて行くとはおっしゃらなかった?」
「言われましたけど、断りました。その必要はないから」
「…………」
「それとも」
 千影が奇妙な笑みを浮かべた。まるで七条を試しているかのような──。
「彼らも一緒の方が良かったですか?」
「……いや。別に」
 七条は意図的にその話題を打ち切り、手元のメモに視線を落とした。
「今日はいくつか聞きたいことがあってね。この間、お母様たちが火事に巻き込まれた日」
「はい」
「昼食は何だった?」
「…………」
 千影は下を向いて目を閉じた。──何かを思い出そうとしているのか、それとも……。
 やがて、千影が顔を上げた。
「あの日、祖母の調子がとても悪かったんです。そういう日は、母にめちゃくちゃあたるから……」
「うん」
 その光景を想像して、七条は気分が悪くなった。千影はそんな環境の中でずっと過ごしてきたのだと思うと、彼の背負う影の訳もわかるような気がする。少年は七条の動揺をよそに、淡々と言葉を続けた。
「僕が帰ってきたとき、昼食の用意はできていました。パスタだったと思います。でも、そのとき祖母は寝ていて、母は後片付けをしていて……僕に先に食べるように言ったんです。本当は待ちたかったけれど、のびちゃったらまずくなるから美味しいうちに食べてくれって、母が……っ」
 不意に、言葉が途切れた。メモを取っていた七条は顔を挙げ、絶句する。
 少年の表情は少しも動いていなかった。まるで仮面を貼り付けたかのように静かな顔。――だが、その目は。
 涙がとめどなく頬を伝い、細い顎から次々と滴り落ちていく。彼自身はそのことに気付いているのだろうか。七条はいぶかしく思った。それほどまでに彼の表情は空虚で、全く感情が見られない。
 七条が二の句を告げないでいるうちに、少年はぽつりと呟いた。
「守れなかった……」
 小さく、弱々しく、それでいて様々な感情がその音からは溢れていた。
「…………」
 七条は、これほどまでに悲痛な声を聞いたことがない。何か言わなければと思うのに、言葉が浮かばなかった。
 少年は目の前に七条がいることを忘れてしまったかのように、ただ涙を零し続けていた。白い頬を濡らす液体はあまりにも透明で、どこか幻想的な光景ですらある。
「誰よりも、幸せでいて欲しかったのに……」
「千影……君」
 抱きしめたいと思った。その少年らしい細い肩を、折れんばかりに抱きしめたい。――けれど、七条は腕を伸ばすことができなかった。
 きっと、自分では救えない。こんな風にしか泣けない彼の心を、救ってやることはできない。
 しばらくの沈黙の後、少年ははっとしたように顔を上げた。
「あ…………」
 どういう状況にあるかを思い出したのだろう、決まり悪げな顔になって、ハンカチを取り出し顔を拭く。
 七条は何も気付いていないかのように、冷めてしまった緑茶を啜った。
「じゃあ、君以外の二人は昼食を摂っていなかったんだね?」
「……はい」
 桐生は頷いた。
「なるほど」
 これで篠原の言っていた疑問は解消された――かのように見えるが……。
「ところで」
 七条は不意に尋ねた。
「まりもはどうしたんだい?」
「え?」
 少年は目を見開いた。
「まりも?」
「去年修学旅行のお土産に、皆で買ったんだろう?」
「誰に聞いたんです?」
 七条はさりげなく少年を観察した。強張った頬。真っ直ぐに七条を見つめる瞳。
「小学校時代の同級生の人がね、君を心配して家の近くに来ていたんだ」
「そうでしたか。……一体誰が?」
「ええと」
 七条はメモに視線を落とす。
「神月美歩さん。覚えているかい?」
「…………」
 千影は少しだけ首を傾げ、天井を見上げた。
「ああ……そういえば、同じグループでした」
 卒業式の日に告白された相手だというのに、彼の回答はあまりにもあっさりしている。もしかするとそのことを覚えていないのかもしれない、とさえ七条は思った。
「君を心配していたよ」
「……そうですか」
 形だけの笑みを見せ、少年は頷く。本当に、彼女の告白を覚えていないのかもしれない。
「まりもは、捨てたんです」
 千影は呟いた。七条は鸚鵡返しに聞き返す。
「捨てた……?」
「はい」
「どうして? 可愛がっていたんじゃないのかい?」
「別に」
「動物好きだという話も聞いたけれど?」
「うちはペットを飼っていませんよ」
 とりつくしまもなかった。
「でも」
 七条は賭けに出た。
「金魚はいたんじゃないのか?」
「…………」
 少年は沈黙した。
 七条はじっと彼を見つめる。
 やがて、少年は口を開いた。
「いません」
 七条は間髪いれずに食い下がった。
「でも、時子さんの部屋から金魚鉢が見つかったんだよ?」
「僕は知りません。祖母の部屋にはほとんど入ったことなかったし」
「そう……」
 七条は呟いた。意外に少年は動揺を見せなかった。――見当はずれだったのだろうか。いや、しかし……。
「君のお父様は」
 七条はまるで独り言のようにゆっくりと言った。
「一体何に怯えていらしゃったのだろうね。不眠症に悩んでおられたそうじゃないか」
「…………」
 少年の唇が僅かに歪んだ。それは人が誰かを冷笑するときに見せるかたち。
「あれだけ酒を飲んでも眠れないなんて、一体どういうことでしょうね。僕にはわかりませんけど」
「何か聞いていなかったのかい?」
「父の帰宅はいつも深夜でしたから。僕は先に休んでいました」
「そう……」
 七条は呟く。
 ――何か。
 何か、決め手に欠けている。
 あと一つ、パズルのピースが見つかれば……。
「千影君」
 七条は顔を上げた。
「君のお父さんが帰宅される時、君はいつも眠っているんだよね?」
「はい」
 少年は即答する。
「じゃあ何故」
 七条は彼の瞳を真正面から見据えた。
「君のお父さんが飲酒していることを知っている?」
「…………」
 千影は小さく息を吐いた。それがどういう意味を持つのか、七条にはわからない。
「母や祖母の存命時から、酔っ払っては居間で眠りこけていたようです。母がよくこぼしていました」
「そのときはまだ不眠症に悩んでおられなかったのだろう? 何だか変だね」
「そうですか?」
 少年は落ち着き払っていた。
「父には飲酒癖があった。それを僕が知っていた。それだけのことですよ」
「自分の母や妻の喪中に、眠りこけるほど飲酒する人は珍しいとは思うが」
 ――実際、桐生慶吾はそちらの人種だったようだけれど。
「そうですか。では飲んでいなかったのかもしれません。あまりにいつも飲んでいるものだから……」
「そんなに、いつも?」
「良く知りませんけれど」
 桐生の答えは軽い。
「多分」
 七条は慎重に、その言葉を口にする。
 
「自分の息子を妻と見間違えてもおかしくないくらいには……酔っていたのかもしれないね?」

「…………」
 千影は無表情に七条を見つめ返した。一瞬の沈黙が、七条にはひどく長い。
 ――やがて、
 少年は、微笑んだ。
 薄い唇が、問いを刻む。
 
「誰か、僕を裁けますか?」

 それは七条にとって、自白にも等しい言葉だった。だが、彼は何もメモしない。録音もしない。ただ彼はこう返したのみであった。
 
「少なくとも――僕には君を救えない」

 七条のまなじりから一筋の涙が零れた。
 悲しかった。どうしようもなく悲しかった。
 
 ――そして一つの事件の真相が、闇に葬られることとなる。