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File.3 Spiral 7

  7

 その日七条が篠原に会ったのは、既に夕暮れ時だった。
 司法解剖を終えた篠原は、鑑定書を書くべく準備をしている。教授らの出払っている法医学教室はがらんとして、いやに物寂しく感じられた。
 七条は手近な椅子に腰掛ける。
「で、どうだった?」
「また漠然とした質問だよね」
 篠原は口の端だけで笑う。七条は平然と言った。
「回答者の裁量に期待してるんだよ」
「それはそれは……、ただこの場合は裁量がどうとかいうほどのこともないんだよね」
 篠原は書きかけの鑑定書を取り出し、七条に見せた。
「死因は転落。その他が成因と考えられる外傷はない。臓器も、軽い脂肪肝以外に特筆事項はなかった」
「うん」
「血中アルコールがこれだから、ほろ酔い状態だったろうね。さらに睡眠薬を飲んでいたみたいだから、少々意識は朦朧としていたかもしれない」
 篠原の指し示した数字は血中アルコール濃度だった。七条はそれを見て小さくうなる。
「なるほどな」
「転落か自殺かは、僕には分からないけど……他殺ってことはないんじゃない? 彼は相当大柄だし、突き落とすにしたって大変そうだ」
「まあな。あの部屋にいたのは彼と、中学生の息子だけ。息子の背は高めだがまだ十三歳だし、細くて力もなさそうだからなあ」
 七条は千影を思い出しながら呟く。
「彼、不眠症だったの?」
「そのことなら、薬を処方した同僚に会って聞いてきたよ」
 七条は手帳を開いた。黒い革の、いかにもといった風情の品である。
「主訴は不眠症。あと、こうも言っていた――『夢枕に妻が立つんだよ。笑うな、本当なんだから』って」
「ええと」
 篠原は目を瞬かせた。
「確か奥さん亡くなったよね? この間」
「まあ、あんなことがあったばかりだから……と同僚は思ったそうなんだがな。やけに彼は怯えていたらしい」
「へえ」
「俺はちょっと不思議だったんだよ」
 七条はペン先で手帳の紙面を叩いた。
「死んだ妻が見えたとしてだ、そんなに怯えるか?」
「夢に出てきたってことなんだろうね」
「まあ、ふつう死んだ人間がほいほい生き返っては来ないからな」
 軽口を叩きながらも、七条の表情は真剣そのものである。
「でもさ、まあ良く分からん死因で亡くなってしまったわけだよな、奥さん」
「あれ、未だにその辺分かってないの?」
「縊死ってことしかな」
「他殺か自殺かも?」
「……分からん」
「そうなんだ。僕は自殺なんだと思ったけど……」
 篠原は淡々と呟いた。
 首吊り自殺を偽装した他殺は、結構な数が存在する。とはいえ、大抵の場合それは見破られる。先に首を絞めてから遺体をぶら下げた場合、偽装縊頚と言われる二本目の痕が残るのだ。ただし、先に何らかの方法で意識を失わせておいて、縊頚した場合は自殺と区別がつかない。また、他にも区別のできない他殺方法も存在する。
 とはいえ、他殺の場合は何らかの痕跡が残ることがほとんどである。意識を失わせる時に薬物を使えばそれが体内に残るし、暴力を奮った場合でも何かの傷が残る。指紋や毛髪、体液などの僅かな細胞からでも犯人の割り出せる時代である。何の痕跡も残さず人を殺すのは、とんでもなく難しいことなのだ。
 他にももう一つ、被害者が女性の場合に有効な見分け方がある。それは……。
「髪、か?」
「そう。髪がちゃんと紐の外に出してあったでしょ? ああいうのってやっぱり自殺に多いからね」
「そうか」
 七条は思う。今から死のうとする女性が髪を巻き込むまいとする、その心理。癖なのだろうと言ってしまえばそれまでだが、それだけとは思えない。
「ああ、ごめん。話がそれたね。それで?」
 篠原に話をふられ、七条ははっと顔を上げた。
「あ……ああ。何故桐生慶吾は妻の夢を恐れたのか、と思ってな」
「死人だからじゃないの?」
 身も蓋もない言い方をする篠原に、七条は首を横に振る。
「悲しいとか、辛いとかなら分かるが、怖いっていうのは……」
「ふうん……そんなもの?」
 篠原は机に肘をつき、手の甲に頬を載せた。
「もし愛する人が死んでしまったら――もし俺なら、夢の中でもいいから逢いたいと願うだろうね」
「怖いってことは、何か自分に危害を加えられるかもしれないと思うからだよね」
「まあ、単純に得体の知れないものへの怖さっていうのもあるかもしれないがな」
「そう? 別に訳の分からないものでも、こちらに何もしてこないのならそれほど怖くはないと思うよ」
「ん……そうかもしれん」
 七条は頷いた。
「桐生慶吾さんって人。奥さんに何か後ろめたいことでもあったのかもね」
「確かに、散々苦労をかけてはいたようだが」
「それでかな?」
「罪悪感があった、というのか? そんなことはおくびにも出していなかったが……」
「そりゃあ、人にはプライドってものもあるしね。夫婦のごたごたなんて、そうそう話したいものでもないでしょ。それに下手すれば自分が疑われるかもしれないんだし」
「アリバイはばっちりだったがな」
「そう……」
 篠原は呟いた。
「で? 今は一体何が問題?」
「あ……ああ」
 七条は居住まいを正した。
 捜査に行き詰ると、彼は良くこの友人に話をする。淡々とした表情で、しかし耳を澄ませて聞いてくれるこの友人の存在は、彼にとって非常に貴重なものだった。考えをまとめたいとき、助言が欲しいとき、彼はこうやって篠原の元を訪れる。
「知りたいことは幾つかあるが、大きく分けると二つ。いや、三つか」
「うん」
「一つ。どうして桐生美里の縊死体の下には踏み台がなかったのか」
「うん」
 篠原は半分ほど目を閉じている。眠そうな表情だが、そういうわけではない。彼が思考するときの癖である。
「二つ。火を放ったのは誰か。……目撃者がいないんだ。遺留品もない」
「うん」
「三つ。目的は何か。女性二人が死んで、放火までした。しかし何も盗まれていない」
「ううん」
 篠原はうなった。
「そう言われると取り留めのない事件だね」
「でもって桐生慶吾の転落死だもんなあ……あの窓の状況から考えても自殺だろうし」
「落ちにくそうな窓なの?」
「ああ。ホテル側も転落対策くらいはしている。自分からかなり身を乗り出さないと落ちない」
「そうか……」
「あ、そういえば」
 七条は思い出して顔を上げた。
「火の玉の目撃情報もあったなあ」
「は? 火の玉?」
「ちょうど桐生慶吾が転落した時刻に、赤い小さな炎が落下していくのを見た人が数人いるんだ」
「誰かが何かを燃やして、落としたのかな?」
「危ないなあ……」
「まあ、すぐに燃え尽きそうなものだったとか。実際、燃えかすなんかは見つかってないんだろ?」
「灰は風に流されちまうしな」
「そうか……目的、ね……」
 篠原は瞑目した。七条は黙って彼の言葉を待つ。
 窓から入る夕焼けの色が、大分薄くなってきた頃。篠原は目を開けた。
「最後に動いている二人を見たのは? 桐生美里さんと……時子さん、だっけ」
「それは千影君だ」
 七条は即答した。
「土曜だったから学校が昼までで、昼食を食べに一端家に帰ってる。その後図書館に出かけて……それが最後だな」
「昼食。昼食ね……」
 呟いた篠原がはっとした顔をした。
「待って。昼食の献立、彼は何か言ってた?」
「いや、聞いてないと思うが」
「二人とも、昼食を摂っていないんだよ。胃の内容物を見る限りはね」
「え?」
 七条が顔を上げる。
「じゃあ……」
「もしかしたら息子に先に食べさせて、自分たちは後で食べるつもりでいたのかもしれないけど……。その辺のことは聞いた? 食事は皆で食べた、とか。もしくは自分一人だけ先に、とか……」
「多分聞いてないな。……聞いてみるか」
「うん」
 ――あの少年が、嘘をついているかもしれない?
 七条は汗の浮いた掌を握り締める。
 ――何のために? 誰のために?
「誰のために……」
 七条はぽつりと呟いた。
 ――その犯人を憎めば、僕は楽になれますか?
 七条は立ち上がる。
「七条?」
「すまん、ちょっと行ってくる」
「ああ」
 篠原はあっさりと頷いた。
夏海(なつみ)さんによろしくね」
「……伝えておく」
 不意に思う。万が一、夏海が自分より先に逝ってしまったとして――自分が彼女の亡霊に怯えることなどあり得るだろうか。
 否、決してない。亡霊でも、夢でも、幻でも、何でもいい。もう一度その顔を見たいと願うだろう。妻だけではない。家族のうちの誰かに先立たれたなら、きっと彼は同じことを思う。
 けれど、桐生慶吾は……。
 
 ――僕らはもう、家族じゃなかった。バラバラだったんです。
 
 少年の言葉が、七条に重く圧し掛かった。