instagram

File.3 Spiral 5~6

  5

 翌朝、七条は部下の澤上(さわがみ)警部を連れて桐生家に出かけた。篠原による、桐生慶吾の司法解剖の結果を待つ意味もある。
 慶吾の死によって再び増えたマスコミを避けながら、火元の一階、和室の中に入った。澤上は辺りを見回して呟く。
「大分焼けてますね」
 彼は昨年春にT大法学部を出た、いわゆるキャリア組だ。本来ならデスクワークに励んでいればいいのだが、先輩でもある七条の部下になったせいでこのように外へと連れ回されている。それでも澤上は七条を慕っているようで、文句一つ言わなかった。言われたところで気にする七条ではないが。
「灯油が撒いてあったからな」
 七条は大きな窓を眺めた。南向きの、日当たりの良い部屋だ。姑にこの部屋を使わせていたということ一つ取っても、美里の気遣いが伺えた。
「これ、何でしょう」
 不意に澤上がしゃがみ込んだ。窓のすぐ側に落ちていた煤だらけの器。熱にやられたのか、大きなひび割れがある。
 手袋をはめ、澤上は注意深く持ち上げる。煤が剥がれた部分から透明な表面が覗いた。
「これ……」
「金魚鉢、かな」
「そうですね」
 中を泳いでいたはずの金魚は見つからない。燃えてしまったのだろうか。
「桐生時子は金魚を飼っていたのだろうか」
 七条は首を傾げる。
「千影君に聞いてみますか?」
「ん……そうだな……」
 七条は曖昧に頷いた。
「でも何故地面に……」
 この部屋には和箪笥が二つほどあり、一つは背が低く日が当たらない場所にある。金魚鉢を置くならその上がむいているはずだ。少なくともこんな窓際のひなた、しかも床に置くものではない。
「火事のごたごたで落ちたのかもしれませんよ。放水もされたでしょうしね」
 澤上の指摘に、七条は頷いた。
「桐生時子の知人で、この部屋に通された者を探そう。一応確かめておきたい」
「千影君では駄目なんですか?」
「…………」
 七条は澤上をちらりと見た。
「彼は……祖母と折り合いが悪かったようだ」
「……ああ」
 澤上は顔を歪めた。彼も聞き及んでいるのだろう。
「嫁姑問題ってやつですね? でも実の孫でしょう?」
「……そうやって単純化して片付けるからいかんのかもなあ」
 七条は髪を掻いた。
「どういうことです?」
「お前、彼女はいるのか?」
「セクハラですよ、先輩」
「馬鹿言うな」
 七条は吹き出した。澤上は苦笑する。
「すみません。実は、この間別れたばっかりで」
「それは」
 ──すまなかったな。七条は頭を下げる。澤上は慌てたようだった。
「先輩に謝ってもらうようなことじゃないですよ」
「ん……そうか」
「彼女……、大学の同級生だったんです」
 澤上はぽつりぽつりと語り始めた。もしかすると、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。七条は耳を傾けた。
「彼女、弁護士志望で……去年の秋に司法試験に合格して」
「それはめでたいな」
「そうなんですけどね……」
 澤上は顔を曇らせた。
「仕事柄なのか何なのか、警察に対してすごく批判的になっちゃって」
「……ほう」
「テレビを一緒に見ていても、すぐ警察や検察を非難し始めるんですよ。でも俺は一応警察官だし、こっちの言い分もあるじゃないですか。だから、喧嘩がたえなくなって」
 七条は肩をすくめた。
「それで別れたのか」
「事務所の先輩を好きになった……ってふられました」
「そうか」
 七条はあっさりと答える。
「…………」
 沈黙が数分続き、澤上はしびれを切らしたように口を開いた。
「あの……」
「俺の妻も弁護士だよ。今は産休中だけどな」
「そうなんですか?!」
 澤上は叫ぶ。この上司の妻はその美貌ばかりが噂になって、職業など誰も気にしていなかったのだ。
「同級生だったし、お前と同じだ」
「……どうして先輩は上手くいってるんですか」
 恨みがましい視線を向けられて、七条は困惑したように首を傾げた。
「……テレビ、あんまり見ないからかな?」
「は?」
「弁護士に腹が立つことがないわけじゃないが、別にそれは彼女じゃないし。愚痴ることはあっても、彼女を責めることはない。お互いにな」
「…………」
 澤上はため息をついた。
「こうして聞くと当たり前みたいに聞こえるんですけどねえ」
「当たり前なんてのはな、最初っからあるもんじゃない」
 七条は妙に力強く言った。
「二人の同意の積み重ねだ」
「……先輩」
「何だ」
「奥さんのこと、大好きでしょ」
「悪いか」
 七条は赤面した。

  6

 家から出た七条は、見慣れない人物に気付いて足を止めた。中学生くらいの少女だ。マスコミにつかまりたくないのか、少し離れた場所からじっと煤けた家を眺めている。
 この付近に住んでいる者は、このところの事情聴取で大体は把握している。この少女を七条は知らない。
 七条が近付いていくと、少女は少し警戒の表情を浮かべた。だが、彼は構わずに声を掛ける。
「すみません」
「……はい」
「私はこういうものですが……」
 警察手帳を見せる。少女は息を呑んだ。
「桐生さんのお宅を見ておられましたよね」
「はい」
 黒髪の長い、大人しそうな少女だ。制服を着ているということは学校帰りなのだろうか。そういえば今日は日曜だったはずだが。
 彼女は自分から口を開いた。
「私……小学校のとき、桐生千影君のクラスメイトだったんです」
「お名前は?」
「え……」
 少し困ったような顔をする彼女に、七条は笑い掛けた。
「大丈夫です。別に何かご迷惑をかけるつもりはありませんから」
「…………」
 わずかな沈黙の後、少女は口を開く。
神月(こうづき)美歩(みほ)です」
「神月さん」
 七条は軽い調子で尋ねる。
「千影君とは親しかったのですか?」
「好きだったんです」
「……え?」
 あまりにもあっさりした答えに、七条は思わず彼女をじっと見つめてしまう。美歩の大きな瞳は、しかし彼を見ていなかった。桐生家の方を、じっと眺めている。
「千影君が、好きでした……」
「……そう、でしたか」
 七条は穏やかな表情で美歩を眺める。
「小学校の卒業式で告白して……ふられちゃったけど、千影君の行く中学校は男子校で私とは別々だし、最後のチャンスだと思って」
「……それで、気になってここに?」
「はい……」
 美歩は目を伏せる。
「そうか……」
 七条はそれ以上何も尋ねなかった。特に、これ以上彼女に聞くことはないように思えたのである。
「まりも……」
 美歩は呟いた。
「まりもは、無事かしら……」
「まりも?」
 七条が聞き返すと、美歩は頷く。
「千影君とは修学旅行のグループが一緒だったんです。北海道に行ったんですけど」
「もしかして、そのときに買った?」
「ええ。グループみんなで、記念に買ったんです。勿論小さなものですけど」
「ああ、養殖のね……」
 そういえば妻と結婚する前に北海道に旅行に行ったことがあった。その時に土産物屋で見たような気がする。小さな容器に入った、直径一センチほどの小さなまりも。
「千影君、それが気に入ったみたいで。家に帰ってから金魚鉢に移して、飼っていたらしいんです」
「まりもをねえ」
 七条は少年の顔を浮かべて思わず頬を緩めた。何となく微笑ましい。彼の様子が常にひどく大人びているせいか、年齢相応の逸話を聞くとほっとするのだった。
「おばあさんが動物嫌いで、ペットが買えないんだって言っていて。千影君、猫とか犬とか、動物好きだから寂しそうでした」
「……そうか」
 七条は笑みを消して頷く。手に入らなかったペットの代わりがまりもなのか。そう考えると、そうそう明るいエピソードにも思えなくなってくる。
「でも火事があったって聞いたから……まりもは無事かなって」
「まりもねえ」
 背後の澤上を振り向いた。彼は静かに首を振る。
「千影君の部屋から金魚鉢は見つかっていません。まりももありませんでしたよ」
「そうですか……」
 美歩は寂しそうに笑った。
「捨てちゃったのかな」
「…………」
 七条には彼女に掛ける言葉が見当たらない。
 ――金魚鉢の、まりも……か……。
 不意に、七条は目を大きく見開いた。
 脳裏に思い出されるのは澤上の見つけた金魚鉢。煤だらけになった、空っぽの――。
 ――おばあさんが動物嫌いで……。
 動物嫌いの人物が金魚を飼うだろうか。勿論猫や犬が嫌いで、金魚は気にならないという可能性もある。一概には決め付けられないが……。
 七条の胸ポケットのポケットベルが鳴り、彼はそれを澤上に渡す。
「ちょっと公衆電話まで走ってきてくれ」
「は、はい!」
 澤上の後姿を見送り、七条は隣に佇んだままの少女の肩にぽん、と手を置いた。
「ありがとう。興味深いお話だった」
「そ、そうですか?」
「ああ」
「……あの」
 美歩は彼を見上げる。真っ直ぐで、真剣な眼差しだった。
「犯人。絶対に捕まえて下さいね」
「…………」
 七条は少しだけ躊躇して、やがて深く頷いた。
「ああ」
「じゃあ、さようなら」
 一礼して走り去る少女を見送りながら、七条は彼女の告白を断った少年を想ってため息をつく。
 ――あんまり考えたくなかったんだがなあ……。
 不意に、彼は妻がまだ恋人だった頃に言っていた言葉を思い出す。
『貴方はきっと、本当は警察に向いていないのかもしれないわね。加害者のことなんてどうでも良くて、ただ被害者のしあわせだけを願う貴方は……』
 ――そうかもしれない。
 被害者の願いが、加害者の確保なら何も問題はない。だが、そうでない場合は――加害者を逮捕しても誰も救われない場合は――。
『きっと。虚しいと感じるはず』
 澤上が駆け戻ってくる。それをのんびりと待ち構えながら、七条は呟いた。
「あいつには勝てんなあ……」