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File.3 Spiral 3~4

  3

「自殺?」
 七条は唖然として聞き返した。とっさに時計を見る。今は二月二十三……いや、もう二十四日だ。時間は午前二時。
 頷いたのは彼の部下、原野(はらの)警部補だった。彼もまだ捜査本部に残っていたのだが、先ほどまで机に突っ伏して眠りこけていた。今はというと、事件を知らせる電話で完全に目が覚めたらしい。眼鏡の奥の細い目が赤かった。
「飛び降り自殺だと思われます。現場には特に疑わしい点もなく……」
 七条は彼の話を聞いているのかいないのか、ぶつぶつと呟く。
「息子を一人残して……自殺だと……?」
「警視?」
「場所は?」
 彼は顔を伏せたまま尋ねた。デスクに座る彼の前に立つ原野には、七条の顔が見えない。
「滞在中のホテルです」
 殺人現場となり、さらに放火された自宅。当たり前だがそのまま住み続けるわけにはいかず、桐生慶吾は息子の千影を連れて都内のホテルに滞在していた。
 七条も事情聴取に訪れたことがあるが、金持ちとはこんなものかと舌を巻いた記憶がある。慶吾は、超一流ではないが決して三流ではないホテルの、その中でも長期滞在向けの特別室を押さえていた。
 ──息子は勉強もしなければなりませんからね。せっかく成績優秀なのに、こんなことで足元をすくわれてしまっては彼が可哀相だ。
 そのとき七条は何も言わなかった。
 ──あんたはその息子の顔を良く見たことがあるのか? 本当はなじりたかった。責めたかった。
 だができない。桐生千影にとって、彼は何者でもないのだから。
 端正な顔の少年。だがその瞳にたたえられているのは底なしの闇だ。
 七条は願う――誰か気付いてやって欲しい。彼を救ってやって欲しい……。
「朝には司法解剖に入る予定です」
「担当は?」
「篠原先生で」
 馴染みの法医学者の名前を聞き、七条は頷いた。
「まずは現場に行こう。……千影君は?」
「遺体と一緒に警察病院に」
 原野の顔が歪む。
 ──ああ、彼もまた自分に似た感情に苛まれているのだ。七条は何故か安堵にも似た感情におそわれた。それをそのままに、立ち上がる。
「じゃあ行こうか」
「どちらに?」
「言ったろう。まずは現場だ」
 七条はコートを着込む。このままでは今日も妻の顔を見られないな、と思いながら。

  4

 ホテルの周りには、深夜にも関わらず人だかりができていた。何故人の死んだ現場などが見たいのか、七条には分からない。
 パトカーから降り、足早にホテルに入る。当惑顔の従業員を後目に、七条は客室階の最上階である十八階に急いだ。
 多分一報で駆けつけた警官だろう。七条の姿を見て敬礼する。七条は彼を従えて部屋の中に入った。室内とは思えない冷気に、七条はまだコートを脱いでいなかった幸運に感謝する。
「窓は?」
 短い問いの意味を察し、彼の背後を歩いていた警官が前に出る。先導されたのは寝室だった。窓が開け放されていて、これが室内の気温を下げている原因だろう。
 七条は辺りを鋭く観察する。ベッドには人の寝た形跡はないが、カヴァの上に慶吾のものと思われる男物のコート、スーツ、ワイシャツなどが散らばっていた。
「遺体はパジャマ姿でした」
 警官の言葉に頷く。
 次に目に付いたのはベッドヘッドのグラスだった。水だろう、透明な液体が半分ほど入っている。その横には銀色の薬の包み。いくつかは中身が空になっていた。
 コートのポケットから手袋を取り出してはめ、薬をつまみ上げる。それは、昔彼自身も服用したことのある薬だった。
 かつて抱えていた大きな事件。新婚にも関わらず、七条は家に帰る間もないくらいに働いた。色々と難しいところのある事件で、財界や政界の大物も数名逮捕された。その事件が片付いた頃には七条はすっかり不眠症になってしまっていて、妻に薦められた彼は神経内科に通院することになった。そのとき処方されたのが、確かこの薬。
 何かと問題を引き起こしがちな安定剤の中では比較的副作用が少なく安全性が高いため、割と広く処方されているらしい。うつ病にも効果があると聞いた。
 桐生慶吾は何か心身症を患っていたのだろうか。これは彼の同僚――みな医療関係者だが、彼らにも話を聞いてみなければならない。
 七条は手にした薬を元の場所に置き、開いている窓の側へと歩み寄った。
「…………」
 桟の高さは一メートル二十センチほど。誤って落ちるほどは低くない。桐生慶吾は百八十センチ近い長身だったが、それでもここから事故で転落することは考えにくいだろう。
 床にはスリッパが一足脱ぎ散らかされていた。つま先が窓の方向を向いている。
「警視」
 背後に誰かが立った。七条はその気配に振り向くと同時に声の主に思い当たり、緊張を解いた。原野だ。
「少し奇妙な証言があります」
「奇妙な……?」
「ええ」
 原野は手元の手帳を見た。
「桐生慶吾が落下した直後に、火の玉が目撃されているんです」
「火の玉?」
 七条は眉をひそめる。
「それってあれか、あの青いやつ……」
「いいえ」
 原野は首を振った。
「赤い炎が、ふわふわと空中を漂いながら落下していたそうです。大きさなどは良く分からないと言うことでした」
「火の玉……ねえ」
 七条は首をひねる。
「見間違いじゃないとしたら、何か意味があるんだろうかなあ……」
「ホテルの者に聞きましたが、今まで火の玉なんて聞いたことがないと」
「まあホテルも客商売だしな。そんな噂が立っては大変だろう」
 とはいえ人の口に戸は立てられない。今回の事件はホテルにとってはとんだ災難だろうと七条は思った。
 ふと、思いついて原野に告げる。
「もしかしたら誰かが何かの証拠品を燃やして投げ落としたのかもしれない。一応下にそんなようなものがないか、探してみる必要があるな」
「はい」
「朝になったら捜索させよう」
 七条は頷いた。彼の背後では捜査員が何人も行き来してホテルの部屋中を調べている。千影少年の部屋も調べられているはずだ。そう思うと少し心がざわめいた。
 彼は今何を思っているのだろう。どんな顔をしているのだろう。あの暗い瞳に、一体何をうつしているのだろう……。
「そういや、炎にやたらと縁のある事件ですね」
 原野の呟きに七条は我にかえる。
「最初の事件でも家が燃えましたし……、もし今回の火の玉も関係あるなら……」
「……そうだな」
 家が燃えた理由は未だに良く分かっていないが、放火であることは間違いない。家に撒かれていた灯油が何よりの証拠である。しかし一体誰が放火したのか。殺人との関連は。そして最大の謎――桐生美里の死因は。
 聞き込みによると、桐生美里の評判は近所でかなり良いものだった。礼儀正しく、近所づきあいもきっちりこなしていたという。優秀な息子を育て、体の悪い姑の面倒を見る。ともすれば誰彼なく嫁の悪口を聞かせる姑とは対照的に、家庭のことは決して口にしなかった。慶吾がやや高圧的な態度であったということもあり、美里は桐生家の中で誰よりも好印象を与える人物だったというのだ。彼女の美しさも、またその好評判に一役買っていたのかもしれない。
 そのためか、警察の度重なる聞き込みにも多くの者が協力してくれた。しかし、不審人物の目撃情報は今のところあがっていない。
「本当に、あのお姑さんは何が不満だったのかしらねえ……」
 良妻賢母を絵に描いたような人物だった、と言った彼女の隣人は眉をひそめてそう付け加えた。
 美里の生前の顔を思い出すと同時に、七条はその息子を思い浮かべた。彼らは本当にとても良く似ている。
 母が、そして家が燃えているとき、彼は図書館にいた。何も知らずに勉学に励んでいたのだと思うと、七条は胸が痛む。彼の妻は今妊娠中だ。自分の子供の運命がどのようなものになるかは分からないが、親としてあんな目にだけは遭わせたくないと思う。少年の運命は、あまりに苛酷に過ぎた。
 あの少年は、これからどうやって生きていくのだろう……。
 ふと、七条は窓の外を見遣った。いつの間にか夜の闇がずっと天高くまで押し上げられ、地平線が徐々に白い光によって塗り潰されている。
 夜が明け始めていた。