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File.3 Spiral 1~2

この腕が伸びて 枝や茎になり
あなたを忘れる事で 天にまで届く

  1

 その日は前週からの寒気が緩んで、その年初めての小春日和となった。
「…………」
 名門私立中学校の制服に身を包んだ長身の少年が、警察署の前に佇んでいる。道行く人が思わず注目してしまうほどの整った容姿の持ち主だが、彼自身はそんな視線には全く無頓着だった。
 辺りは既に夕暮れにさしかかっている。冷たい風が吹き始めた頃、少年は意を決したように署の中に入った。
 多分、彼を待っていたのだろう、一人の男がエントランスに置かれている固そうなソファからすぐに立ち上がった。濃紺のスーツを着た、体格のいい三十代の男性である。
「桐生千影君だね?」
「はい。授業があったので遅くなりました」
「中学一年生だったっけ」
「はい」
 少年は目を伏せたまま、男を見ない。──無理もないか。男は漏れそうになったため息をかみ殺し、すぐに穏やかな表情に戻った。
「この間も名乗ったと思うが、私は七条。七条一騎だ」
「はい」
「悪いが、今日もちょっと話を聞かせて欲しい」
「はい」
 少年はただ頷くだけ。見事な造形を持つその顔は、冷たく凍てついていた。
「…………」
 七条は少しためらい、やがて口を開く。
「本当に、すまない」
「…………」
 少年の黒耀石のような瞳が、不思議そうな色を湛えた。
「何故、七条さんが謝るんです?」
「……分からない」
 七条は自嘲のような笑みを浮かべた。――私は君に何もしてあげられない。その悲しい瞳を、微笑ませてあげることもできない……。
少年は黙ったまま俯いていたが、やがて顔を上げた。相変わらずの無表情。だが、その瞳に映る暗い炎の色に、七条は息を飲んだ。
「僕、分からないんです」
「…………」
「母と祖母を殺して」
 淡々とした声に、七条の胸が痛む。
「自宅に火を放った犯人」
「…………」
「その犯人を憎めば」
 少年の唇は色を失っていた。
「僕は、楽になれますか」
「……桐生、君……」
「分からないんです」
 七条は言葉を失った。――どうしたらこの少年の心が救えるのだろう。どうしたら彼は楽になれるのだろう。
 俺は、無力だ。七条は奥歯を噛みしめた。
 ──いつか犯人が捕まったとして。
 警察官として、それは考えてはならないこと。しかし七条の思考は止まらない。
 ──この子はまた心から笑えるようになるのだろうか……。
「行こうか」
 七条は少年を先導して歩き始める。
「…………」
 少年の体がかすかに震えていることに、彼は気が付かなかった。

  2
  
 一辺が数メートル四方ほどの、小さな部屋。少年をそこに連れてきた七条は、振り向いて尋ねる。
「何か飲むかい?」
「いえ……」
「私はコーヒーをいれるけど、紅茶と緑茶もあるよ」
「じゃあ……」
 少年は少し首をかしげ、やがて答えた。
「僕もコーヒーをいただけますか」
「ああ」
 七条は頷いた。もちろんインスタントである。
「砂糖とミルクは?」
「ミルクだけ、お願いします」
「わかった」
 七条自身はブラックで飲むつもりだ。
「ちょっと、座って待っていてくれ」
 部屋の隅に置かれたポットからお湯を注ぎ、軽くかき混ぜる。
 少年は言われたとおり、中央に置かれたオフィスチェアに腰掛けた。同じ椅子がもう一脚、小さなテーブルを挟んだ向かいに置かれている。
「はい。あまり美味しくはないかもしれないが」
「いいえ」
 少年は少しだけ微笑んだようだった。
「いただきます」
「……どうぞ」
 七条は熱いそれをすする。苦く、それでいてどこかすがすがしい味が、すうっと体にしみとおっていくようだった。
「まず」
 少年が僅かに身じろぎする。
「あの日以前に何か、変わったことはなかった?」
「変わったこと……ですか」
「ああ」
「…………」
 少年は首を傾げる。
「僕は覚えていませんが、父は何か言っていませんでしたか」
 七条は桐生慶吾の顔を思い出した――目の前の少年とは全く似ていない。似ているところがあるとすれば、長身であることくらいだろう。きっと、少年は母親似だ。彼女は死に顔すらなお美しかった。
「特には、聞いていないな」
「……そうですか」
 少年は落胆したような表情を浮かべた。七条は問いかける。
「不審な人がいた、とかは?」
「以前小さな女の子を狙う変質者が出て、地元で注意を呼びかけていたこともありましたけど……それは先月捕まったようでしたし」
「ああ、そうだったね」
 七条は頷く。
「放火事件もなかった……」
 少年は音も立てずにコーヒーを一口飲んだ。
「犯人の目的は物盗りではなかったようだが、通り魔的な犯行とも思えないんだ」
 七条は手をテーブルの上で組み、少年を真っ直ぐに見つめる。
「怨恨か……逆恨みも含めて、どう思う?」
「どうって」
 少年の瞳が当惑する。七条は言い換えた。
「君たちの家族の誰かが、何かトラブルに巻き込まれたことはなかった?」
「トラブル……ですか」
 彼の唇が不意に歪む。それはまるで嘲笑のようであり、そしてその嘲りの相手はきっと自分なのだろうと思わせられる、ひどく苦いものだった。まだ十三歳そこそこの少年が見せる顔ではない。
「僕の家族は、いつもトラブルを抱えていましたよ」
「え?」
 七条は思わず聞き返す。そんな話は、桐生慶吾からは何も聞いていない。
 少年は目を伏せる。長い睫毛が、その色を覆い隠した。
「僕らはもう、家族じゃなかった。バラバラだったんです」
「それは、どういう……?」
「きっと近所の人も知っていると思うから、僕が隠したって仕様がないので言いますが」
 少年が顔を上げる。今の彼を支配しているのは、まぎれもなく怒りだった。
「母と祖母の折り合いは、とんでもなく悪いものでした。そして」
 少年は、まるで吐き捨てるような調子で続けた。
「父が見てみぬふりを続けている間に、全ては取り返しのつかないところまで進んでしまっていたんです」
「取り返しの……つかないところ」
 七条は呟いた。
 嫁と姑の仲が悪いことは良くある。幸運にも七条の家庭はそうではなかったが、彼の同僚にも愚痴を零すものはいたし、彼の妹もそこそこ苦労はしているようだった。だからといって、まだ中学生の子供がこんな表情をしなければならないほど深刻なものはそう多くはないだろう。
 少年は頷く。
「祖母は母を虐めるのを生きがいにしているような人間でした。母の実家は遠方ですから、頼れるのは父しかいなかったのに」
 母の苦しみの全てを無視していたのだ、と少年は言う。
「僕も祖母が実際に母に何をしていたのかは知りません。母は決して祖母や父の悪口を僕には言わなかったから。でも……」
 真夜中に目が覚めると、母の泣き声が聞こえる。数年、いやもっと前から、少年にはその原因が分かっていた。
「母は耐えていました。実家の両親を心配させたくなくて。離婚するのも迷惑が掛かる、と……そして、僕ものことも……あったから……」
 少年は徐々にこうべを垂れる。肩を落としたその姿は、まるで彼が一回り小さくなったようだった。
「…………」
 七条は自分の感情を押し殺し、頭を回転させる。
 ――桐生美里が日頃の鬱憤を爆発させて桐生時子を殺し、自らの命を絶ったというようには考えられないか……。
 だがそれでは矛盾が生じてしまう。一体、誰が美里の足元から脚立を取り除いたのか。誰が家に火を放ったのか。火元は時子の部屋である。美里が火を放ってから自室に戻り、首を吊って死んだと考えるのも妙な気がした。
 ――そもそも、何故火を放つ必要があったのか。誰も火災そのものを原因にして死んではいないのである。
 ――自分が殺したことを知られたくなかったからか……。
 七条は腕を組んで小さく唸った。
 実際、他殺を焼死に見せかけようとするための放火は数多く存在する。だが、焼死と死後に焼かれたものとは区別可能なのだ。
 例えば熱傷。いわゆる第一度熱傷と言われる紅斑、第二度熱傷である水疱、第三度熱傷の蒼白の皮膚壊死は、生活反応であり死体を焼いても生じない。逆に言うと、これらが全く見られない焼死体は、死因が焼死ではない死体、ということになる。だが、死体が完全に炭化している場合はこの限りではない。これは第四度熱傷と言われるが、この熱傷のみは死後でも生じる。
 犯人がこのことを知っていたかどうかは分からないが、今回の場合はどちらの遺体も完全には炭化していなかった。時子の遺体には僅かに第四度熱傷部分が見られたが、両遺体ともに生活反応は一切見られなかった。
 もし美里が時子を殺したのではなく、第三者が自分の犯行を隠す目的で火を放ったとするならば――。
 七条の思考ははたと止まった。
 ――何故美里の脚立を外しておきながら、首吊り状態をそのままにしておいたのか。自殺の偽装だとするならばあまりにもお粗末であり、他殺を放火によって隠したかったのだとするならばわざわざ遺体をカーテンレールから吊り下げておく理由が分からない。
 一体この犯人が何をしたかったのか、七条は理解に苦しむのだった。
 深い思考の渦から七条を引き上げたのは、少年の声だった。
「母さんの代わりに」
 七条が聞いていると分かっているのかいないのか、少年は小さく呟く。その瞳には光がなく、まるで人形にはめ込まれた美しいガラス玉のようであった。
「父さんが死ねば良かったんだ」
「……桐生君?」
 七条の声に、少年ははっと顔を上げる。
「コーヒーが冷めるよ」
 穏やかに告げる彼に、少年は一瞬だけ探るような視線を投げた。
「…………」
 七条は全く動じないで彼を促す。少年は一息に残りを飲み干した。
「……ごちそうさまでした」
 カタン、とカップをテーブルに置いた音が大きく響く。
 七条は未だ何もつかめないまま――ただ、この少年のことが気がかりだった。
 
 事件の解明が進まないまま、二週間が経った頃――桐生慶吾が死んだ。