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File.2 Whirlwind 7~9

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 一九八×年二月十日午後二時半頃、都内M区T地区内で「住宅が燃えている」と消防車出動要請の電話があった。通報したのは火元である桐生慶吾(当時四十五歳・医師)宅の隣人、沼野紀美子(当時五十六歳・主婦)。
 午後三時前に火は消し止められたが、結果二階建ての住宅一棟が半焼した。近隣への類焼などはなかった。
 焼け跡から女性二人の遺体を発見。身元は桐生美里(当時四十二歳・主婦)、桐生時子(当時六十九歳・無職)と確認された。
 灯油を撒かれたような跡があること、焼死体から生活反応が見られなかったこと、二人の死亡状況が不自然であることなどから、T警察署は放火、殺人容疑で捜査を開始した。

 死者の状況は以下の通りである。
 桐生美里は二階寝室にて首吊り状態で死亡していた。ただし部屋には踏み台になるようなものがなく、自殺と断定するには至らなかった。
 桐生時子は一階和室の布団の中で死亡しており、後に絞首による他殺であると断定された。
 前者に着衣の乱れなどは見られなかったが、後者は熱傷による死体損壊が著しく、他の創傷があるかどうかは確認できず。死亡推定時刻は二月十日正午前後。

 同居家族は以下の二人であり、二月十日の行動に関しては詳細に判明している。
 桐生慶吾はその日、勤務先である都内の総合病院に出勤していた。午前七時に車で出掛け、午前八時半に勤務先に到着して以降は常に同僚、患者と共にいたことが確認されている。
 桐生千影(当時十三歳・中学一年生)は当日が土曜であり、午前中は学校に登校。昼食をとるために一時帰宅しており、その時には二人とも健在であったという。彼は午後一時頃近所の図書館に出掛けたため、犯行はその後行なわれたのであろうと推測される。
 
 消防隊が到着した際には玄関扉の鍵が閉まっていたこと、撒かれていた灯油は該当住居で所持していた石油ヒーターのために買い置きされていたものであること、現金や貴金属には全く手がつけられていないこと、以上を考え合わせると単なる強盗放火事件であるとは考えられず、怨恨が動機となっている可能性も考えられることから、桐生慶吾、美里夫婦の交友関係などを中心に捜査を進める方針。
 また、桐生美里の殺害方法に関しては被害者二人の司法解剖を担当したT大医学部法医学教室助手・篠原素の協力を得ながらなお検証する。
 
  * * *
 
 
  8
  
 その日は朝から雨だった。だが、今は雨音が聞こえない。
 BGMにするには少々耳障りな喧騒がそのカフェを満たしていた。本来耳を楽しませるべき音楽は既にかき消されてしまっている。
「…………」
 草摩はぼうっと目の前のカップを持ち上げ、中身が空であることに気付いてソーサーに戻す。同じ仕草を何度か繰り返したような気もするが、よく覚えていない。
「お水、もらう?」
「あ、……」
 絵音に尋ねられ、草摩はまるで夢から覚めたばかりのように二三度瞬いた。確かにグラスに満たされていた水も空っぽになってしまっていた。氷すら残ってはいない。
「そう、だな」
 独り言のように呟くと、絵音は黙って辺りを見回し、軽く手を上げた。ウェイトレスが足早に近づいてくる。絵音が草摩のグラスをかすかに持ち上げてみせると、彼女は察したように頷いて一端身を翻した。
「…………」
 草摩はテーブルの上に載ったカップが落とす影の形を視線でなぞっていた。特に意味のある行為ではない。
 二人の目の前のグラスに水が注がれる。ウェイトレスの立ち去る足音がいやに大きく聞こえた。
 ふっと、空気が揺れたような気がした。視線を上げると、絵音が行儀悪くテーブルの上に肘をついてこちらを眺めていた。濃い睫毛が瞳の中に影を落としている。
「……帰る」
 ぽつりと呟かれた言葉の意味を理解する暇すらなく、絵音はあっという間に席を立っていた。
「え?」
 草摩は慌てて立ち上がる。振動で、テーブルの上に載せられていた千円札がふわりと床に落ちた。いつの間にか絵音の置いたものなのだろう、草摩は拾い上げる。
 ――気付かなかった。草摩は唇を噛み締めた。絵音が財布を出していることにも……何も。いつもだったら気付かないはずのないことなのに。
 そういえば、今日は普段の二人ではなかった。いつもなら話の種は尽きることがない。気がついたら何時間も経っていた、ということが良くある。それなのに、今日は待ち合わせのときからほとんど話をしていなかった。どこか上の空だった草摩に、彼女が向けていた視線は、初めは確かに心配げなものだった。だが、そんなことにすら自分は気付かなかった。――悪いのは自分だ。
 持ち上げた鞄がずしりと重い。中に入っているのは紙の束。昨夜草摩が印刷したもので、内容は篠原からもらったPDFファイルのうちの一つ。家に置いておくのも憚られたため、こうして持ち歩いているのだ。
 草摩はテーブルの上に立てかけた傘を引っ掴み、慌ててレジへ向かった。既に絵音は外に出ている。
 自動ドアが開くと同時に、真冬の冷気が彼の体を包んだ。だが、雨音は聞こえない。いつの間にか、雨が雪に変わっていたことに気付いた。
 白いコートに包まれた絵音の背中は、雪にかき消されそうだ。傘を小脇に抱えて足早に歩み去る後姿はとても小さく、寂しげだった。
 草摩は駆け出す。
「絵音!」
 周りの人が何事かと振り向くが、草摩はそれらの視線を全て無視した。
 絵音は振り返らない。
 草摩は呼びかけるのを止め、ただ追いつくことだけを考えた。雨と雪に濡れた歩道に幾度か足を滑らせそうになりながら、草摩は絵音を追う。
 草摩が彼女の腕を掴むのと同時に、絵音が足を止めた。 
「前、言ったでしょ」
 静かな声。小さく、それでいて草摩の耳にははっきりと届く。彼女は彼の腕を振り解こうともしない。
「『私を嫌いになったらすぐに言って』って」
「…………」
 覚えている。確か、付き合い始めて間もない頃のことだ。その言葉を聞いて草摩はひどく驚いた。
「その時、理由を聞かれたけど、私は答えなかった」
 絵音がゆっくりと振り向く。泣いてはいない。その視線は強く、しかし無表情の仮面が張り付いていた。
「貴方にその理由が分かる?」
「……ごめん」
「何を謝っているの?」
 絵音は嫌味ではなく、本心から不思議そうな表情で問い返す。草摩は口ごもった。
「俺……今日、おかしかっただろ? だから……」
「何か気に掛かることがあるのならそちらに専念すればいいの。何もわざわざ無理して私に会う時間を取ってくれなくたっていい。もっと大切なことがあるなら――そんなの、いくらでもあるでしょう?」
 絵音は自嘲のような笑みを浮かべる。
「私より大切なことなんて、いくらでも」
「違――」
「とにかく」
 絵音はようやく草摩の腕を振り払った。
「今日は帰るわ。懸案事項が解決したら、また会いましょう?」
「違うんだよ」
 草摩はもう一度彼女の腕に手を掛ける。
「お願いだから、聞いて欲しい」
「…………」
 絵音は目を伏せたまま草摩を見ない。
「今、すごく悩んでいることがあるんだ。だけどそれは俺の身内のことで」
 ――ぴくり、と絵音が体を震わせた。
「絵音に相談したかった、だけどその人のプライヴァシイにも関わることだし、どうしていいか分からなかった。だから……」
「理由は、この際どうだっていいの」
 絵音は草摩の言葉を遮った。
「貴方が気付いていたかどうかは分からないけれど、私今日会ってからずっと、心配していたの。どこかしんどいのかな、体調が悪いのかな、機嫌が悪いのか、私が何かしたのだろうか、って……ずうっと考えていた」
「…………」
「何度か尋ねたりもしたけれど、貴方はずっと生返事だった。そうよね?」
「……ごめん」
 草摩は俯いた。雪が髪の上で溶け、頬を冷たい滴が滑り落ちる。
「今日はもう――疲れちゃった」
 絵音はぽつりと呟いた。
「…………」
 草摩は言葉を失くす。しかし――このまま帰らせるわけにはいかない、そう思った。知らず知らず、彼女の腕を強く掴む。
「ごめん……本当にごめん」
「…………」
「けど、さ」
 草摩は少しずつ手の力を緩める。
「絵音、気付いている? いつだってデートに誘うのは俺の方なんだよ」
「…………!」
 はっと息を呑む音が聞こえた。
「俺だっていつも考えてる。本当に絵音は俺と会いたいんだろうか、俺のことを少しでも好きだと思ってくれているんだろうか、俺が誘うから仕方なく出てきてくれているんじゃないだろうか……って」
 絵音が顔を上げる。困惑を浮かべたその表情に、草摩は苦笑した。
「だって、付き合い出してもう三ヶ月以上経つけど、絵音は一度だって自分から『好きだ』って言ってくれたことない」
「……だって」
 小さく尖らせた唇が可愛らしい。
「だって、何?」
 意地悪く尋ねると、絵音は再び腕を振り解いた。けれどさっきのような乱暴なものとは違う。草摩はそのことに気付いて安堵した。
「い、今そのこととは関係ないじゃない!」
「そうだね」
 草摩はあっさりと認める。
「だけど、俺は『絵音に帰って欲しくない』ってはっきり言うよ。それにさっきまでのことは謝る。絵音はどうする? それでも帰りたい?」
「…………」
 絵音は少しの間だけ黙って、やがて腕時計に目を落とした。
「まだ夕飯の時間には間があるわね」
 独り言のように呟く。
「体が冷えちゃったわ。暖かいものが飲みたい」
「…………」
「おごって」
 絵音はぶっきらぼうに言う。草摩はくすりと笑った。
「いいよ」
 草摩の差し出した手に、絵音は自分のそれを重ねた。
「――会いたくなかったり嫌いだったりする人に」
 絵音は足元を見つめながら草摩に引っ張られて歩く。
「毎週わざわざ時間とって会わない」
「…………」
 草摩は敢えて彼女の顔を見なかった。
「嫌いじゃない、だけ?」
「…………」
 しんしんと降り積もる雪。草摩の黒いコートは細かな水玉模様のようになっている。
「……好き、よ」
 怒ったような声で呟かれた言葉。
「……うん」
 草摩はそれで十分満足だった。
 

  9
  
 雪まみれになった彼らが駆け込んだのは、先ほどのカフェから少し離れた全国チェーンのコーヒーショップだった。草摩が以前篠原と会ったのも、同じ系列の店である。
 暖かい紙コップを両手で持ちながら、絵音が草摩を見つめた。
「そういえば、さっき言っていた身内って」
「うん?」
 草摩は少し気まずげに絵音を見返す。まだ絵音に話していいものか、彼の中でその答えは出ずにいた。
「桐生さんのことじゃない?」
「……え?」
 虚をつかれた草摩は、ぽかんと口を開けた。
 確かに自分には両親がいない。絵音の知る草摩の身内は桐生だけだ。しかし実際は父の妹である叔母、その息子の従兄弟もいる。親戚が皆無な訳ではないし、絵音もその程度のことは予想していただろう。だが何故彼女は桐生のことだと分かったのか……。
「母さんが仕事でもらってきた雑誌にね」
 絵音はカップの蓋を開けた。途端に吹き上がる湯気。猫舌である彼女が飲めるようになるまではまだまだ時間が掛かるだろう。
「桐生って名字の被害者の……迷宮入り事件が載っていたの」
 草摩の脳裏にちらりと葉山の顔がかすめた。だが、記事を書いたのは別人かもしれない。
「被害者一家の中で一人残された少年って、桐生さんの年齢を考えるとぴったりだし……」
 絵音はぽつりぽつりと言葉を継ぐ。彼女自身、ずっと気に掛かっていたのだろう。だが、彼女は草摩に尋ねていいものかどうか迷っていたのだ。
「ふう……」
 草摩は大きく息をついた。ごくり、とコーヒーを飲む。彼はシナモンをプラスするのが好きだった。
「絵音の思っている通り。それは多分、桐生の両親の話だ」
「……そう」
 絵音は少し瞼を下ろす。長い睫毛がわずかに震えていた。
 草摩はカップをテーブルの上に置いた。
「そして俺は、親父が辿り着きながら表沙汰にはしなかった『真実』を――今更だけど、検証しようとしている」
「え?」
 絵音は大きく目を見開いた。草摩は深く頷く。
「『真実』――親父の掴んだそれと、俺の思うそれは違うかもしれないけれど」
 草摩は傍らに置いた鞄から紙の束を取り出す。細かい文字がびっしりと印字されたそれに、絵音はさらに目を丸くした。
「それでも――桐生のことだから」
 草摩は軽く目を閉じた。
「俺は、知りたい」