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File.2 Whirlwind 5~6

  5
  
 雪村初子(はつこ)は、玄関を開けた矢先に夕食の匂いを感じて目を細めた。
 大学に入学したての頃には包丁を握る手つきすらおぼつかなかった娘が、今では大抵のものならレシピを見さえすれば作ることができる。
 たった八ヶ月。それとも、もう八ヶ月が経ったのか。夫の孝太郎(こうたろう)と別居してから、いつしか半年以上の月日が流れていた。
 自分は恵まれていたと思う。ちょうどその頃、高校時代に仲の良かった同級生の立ち上げた会社が軌道に乗り、人手を必要としていた。美術の教員免許しか持たない、しかも実際は教職にもついたことのない自分が、何故か今、かつての自分には思いも寄らない世界で働いている。――まさか、自分がマスコミに関わることになるとは。
 初子は器用だった。それは自分でもそう思うし、昔から親にもそう言われていた。友達も誰もが口を揃えてそう言った。料理だって人並み以上にできたし、裁縫も編み物も、好きではなかったが挑戦すれば洋品店を営む友達が「店頭に置きたい」というほどの腕前を発揮した。華だって見よう見まねですぐに生けられるようになったし、字もそこそこ上手に書ける。高校時代まで習っていたピアノも、一時は音大へ進もうかと考えたほどだった。結局、彼女は美術を志したのだけれど。
 ――いや……自分は器用などではない。初子は思う。器用貧乏なのだ。どうしようもなく。
 何だって人並み以上にできた。勉強も、運動もできた。けれど、何一つ大成しなかった。今春までの初子は、毎日毎日好きでもない家事に追われて、身勝手な夫に振り回されて――別に初子でなくとも良いことばかりをしていた。
 そんな生活の中で一つだけ、育児だけが彼女の生き甲斐だった。彼女には娘と息子が一人ずついる。娘は今年無事第一志望に合格した。来春には息子の受験を控えている。勿論心配ではあるが、模試の結果を見る限りでは多少気楽に考えても罰は当たらないだろう。本人には決して言わないことではあるが。
 娘――絵音には、ひとまず道が拓けた。大学に入ってからも勉強しなければならないことは多いのだろうし、医学の分野など初子にはまるでちんぷんかんぷんだから、不安もある。しかし、それでもひとまず大学に入学できたのだ。後は絵音自身の力で進んでいかなければならない。当然、手助けが必要ならばいつだって手を差し伸べる準備はできている。
 彼女が一番恐れているのは、娘が自分のようになることだ。絵音も自分と同じで器用だ。何をやらせても大抵のことは上手くやる。今だって要領良く家事をこなしているし、大学でもいい成績を修めているようだ。先日彼氏の誕生日に焼いたケーキは、初子がレシピを教えてやったとはいえ良い出来だった。さぞかし彼氏は感激していたことだろう。そう思うと初子も嬉しい。
 だが――いや、だからこそ心配だった。杞憂なら良いと思う。けれど、どうしても考えずには要られない。娘には――絵音には、自分のようになって欲しくない。
 望む仕事を目の前にしながら、彼女は結婚で全てを失った。時代のせいもあっただろう。初子が二十代の頃、二十五歳を過ぎた独身女性に対する風当たりは今では考えられぬほど激しく、強いものだった。
 初子の親の焦りもあり、彼女は二十七歳の時に見合いで結婚を決めた。学歴も年収も十分で、周囲にはこれ以上の相手はいないとさえ言われた。一つだけ辛かったのは、相手が遠方で職についていたことだ。彼女は引越しを余儀なくされ、お陰でその時決まりかけていた仕事にはつけなかった……。
 そして、今ではこのざまだ。五十を目前にして夫と別居している。
 もし親切な同級生が雇ってくれなければ、彼女は途方に暮れていただろう。それとも無理に無理を重ねて仮面夫婦を続けていただろうか。子供たちにも、とっくに分かっていることだというのに?
 ――だからこそ、絵音には後悔しない生き方をして欲しい。好きなことを好きなだけやって欲しい。勿論彼女が家庭に入ることを自分の意思で選ぶのなら、初子は反対しない。勿体ないとは思うけれど、彼女の人生だ。けれど、もし泣く泣く仕事を辞めるというのなら――自分は黙ってはいられない。子育てに不安があるのなら自分が手伝ってやる。だから、決して夢だけは捨てないで欲しい。
 それが、初子の願いだった。
「お母さん? 帰ったの?」
 キッチンから絵音が顔を出す。初子ははっとした。玄関先でぼうっとしていたらしい。照れくさそうに笑った。
「ごめんなさい。ぼんやりしていたわ」
「大丈夫?」
 絵音が心配そうに眉をひそめる。初子は首を横に振った。
「いい匂いがしたから、思わずね」
「何それ」
 噴き出す娘の顔を眺め、初子は思う。私は、これだけは後悔しない。二人の子供をもうけたこと。これだけは、絶対に。
 
 
  6
  
 夕食を終え、洗い物を終えた初子はダイニングルームのソファに腰を下ろした。
 ――そういえば、夫の方が出て行ってくれたのも幸運だったな。そんなことを思いながら、鞄から雑誌を一部取り出す。彼女がグラフィックデザイナとして関わった広告の載っているもので、見本誌を一部もらってきたのだ。
「あ、見せて見せて」
 絵音が隣に座る。紅茶の入ったマグカップを両手で抱えていた。
「いいもの飲もうとしてるじゃない」
 意地悪く初子が指摘すると、絵音は眉を下げる。
「さっきいれようかって言ったら、要らないって言ったじゃない」
「さっきはコーヒーって聞いたもの。コーヒーはね、会社で飲んできたから要らないって思ったの」
「そんな」
 絵音は唇を尖らせた。
 綺麗になったな、と思う。親の欲目だろうか。いや、そんなことはない。絵音は本当に綺麗になった。だからこそ――新たな心配が生じてくる。子供が大人になっても、親の心配は尽きないのだ。
「じゃあいれてこようか?」
「いい。一口もらうから」
 といって初子は絵音のカップを奪い取った。
「あ」
「うーん、美味しい」
「いれてくるのに……」
 先程よりも水位の下がったカップをうらめしげに見つめ、絵音は呟いた。
 初子はまあまあ、などと言いながら手元の雑誌に目を落とす。ふと、ある記事に目が留まった。それは自分の仕事とは全く関係のないところだ。
 ――平成の迷宮入り殺人事件。
 なるほど、平成も十五年を超えてから数年が経つ。殺人事件の時効が確か十五年だから、そろそろ迷宮入りした殺人事件が出てきてもおかしくはない。
 横から覗き込んでくる娘が首を傾げている。長い髪が初子の頬をかすめた。そういえば、絵音は大学に入ってから髪を伸ばしている。
「どうして時効なんてあるのかな」
「さあねえ」
 初子も首をひねった。予算の問題だろうか。
 民事の時効の概念については聞いたことがある。権利は、行使しないものからは剥奪されてしまうのだという。つまり、お金を貸して相手に逃げられても、取り立てようとする意思がなければ、法律は守ってくれない。
 だが刑事事件の場合は違う。もし自分の大切な人が殺されて、十五年後に警察から「もう捜査をやめます」と言われたら――初子はぞっと身を震わせた。
「これじゃ逃げるが勝ちよねえ」
 絵音は初子の持つ紙面に目を近づけた。彼女は近眼である。コンタクトを入れて矯正しているはずだが、足りないのだろうか。
「貴方、また目が悪くなったんじゃないの?」
「さ、さあ」
「駄目よ、暗いところで本読んじゃ」
「あは、は……」
 絵音が引きつった笑い声を上げ――やがてそれがぴたりと止まる。
「?」
 初子は隣の娘の顔を見る。
「どうしたの?」
 娘はぽかんと口を開けていた。
「…………?」
 怪訝に思いながらも視線を辿る。そこにあったのは写真だった。
 
 ――平成×年 医師宅放火殺人事件被害者の桐生美里さん(当時四十二歳)
 
 綺麗な女性だと思う。女優だと言っても通じそうだ。
「絵音、どうしたの?」
「う、ううん……」
 娘は口ごもった。
「知り合いにね、そっくりな人がいて」
「この人に? 随分綺麗な人なのね?」
「そうね」
 絵音は頷いた。だがその頬には血の気がない。余程驚いたと見える。彼女の目は忙しく記事を追っていた。
「…………」
 声を掛けようかと思い、やめた。
 初子もまた記事を読み、やがて彼女の脳裏に記憶が蘇ってくる。当時、マスコミを大いに騒がせた事件だった。
「そういえば……」
 初子の呟きに絵音がぴくりと体を震わせる。
「確か、中学生くらいの子供さんが一人遺されたのよね。お母さん、無念だったでしょうに」
 初子は心からそう思った。
 普通、親は子供より早く死ぬものだ。子供に先立たれるなど、考えたくもない。だができれば――子供が成人し、もう自分がいなくなっても大丈夫だと見届けてから死にたいものだと思う。だから、今はまだ死ねない。せめて、絵音が大学を卒業して就職し、息子が――速見もまた一人前になってから。そうなったなら、もう自分の命がいつ尽きようと、それは大した問題ではない。むしろ、できれば子供たちには迷惑を掛けたくないと思う。
 一度絵音にそう洩らしたら激怒された。
 ――子供が親を必要としなくなることなんてあり得ない!
 初子は珍しく声を荒げた彼女に戸惑ったものの、嬉しかった。確かに、そうだ。初子は今でも両親を必要としている。いつまでも元気でいて欲しい……。
 初子は、二人揃って喜寿を超えた両親を思った。彼らは兄の家族の近くに住んでいる。そういえば、最近会っていない。
 ――実は、初子はまだ彼らに夫と別居していることを話していないのだった。年老いた両親に心労を掛けたくない。無論それも理由だったが、どちらかというと初子のプライドが許さなかったのだ。何に対してのプライドかは分からない。だが、初子はそれを誰にも言う気はなかった。彼女が「雪村」の姓を名乗り続けているのもそれが理由である。
「お母さん」
 絵音の声に、初子は顔を上げる。
「その、子供の名前って覚えてる?」
「名前……?」
 初子は記憶を辿り、やがて首を横に振った。
「確か報道されてなかったと思うわ」
「そう……」
 絵音は呟き、ぐっと紅茶を飲み干す。
「何か気になるの?」
「……その、私の知り合いね」
 初子は娘の顔を注視する。
「ちょうど三十代半ばのお医者さんで――桐生って名前なんだ」
「ええ……?!」
 初子は自分の声が裏返るのを感じた。
「まさか……」
「……どうなんだろう」
「知り合いって、どういう」
「草摩君の」
 それは娘の彼氏の名前である。初子は一度だけ会ったことがあるが、感じのいい好青年だったし、娘の命の恩人でもあった。彼との付き合いに反対するつもりはない。
「彼の、保護者なの」
 七条草摩は両親を亡くしているという。そして、遠縁の親戚と同居していると聞いていた。それが――。
「桐生さん、とおっしゃるのね」
 初子は呟いた。
「まさか、ねえ……」
 娘は冗談めかすように言うが、顔は笑っていない。
「…………」
 初子は何も言えなかった。
 無論、その桐生氏がこの事件の関係者だとしても七条草摩には関係がないし、絵音や初子の草摩に対する印象が変わるわけではない。だが身近に迷宮入り事件の関係者がいるかもしれないという事実、それは彼女らの胸に重く圧し掛かった。