instagram

File.2 Whirlwind 1~2

この揺り籠の紐が切れて私が堕ちて行く時
あらゆるルールが 目の前で働けばいいのに

  1

 この街を南北に流れる川には、東西方向に何本もの橋が掛けられている。草摩がそのうちの一つを渡ったのは、彼の誕生日から三日後のことだった。つまり、篠原と初めて連絡を取った翌々日であるる。
 草摩は乗ってきた自転車を、待ち合わせ場所のコーヒー店の前に止めた。家を出てから十数分程度しか掛かっていないが、耳がじんじんと痛い。川原を吹き抜ける強い風に冷やされたせいだろう。
 腕時計を見ると、待ち合わせの時間には十五分以上あった。草摩は自分の方が早く着いているであろうことに安心して、店の中に入る。
「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?」
 愛想良く声を掛けてくる店員に、メニューの、下から二番目のものを注文した。本日のコーヒーにミルクをたっぷりと注いだものだというが、別に今日の銘柄を確認した訳ではない。草摩はそれほどコーヒーに詳しくない。
 注文した品を待つ間、草摩は首を巡らせた。休日ともなれば一日中ごった返す店内も、今日は静かなものだ。平日の昼下がりにゆっくりとコーヒーを飲む者など、ほとんどが暇な大学生か、或いは歩き疲れた観光客か。草摩は自分を前者に含めながら、窓際の席に腰掛けた。小さな飲み口から湯気が細くたなびいている。
 十四時一分前。
 草摩は自分の方へと近付いてくる人物に気付いた。小柄で細身の体を黒いコートに包み、手には草摩の目の前にあるのと同じサイズの紙コップ。中身は分からない。
 男は草摩の向かいの椅子の背後に立ち、眼鏡の奥の静かな眼差しでじっと草摩を見た。草摩はすっと立ち上がる。
「七条草摩です」
「……篠原です」
 軽く会釈。
「わざわざ来てくれてありがとう。お待たせしてごめん」
「いえ」
 篠原が席につくのを待って、草摩は腰を下ろした。
 篠原は亡き父と同い年とのことだが、そうは見えなかった。父、一騎も見た目よりは若く見られる方だったが、彼ほどではないだろう。若作りというのではない。落ち着いたダークブラウンのスーツは年齢相応の深みのある色合いで、ネクタイも地味にくすんだえんじ色だ。だが、彼の顔や物腰は年齢というもの、人生を重ねてきたという痕跡を感じさせない。まるで、生まれてきた時から今まで何も変わっていないかのようで、そして今後もきっと変化しないのだろう、そんな気がした。
 篠原は微笑むでもなく睨むでもなく、草摩を見た。ただ視界の中央に据えているだけの、緩い視線。
 草摩は口を切る。
「お忙しい中すみません。父が何かお預けしていたそうで……」
「うん」
 篠原はあっさりと頷き、鞄から一枚のCD-Rを取り出した。表面が冬の陽光を反射する。
 
「これは、かつて一騎君と僕が関わったある迷宮入り事件の資料の一部始終を、一騎君が独自にまとめたものだ」

 ゆっくりと、しかし淀みなく紡がれる言葉。草摩は目を見開いた。
「もちろん、本来持ち出してはならないものだし、公になったらきっと僕も君も法的に処罰されるだろう」
「…………」
 草摩の手がかすかに震えた。──それでも、父が渡したかったもの。親友の立場を危ういものにしてでも、草摩に託したかったもの……。
 篠原はコーヒーをすする。彼には緊張などないかのようだった。
「これを受け取るかどうかは君次第だ。僕が一騎君に頼まれたのは、君が成人した後にこれの」
 とCD-Rを指して、
「存在を君に伝え、君が望むならこれを渡すことだけ」
 彼は何故か左手をぴんと広げて見せた。薬指に細いリングがはまっている。
「それで必要十分なんだ。君がどうするかは君自身が決めればいいことで、僕の関知するところじゃない」
「でも」
 草摩は口を開いた。
「俺の決断次第では篠原先生にも迷惑が掛かります。先生が関知しなくても、俺は」
「先生?」
 篠原は不思議そうに首を傾げた。
「何故、先生と?」
「…………」
 草摩は少し困ったように眉を寄せたが、
「桐生に、T大の助教授だと聞いたから」
「ああ、なるほど」
 篠原は単に疑問に思ったことをそのまま口に出しただけらしい。すぐに話を戻した。
「君はどうする? 僕は君の意思を尊重する」
「…………」
 草摩はじっと机の上のCD-Rを見つめた。表面にはプリズムで七色の光が並んでいる。だがその色たちは何も語ろうとはしない。
「…………」
 篠原は草摩を促そうともせずに、黙ってコーヒーを飲んでいた。
「…………」
 草摩はぐっと膝を掴んだ。ジーンズの生地に指が食い込む。草摩にはこのCDの中身の想像がついていた。

 きっと……、
 これは、かつて桐生が深く関わった事件の資料だ。
 彼が家族全てを失った事件の。

「……らなきゃ」
 草摩は呟いた。
「知らなきゃいけない」
 顔を上げて、篠原を見つめる。
「俺は、知りたいです」
「…………」
 篠原の静かな眼差しを受け止めて、草摩ははっきりと言い切った。
「桐生のことだから」
「……そう」
 あっさりと頷き、篠原の手がCD-Rを彼の方に押す。草摩はそれを受け取った。
「何か聞きたいことがあったら」
 少しだけ……、篠原は微笑んだようだった。力を抜いただけの、自然な笑み。
「いつでも連絡してくれていい」
「……はい」
 草摩は頷いた。篠原もまた、頷く。

 二人はそのまま取り留めのない話──たとえば今の医学部のカリキュラムについてだとか、卒後研修のシステムについてだとか、そんな話をしながらコーヒーを飲んだ。
 暖かな店内に満ちるかぐわしい匂い。
 草摩はひどく穏やかな気分だった。父が篠原と親しくしていた理由が分かる。彼は、とても自然だった。飾り立てていないし、とげもない。シンプルで、無駄のない人格。
「ここは」
 篠原が呟いた。
「禁煙なのが嬉しいよね」
 草摩は頷く。
「そうですね」
 窓の向こうでは、水鳥が耳障りに鳴いていた。
 
 
  2

 雪村家のキッチンには、絵音の掛けた音楽が流れていた。女性シンガーの軽快なポップス。歌詞にはシュールな恋愛観が織り込まれていて、彼女のお気に入りだった。
 絵音は軽く腕まくりをしてたまねぎを刻んでいる。今日はハンバーグの予定だった。
 かちゃり、と玄関の鍵が開く。
「ただいま」
「おかえり」
 絵音は顔を上げる。彼女の一つ年下の弟、雪村速見(はやみ)が帰宅したのだ。彼は高校三年生で、来春大学受験であるる。今日までが、二学期末試験だった。
「試験どうだった?」
「いつも通り」
 無愛想な低い声とともに、廊下からぬっと顔を出す。黒い学生服には白い粉のようなものがついていて、気付いた絵音は眉を寄せた。
「雪?」
「そう」
 速見はそう言うと顔を引っ込めた。絵音は慌てて彼の後を追う。
「洗濯物ならもう取り込んであるから」
「…………」
 速見は振り向いた。絵音の思った通りの行動をとるつもりだったらしい。あまり表情の動かない顔が傾く。
「……何で分かったの?」
「分かる」
 絵音は笑った。
 速見とは、顔はあまり似ていない。お互い彫りの深いくっきりした顔立ちなのだが、母譲りの派手な目元は絵音だけで、速見はすっとした切れ長の目をしている。人間は目元で随分印象が変わるものだ。
「速見君は」
 絵音は自分より十センチ以上背の高い速見を見上げるようにして言う。速見は素早く瞬いた。
「今は自分の受験のことだけ考えて」
「…………」
「最近思うんだ」
 絵音は彼の顔から視線を外した。
「子供は自分のことを考えて、悩めばいい。他人のことを考えているようでも、『自分』がまだ不安定過ぎて視点が定まらないから。……それに」
「…………」
「それが子供の特権なのかもしれない」
「子供と大人の境界は?」
「私は」
 絵音の口元に笑みはなかった。
「大学に入って――大人になろうって思った。もう、大人にならなきゃって」
「…………」
「それまでだって、色々気にしていたつもりだった。でも」
 速見は口を挟まない。
「やっぱりね、全然違ったから……」
 視線が徐々に下へと沈んでいく。
「…………」
 速見が小さく呼気を立て、口を開いた。
「俺が第一志望の大学に入れたら」
「…………」
 絵音は顔を上げた。
「遠くに行ってしまうけど」
 速見の目は優しかった。
「母さんたちのこと、放り出す訳じゃないから」
「……分かってる」
 絵音は微笑んだ。弟のことは良く分かっている。自分ととても良く似た──もしかすると世界で一番近い存在。
「待ってて」
 静かで、力強い声。
「俺もすぐ大人になる」
「…………」
 今更玉ねぎが効いてきたかのように、絵音は目を瞬いた。慌ててキッチンに戻る。
「遅くなるから、続き作るね」
「うん」
 速見は少し湿っている上着に手を掛け、尋ねた。
「ハンガーに掛けて吊っておけば良い?」
「うん」
 絵音は頷き、そして付け足す。
「……頑張ってね」
 それだけしか言えなかった。そして、それだけが全て。
「うん」
 そっけない返事。だが、それが絵音には何より頼もしく感じられた。