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File.2 Whirlwind 10~11

  10
  
「とりあえず」
 草摩に手渡された分を恐ろしい速度で読み通した絵音は、それを彼に返し、自分のバッグの中からメモを取り出して、テーブルの上に置いた。細い水性のペンの蓋を取って横に転がす。
「その事件が迷宮入りになった理由は何なのかしら」
「うん」
 草摩は頷いて手元に返った資料に目を落とした。
「まだ全部は読みきっていないけど、今読んだところまででも、妙な点が幾つもある」
「そうね」
 絵音は目を伏せる。その表情には先ほどまでの傷ついた様子は微塵もなく、全ては鮮やかなまでに切り替えられていた。
「私が一番気になったのは桐生さんのお母さん……美里さんが亡くなられた時の状況」
「ああ」
 草摩は軽く目を閉じた。
「何故、踏み台がどこにも見られなかったのか――」
 寝室のカーテンレールに美里自身のマフラーを通して首を吊っていたのだが、その部屋の窓際には何鉢かの観葉植物が置かれていただけで、他の家具であるベッドやタンス、サイドボードなどは他方の壁際近くに押し付けられていた。それらは元々そういう配置であった、と後に桐生慶吾や桐生千影自身が証言している。
 観葉植物の鉢を踏み台にしたとも考えづらく、そもそも鉢は窓の西側に置かれていた。美里が首を吊っていたのは東側であり、窓の幅は三メートル以上ある。身長百六十センチ以下だった美里がいくら足を伸ばしても届くわけはない。
「カーテンレールの高さは?」
「確か、二メートルちょっと……」
 草摩は紙をめくって確認した。
「二メートル十センチだって」
「ふうん……」
 絵音は呟きながら、ふう、とコーヒーの湯気を吹き上げた。
「まさか、滑車を使ったとも思えないしね」
「滑車?」
 草摩の脳裏に、中学時代の理科の教科書が浮かんだ。
「あれで自分の体を引っ張り上げるの」
 口調よりも真面目に、絵音はその可能性を考慮に入れているようだ。
「足が上がって苦しくなってきたところで、解けないように結びつけちゃうの」
「滑車ねえ」
 草摩は側頭部を掻いた。
「普通滑車って金属だろ? 火事跡からだって見つかるんじゃないかな」
「……それもそうね」
「それに、そもそもどうしてそんな面倒なことをしなくちゃいけない? 自殺だと知られたくない理由があったのか?」
「…………」
 絵音は少し首を傾げて動きを止めた。
「草摩は、自殺ってどう思う?」
「え?」
 きょとんと瞬きをする草摩には目を合わせず、絵音は続けた。
「昔ね、母に言ったことがあったの。『自殺したい人はすればいい、自由じゃないか』って」
 中学生くらいの頃だったかなあ、と絵音は苦笑する。
「きっと、そういうことを言いたい年頃だったのよ」
「お母さん、何て言ってた?」
「口調は冷静だったけれど、きっと怒っていたと思う」
 絵音は思い出すかのように目を細めた。
「『全く誰とも関わりなく生きている人間でもない限り、自殺をする自由なんてあり得ない』って」
「…………」
 ――なるほど、と草摩は思う。
「『誰かを悲しませる自由なんてない、誰かを苦しませる自由なんてない』――そりゃあそうなのよね」
「絵音は」
 ぽつりと草摩が言う。
「自殺を考えたことあったのか?」
 だから、そんなことを親に言ったのではないか――理由はないが、何故かそんな気がした。
「え?」
 絵音は一瞬虚を衝かれたようだった。顔から驚きだけを残して、全ての表情が消える。
「…………」
 草摩は黙って彼女の表情を観察する。彼の好きな、彼女の大きな瞳が何度か瞬き、やがて彼女の顔全体が笑みの形に整っていった。そこには明らかに意志の力が働いていただろう。
「内緒」
「そう」
 草摩は呆気ないくらいにあっさりと引き下がった。絵音が少し拍子抜けしたような顔をしている。
「ようは、自殺をする人間がそうだと悟られたくない場合もあるかもしれない、と言うことだよな」
「そう」
 絵音は頷いた。
「特にこの場合は子供がいる――親に自殺された子供が心にどんな傷を負うか。私もテレビや新聞でしか見たことはないけれど」
「そうだな」
 草摩は自分のカップをぐいと傾けた。大分温くなったコーヒーが、喉を下りていく。
「俺の場合、母親は病死で父親は殉死。どちらも不可抗力で死んじゃったわけだから、諦めがついたってところはあるかもしれない。二人とも死にたくて死んだんじゃないんだしね」
「…………」
 絵音の唇が言葉を捜してよどんだ。草摩は微笑む。
「気にするなよ」
「そう言われても」
 以前、絵音の家庭については少しだけ聞いたことがあった。長年夫婦間に喧嘩が絶えない状態だったようで、最近ついに父親が出て行ってしまったのだという。
 客観的に見ても家族というものにはあまり恵まれなかった草摩だが、父親と二人で暮らしていたときも、祖母がいた頃も、そして今の桐生との生活も、いつも平和で、不仲だったことはない。
 一つ屋根の下に住まう者たちの仲が悪い――きっといたたまれないものなのだろうな、と思う。同情ではない。そんなことは絵音も望んでいないだろうし、草摩自身もそれは同じだ。――同情は、何も救わない。
「場合を分けて考えようか」
 草摩は意図的に話を元に戻した。
「もし美里さんが自殺だったとした場合、時子さんを殺したのは誰なのか」
「そちらは他殺で間違いないの?」
「首に電気コードが巻かれていたらしい。状況的にも他殺だろうし、法医学的にもそう断定されたって」
「法医学か」
 絵音は呟いた。
「それも医学の一分野なのね……」
「あと二、三年すれば習うことになるさ」
 草摩は軽く肩をすくめた。
「考えられるのは」
 絵音が眉間を人差し指で押す。
「美里さんが時子さんを殺害して、その後自殺した……?」
「じゃあ放火したのは?」
「美里さんが死の寸前に放火したって考えられない?」
「出火したのは一階の、時子さんが亡くなっていた部屋だそうなんだけどね、火の周りがすごく早かったみたいなんだ。床に灯油もまいてあったし」
「美里さんが火をつけて、その後二階に上がって自殺して」
「しかもその跡を隠滅する……そこまで計画的なことができるかな」
「ちょっと考えられない気がする」
 絵音はため息をついた。
「じゃあもし美里さんが他殺だとしたら……」
「何故、自殺への偽装を完全なものにしなかったのか」
「…………」
 草摩は腕を組んだ。
「正直、この資料からだけで事件の概要を組み立てるのはな……」
「でも、まだ全部読みきっていないんでしょう?」
「うん……それもそうなんだけど」
 絵音を見つめる。
「この事件には続きがあるんだ。直接関係があるかどうかは分からないけれど……」
「続き?」
 彼女の問いに無言で頷いた。
「そう。被害者の夫であり息子である――」
 絵音はこくりと唾を飲む。
「桐生慶吾さんが死んでる。最初の事件が起きてから、二週間後に」
「死因は?」
「投身自殺だ。息子と二人で宿泊していたホテルの窓から」
「自殺なの?」
 絵音は矢継ぎ早に問いを重ねる。
「当時の警察は、そう断定している」
 いつの間にか草摩のカップは空になっていた。
「それが事実かどうかは分からないけどね」
「ふうん……」
 絵音は冷めてしまった残りのコーヒーを少しずつ飲んでいるようだ。
「彼の体内からは、アルコールと睡眠薬が検出された。睡眠薬は、事件後一週間経った頃から不眠を訴えて神経科で処方してもらっていたらしい」
「アルコールと睡眠薬って」
 絵音は呆れたように目を瞬かせる。
「最悪の飲み合わせよね?」
「ああ」
 草摩は頷いた。
「事故って可能性は?」
「なくはない。ただ……」
「ただ?」
「ホテルの窓には落下防止用の対策がとられている。事故は考えにくいとされたそうだ」
「…………」
 絵音は口をつぐんで目を伏せた。――母と祖母を失ったばかりの息子を一人置いて、何故父は死んだのか。
「確かに、そこに何かヒントがあるのかもしれないわね……」
 その小さな呟きは、店の喧騒にかき消されることなく草摩に届いた。
「そうだな」
 草摩は目を閉じる。父の顔と桐生の顔が、交互に浮かんでは消えていった。
 
 
  11
  
「…………」
 桐生は自宅のリビングで目を通していた雑誌を、軽い調子で放り捨てた。例の、絵音が見たのと同じ記事である。自分の名前は出ていなかったが、久しぶりに見た母の名前、そして写真には動揺が隠せなかった。
「意外と世間は覚えているものなんだなあ」
 軽く頭を掻きながらホットミルクを飲む。睡眠を誘導する効果を期待してのことだが、あれを読んだあとでは眠れるかどうか分からない。
 ――久しぶりに、寺にでも行こうか。ふとそんなことを思った。
 桐生美里の墓は桐生家の中にはない。位牌と骨壷は美里の両親の墓がある菩提寺に預けたままだ。まだ彼女自身の墓は建立していないが、時折その寺には線香をあげに訪れるようにしていた。
 いつか――母の墓を建てる。多分それが最初で最後の親孝行になるだろう。
 彼女の息子として、
 そしてあの男の息子として生まれた自分にできる、唯一のこと――。
 守りたかったのに、守れなかった。
 その罪の償いを、まだ彼はできずにいる。