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File.1 Ash 8~10

  8

 桐生が帰宅したのは、翌日の朝十時過ぎだった。夜通し働いていたのか、疲れ切った表情をしている。
「おかえり」
 草摩は手早く朝食の用意をした。マーガリンを塗ったトースト、半熟の目玉焼き、ミニトマト、薄切りハム。濃いめに入れたコーヒーを二つのマグカップに注ぐ。草摩はアメリカンコーヒーの方が好きなのだが、桐生のためにはこの方がいいだろう。
「ありがとうございます」
 桐生は着替えもそこそこに食卓についた。余程お腹が減っていたのだろう、早速トーストを手に取る。
 草摩は自分のマグカップにミルクをなみなみと注いだ。
「昨夜はすみませんでした」
 神妙な顔をしてこちらを見ている桐生に、草摩は怪訝な顔をした。
「何? お前何かした?」
 嫌みのつもりはない。本当に分からなかったのだ。
 桐生はうかない表情を浮かべている。それは、疲労のためだけではないようだった。
「草摩君、昨日誕生日だったのに……帰って来た時一人で驚いたでしょう? メールする時間もなかったし」
「ああ」
 草摩は笑う。
「そんなこと?」
「……そんなことって」
 桐生は意外そうだった。
「親父だって急な出勤も多かったし。気にしてないよ」
 草摩はトーストをかじる。
「お前、昨日は仕事だったんだろ? 仕方ないじゃん」
「でも……」
「それに俺も昼前に出かけちゃったし……ん?」
 桐生は少し苦笑したようだった。
「どうした?」
「いえ」
 咳払いをして微笑む。
「そういえば……昨日は絵音さんがお祝いして下さいましたものね」
「それは関係ない」
 間髪入れずに、草摩は言った。そこに照れはない。
「今は、お前と俺との話だろ?」
 真っ直ぐな視線。
「…………」
 桐生は目を見開いて口を引き結んだ。やがて、その唇の直線が柔らかな円弧に変わる。
「違いません」
 草摩は満足気に頷いた。
「今度ケーキ買ってくれよ」
「ケーキ、ですか」
「ラウンドの大きなやつ。さすがに二十本も蝋燭立てられないだろうけど。俺まだ今年バースデイケーキ食べてないから」
「そんな大きなの買っても食べ切れませんよ」
「いいだろ、食べたいんだから」
 実際には絵音のお手製ケーキを食べたのだが、あのありきたりな既製品のバースデイケーキも良いものだ。面食らった表情をしている桐生に、草摩は言葉を重ねた。
「そういえば俺、もう正式に酒が飲める年なんだぜ。いつか飲みに行こうな」
「僕と、ですか?」
「そうだよ。他に誰がいるんだ」
 草摩は胸を張って笑った。
「…………」
 桐生は何か眩しいものでも見るように目を細める。
「……そうですね」
 トーストの残りを頬張り、苦いコーヒーで流し込む。つまんだプチトマトの酸味が口中に弾けた。まるでそれが合図だったかのように、
「……草摩君」
 桐生は口を切る。──伝えないわけにはいかない。
「何?」
 草摩はきょとんとした表情をした。そんなに自分の顔は強張っていただろうか。桐生は慌てていつも通りの表情を作ろうと努力する。
「昨日、君に電話がありました」
「誰から?」
「ご存知かは分かりませんけど……」
 視線を僅かに躊躇させてから、桐生は草摩を見つめた。
「篠原素という人です」

  9

 草摩は少し視線を上に向け、左右に動かした。何かを思い出そうとする時の、彼の癖だ。
「シノハラハジメ……ああ」
 頷く。
「親父に毎年年賀状が来てたな。確か、弔電も」
「会ったことは?」
 桐生の問いに、草摩は首を横に振った。
「記憶にない。もしかしたら、小さい頃にはあるのかもしれないけど……」
「彼はT大の法医学教室の助教授です」
 草摩は驚いたように桐生を見る。
「お前、知り合い?」
「ええ、昔少しお世話になりまして」
 桐生はぎこちなく微笑んだ。
「それで、貴方に一騎さんからの預かり物を渡したいんだそうです。今学会でこの近くまで来ているんだとか」
「親父から……?」
 草摩は不思議そうに首を傾げたが、続けて質問する。
「連絡先は聞いてる?」
「メールアドレスを」
 桐生は言って電話機の横のメモ帳を指差した。
「書き留めてあります」
「分かった」
 食器を二人分重ねて、草摩は立ち上がる。桐生は慌てて腰を浮かせた。
「片付けは僕がやりますよ」
「どっちでもいいだろそんなの」
 草摩は取り合わない。
「良くないです」
 桐生はかろうじてテーブルの上に残っていた二つのカップを取り上げた。
「とにかく、僕がやりますから置いておいて下さい」
「あのな」
 草摩はため息をついた。
「お前は昨日徹夜で働いてたの。俺は今日も授業のない暇な大学生。家事くらいは俺にやらせろ」
「でも……」
「このままじゃ俺、ただの居候じゃん。いや、今でもそうだけどさ……寄生虫にはなりたくないんだ」
 草摩は桐生を振り切るようにキッチンに姿を消した。
「…………」
 桐生は困惑したように草摩の後姿を見送った。やがてくすり、と笑みを洩らす。
「……本当、あの人の息子だなあ」
「何か言ったかー?」
「別に?」
 桐生はカップを持ったままキッチンへと向かう。
 草摩は洗剤で泡立ったスポンジを持ち、振り返った。桐生の姿を見て眉を吊り上げる。
「だから、お前は……」
「分かってます、洗いません」
 桐生はすました顔でそう言い、カップを流し台に置くと食器用ふきんを手に取った。
「は……?」
 草摩の驚いた顔が面白い。
「何やってるの?」
「貴方の洗ったものを拭いて、食器棚にしまうんですよ」
「ばかー!!」
 草摩は一瞬手を振りあげ、そこについている泡に気付いてそれを下ろし、しかし気はおさまらなかったようで右足で桐生を小突いた。
 桐生は無視して皿を拭き始める。
「…………」
 その様子を呆れた顔で眺めていた草摩だが、やがて小さく噴き出した。
「勝手にしろ」
「ええ、勝手にします」
 桐生は微笑んだ。
 ――楽しい、と思う。
 誰かと一緒に暮らすということが、
 「家族」がいるということが、
 こんなに楽しいことだったなんて。
 ――ありがとう、一騎さん。
 今は亡き草摩の父に、桐生は静かに感謝を捧げた。
 
 
  10
  
 篠原はノートパソコンを立ち上げ、ネットに繋ぐ。最近はたいていのホテルでインターネットに繋げるようになって、非常に便利になった。その代わり、どこにいても仕事や雑事から逃れることはできない。
 全ての境界線は、徐々に曖昧になっている。
 平日と休日。
 日常と非日常。
 常識と非常識。
 プライヴェートとパブリック。
 オンとオフ。
 そもそもそれは何のために分けられたものだったのだろう。――それとも、誰かのために?
 メールソフトが何通かのメールを受信する。篠原はそのうちの一通に目を留めた。
 ”Soma Shichijo”
 クリックして開く。
 冒頭には丁寧な言葉で弔電へのお礼が述べられ、そして昨日中に連絡を取れなかったことへの謝罪が綴られていた。彼自身、いつでも時間は取れるという。こちらの都合に合わせる、とあった。
 篠原は立場上時々草摩と同年代の学生の書くメールを目にするが、草摩のメールはその中でも群を抜いて礼儀正しいものであった。そういえば、七条一騎は礼儀を重んじる男だった。元来そういうものに無頓着だった篠原に、高校時代の一騎は説教をしたことがある。
 ――お前が気にしなくても気にする人はいる。そしてその人を不快にしたなら、そのことによる不利益は必ずお前に降りかかってくるんだぞ。そんなことで損をするのは癪に障らないか。
 なるほど、と妙に納得したことを覚えている。篠原にとって礼儀正しく振舞うことは大して苦でもない。だとするならデメリットがない分、メリットのある方を優先すれば良いだけの話だ。
 まだ見ぬ草摩に、当時の彼の面影が重なる。
「…………」
 篠原は背後に置いてある鞄を見やった。その中に、一枚のCD-Rがある。篠原は中身を見ていない。だが、大体想像はついていた。
 
 おそらく……、
 彼は委ねるつもりなのだ。
 息子に。
 裁きを。