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File.1 Ash 6~7

  6

 草摩が帰宅したとき、家の中は静まり返っていた。彼には自宅のインターフォンを押す習慣がない。幼い頃から、家に誰かがいる時の方が少なかったからだ。
「…………」
 玄関でしばし佇み、小さくため息をつく。
 桐生は、恐らく呼び出しを受けたのだろう。今日は非番のはずだったが、担当患者の容態が急変したとなれば悠長なことは言っていられない。
 扉に鍵を掛けて靴を脱ぎ、草摩はマフラーと真新しい手袋を外した。家の中はまだそう冷えてはおらず、もしかしたら桐生が出掛けて行ったのはそう前のことでもないのかもしれない。草摩は急いでエアコンの電源を入れた。
 廊下とリビングルームの電気を点けると、白色光が広い空間を照らし出す。この家は、几帳面な桐生によって常に清潔に整頓されていた。
 ──そういえば……。
 草摩は今更のように思い当たる。
 この家はやけに広い。草摩が引き取られる前から住んでいたはずだが、何故一人暮らしで二LDKもの広さなのだろう。誰かと同居していた様子はなかったし、勿論恋人と同棲していたわけでもない。
 そもそも家賃はいくらなのか……。草摩は何も知らない。桐生は教えてくれない。
 両親を亡くしている草摩は大学の授業料の免除を受けており、奨学金も利用して桐生にはあまり世話になるまいとしている。しかし、桐生は食費や光熱費、家賃などを草摩に一切負担させない。自然、草摩の奨学金とバイト代は教科書代や衣服代、遊興費などのみに費やされ、貯金をすることすら可能だった。
 桐生自身が早く両親を亡くしているのなら、経済的にそう楽ではないだろうと思っていた。一般に高給と言われる医師とはいえ、桐生は開業医ではなく勤務医なのだ。
 しかし、今日会った葉山の言っていたことが本当だとすれば合点がいく。桐生家が代々続く医師の家系だと言うのなら……。
「桐生は家業を継ごう、なんて思わなさそうだけどな」
 草摩は呟いた。勿論それが悪いことだとは言わない。ただ、イメージと違うな、と思っただけだ。
 桐生は、何故医師になろうと思ったのだろう。
 草摩の場合は、とても単純だ。中学三年生の夏、あるテレビ番組を見た。心臓外科医の手術の様子をドキュメントしていたものだ。術中、人工心肺に繋がれて血流を絶たれた心臓はひどく弱々しく、小さかった。恐らくあれは冠動脈バイパス術だっただろう。血管縫合が終わり、人工心肺から心臓に血流が戻される、その瞬間。
 心臓が大きく膨らみ、力強く拍動した。
 拡張。
 そして、
 収縮。

 生きている。
 生きている。
 生きている……!

 涙が溢れて止まらなかった。無論悲しかった訳ではなく、かといって嬉しかった訳でもない。それは何とも形容し難い感情だった。一人きり、テレビの前でただ涙を拭い続けていたのを覚えている。
 その日、草摩は進路を決めた。心臓外科を目指したわけではない。誰かの生命に寄り添う仕事がしたかった。そして、生命というものを知りたかった。
 その想いは今も変わらない。今春以来、いくつかの死を──父を含めて──経てきたが、それでもあの日の涙が忘れられない。
 もしかすると……。草摩は思う。あの日の涙の理由を、自分は知りたいだけなのかもしれない。ただ、それだけなのかも……。
 ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が振動した。草摩はそれを取り出し、表示を見て少し微笑んだ。絵音だ。
「もしもし?」
 通話ボタンを押す。
『もう帰ってる?』
「うん、さっきついた」
『そう。私はもう寝るところよ』
 テーブルの上に置いた手袋へと、草摩の視線は動いた。
「今日はありがとう。手袋と……、あとケーキも美味しかった」
『どういたしまして』
 絵音のすました声が耳に心地良い。
『桐生さんによろしくね』
「……うん」
 その名前に、少しだけ返答が遅れた。絵音は気付いただろうか? 顔が見えないこの状況では分からない。
『じゃあ、おやすみなさい』
 絵音は何も言わなかった。
「ありがとう」
 ついて出た言葉を、もしかすると彼女は不思議に思ったかもしれない。それでも構わなかった。
「……おやすみ」
 草摩は電話を切る。不意に――寂しい、と思った。この家は、一人で住むには広すぎる。
 
 
  7
  
 葉山創平はくわえていたタバコに火をつけることなく、灰皿に放った。今から会う相手は、タバコのにおいにうるさい。
 足を止めて自動ドアが開くのを待つ。もっとスムーズに開いてくれればいいのに、と思った。
「いらっしゃいませ」
 不必要に明るいロビー。ホテルというのはこんなものだろうか。主に安いビジネスホテルしか利用しない葉山には良く分からなかった。
 フロントに近づくと、まるでプリントされたような笑顔を浮かべたホテルマンに話し掛けられる。
「ご宿泊でしょうか。本日シングルルームは全て満室となっておりますが」
「あ、いや」
 葉山は相手を遮り、
「ここに泊まっている人に用がある」
「は」
「五○二号室の篠原素さんにお会いしたい。取り次いでくれないか」
「少々お待ち下さいませ」
 あくまでも慇懃に一礼し、奥の内線電話のほうへと歩いていく。その背中を葉山はぼうっと見送った。
 待つこと一、二分。ホテルマンは戻ってきて微笑した。それが合格の合図、というわけだ。
「最上階ラウンジにてお会いしたいとのことです。あちらのエレベータでお上がりください」
「最上階って、何階?」
「十七階になっております」
「そう。ありがとう」
 確かこの街はあまり高い建物を建てられないことになっていると思っていたのだが、時代は変わったのだろうか。それともここが市中心部から少し離れているからだろうか。葉山には良く分からないが、今はどうでもいいことだ。
 教えられたとおりにエレベータに乗ると、それはシースルーになっていて、市街地が見えるという寸法になっていた。葉山は軽く舌打ちをする。どこへいっても夜景を見せようとする趣向にはそろそろうんざりだ。まるでクリスマス前の電飾みたいに、ちかちかとうるさいことこの上ない。何かを覆い流してしまうかのような光の洪水。一体そこに何が隠れているのか……。
 緩やかな減速。負の加速度をほとんど感じさせずに、エレベータは止まった。
 葉山は足早に降りて辺りを見回す。静かにジャズピアノが流れるフロア。ラウンジの入り口はすぐに見つかった。付近に佇んでいたボーイに、名前を告げる。その背の高いボーイは黙って頷き、葉山に背を向けて歩き出した。後に従う。
 葉山の視線はすぐにとある人物を捉えた。明らかにこのラウンジの中では浮いている。別に服装がおかしいわけではない。仕立ての良さそうな濃紺のスーツに水色のネクタイ。年はとうに中年を過ぎているだろうが、体型はほっそりとしていて若々しい。髪にも白髪は目立っていなかった。
 カウンタテーブルに置かれているのは医学論文か。彼の前に置かれたグラスには、手をつけられた様子もない。
「叔父さん」
 葉山が声を上げると同時に、篠原は顔を上げた。眼鏡が光を反射して、彼の瞳を隠す。
「創平君」
 葉山は側に立つボーイにマティーニを頼んだ。ボーイは無言で一礼し、立ち去る。
 篠原の長い指が散乱していた紙を片付けた。ちらりと見たところ英語で書かれているようで、学生時代決して英語が得意ではなかった葉山は思わず眉を寄せた。
世津佳(せつか)さんは元気にしている?」
「ええ」
 葉山は頷いた。葉山世津佳は葉山創平の母親であり、篠原素の姉でもある。そして、世津佳には篠原の他に妹が一人いた。彼は末子である。妹――つまりそれは葉山の叔母なのだが、彼女の名は篠原詠子(えいこ)という。彼女は今、とある新新興宗教教団に属している。その事実は、ここ数年葉山家をひどく悩ませている問題なのだった。
「叔母さんを心配していました」
「そう」
 篠原はそっけない。
「僕はもう、諦めたけどな」
「…………」
 葉山は返答に窮した。
「彼女は彼女自身の意思であそこにいる。誰に強制されたわけでもない」
「…………」
「子供も夫も捨てることを選んだ。それが詠子さんの生き方だというのなら、構わない」
 ――ふと葉山は思う。この弟の存在が……、もしかすると詠子を追い込んだのかもしれない。
 世津佳は息子の自分から見ても恐ろしく頭の切れる人だが、それでも弟にはかなわないと言っていた。詠子はどうだったのだろう。姉のことを「姉」とは呼ばない、この弟はどのような存在だったのだろう。
「詠子さんに一つ感謝するとすれば」
 篠原は淡々と言った。
「あの教祖に会えたことかな。……詠子さんに知られて激怒されたけれど」
「叔母さんは」
「会わせてもらえなかったらしい」
 教祖。
 その名が意味する存在は、既にこの世にない。今年の春に自ら命を絶ったのである。彼とその母が率いた教団は教祖の自死後、解体寸前に追い込まれた。
 篠原詠子はまだ、そこにいる。
「そもそも何故教祖に会ったんです?」
「彼女の夫……、元夫に頼まれて彼女を連れ戻しに言ったのだけど」
 葉山の前にマティーニが運ばれてくる。篠原はようやくグラスに口をつけた。葉山の分が来るのを待っていたのだろうか。葉山は無言でそれを手に取った。グラスがよく冷えている。
「何故か教祖が僕に会いたがってね。直接ではなくて、仕切り越しだったけれど」

 ――姉弟の絆など、貴方という存在を縛るには卑小過ぎますよ。
 
 今でもはっきり覚えている。それが、教祖の第一声だった。
「うーん……」
 葉山はうなる。篠原は少しだけ笑ったようだった。
「で、なるほど、と思って帰って来た」
「え?」
「『多分、僕はそれを確認しに来たのでしょう』と答えたら嬉しそうに笑っていたよ」
「そうですか」
 葉山は困惑した。やはり、この叔父はどうにも苦手だ。
「ところで」
 篠原の口調が変わった。険しく、固いものに。葉山は思わず居住まいを正す。
「七条草摩君には会えた?」
「はい」
「…………」
 篠原はそれ以上何を聞くでもなく、黙ってグラスを傾けている。葉山もまた何も言わない。
 暫くの間、沈黙がその場を支配していた。