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File.1 Ash 5

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 絵音と別れて電車に乗った後、酔いも手伝ったのか草摩は瞼の重さに耐えることができないかのように眼を閉じた。どうせ終点まで行くのだし、寝過ごす心配はない。
 今は、今日という日の余韻を逃したくなかった。
 車内は十分暖かいのだが、手袋を外す気にはなれない。革とその内側を包む起毛がしっとりと手を包んで心地良かった。まるで、あの時触れた彼女の手のように――。
 電車が発車する間際に慌ただしく隣に誰かが座る気配がしたが、草摩は気に止めなかった。眠い。頬が火照って暑かった。
 電車が走り出して、十分ほど経った頃。
「君は、七条草摩君?」
「…………」
 草摩はぱちりと音がしそうな勢いで眼を開けた。隣を見ると、男が座っていた。特にこれといって特徴のない容貌。ちょうど桐生と同年代くらいか。服装はスーツではなくカジュアルで、まるで男性向けファッション雑誌から抜け出してきたように見える。
 ファーのついた襟に顎をうずめるようにして、切れ長の目が草摩を見ていた。草摩は警戒もあらわに問いかけた。
「どなたですか?」
「僕は」
 手品のように名刺が手の中に出現する。既に用意してあったのだろう。
葉山(はやま)創平(そうへい)と言います」
「…………」
 草摩は渡された名刺に視線を落とした。
「フリージャーナリスト……?」
 呟きに混じる懐疑心に気がついたのか、男は苦笑した。
「信じられないならネットで検索したらいいよ。サイトも持っているし、僕が書いた記事もたくさんひっかかるから」
「それで」
 既に草摩の意識は完全に覚醒している。この男が何者であるかは今のところそう大した問題ではない。むしろ──。
「俺に何の用です?」
「……そのことですがね」
 葉山はすぐに口調を切り替えた。
「君の父親は、七条一騎さん? 今年の春、殉職された……」
 草摩は露骨に嫌な顔をした。あまり、そのことについては聞かれたくない。実のところ、父の死に関しては警察が発表していない事実が幾つかある。発表されたいとも思わない。全ては終わったことだ。
「その話はしたくない」
「いや。僕が聞きたいのはそのことではないんですよ」
 葉山はすぐに言葉を継ぐ。
「君は今、桐生千影という人と住んでいませんか?」
「…………」
 草摩は思わず言葉を失った。葉山は我が意を得たりというように、引き締めていた頬を緩める。
「いや、驚くには値しません。この程度は合法的に調べられるからね」
「それって非合法な手段の存在を自白しているようなものですよ」
「君は警官じゃないだろう」
 葉山は淡々と言う。
「そう、僕が聞きたいのは桐生さんのことで」
「何も知りませんよ、俺は」
「…………」
 ぴしゃりと言い返す。葉山は口を閉ざし、まじまじと草摩を見つめた。草摩は黙って見返す。
 数十秒後、葉山は大きなため息とともに視線を外した。
「そうか、君はあの事件を知らないんだな」
「事件?」
 草摩は鴎鵡返しに聞き返しながら、ふと今朝の桐生との会話がよぎった。
 ──亡くなったのは、母と祖母と父。
 ──焼かれて、…… 
 ──投身自殺だと、……

 ──まあ、もう時効ですけどね──

 葉山はコートの内ポケットを探る。手帳から取り出した紙片は、古い新聞の切り抜きらしい。
「一九八×年──既に時効を迎えているが」
「…………」
 草摩の視線が紙面の文字に吸い寄せられた。

『焼け跡の二遺体は他殺か』
『不審人物の目撃証言なく捜査難航』

「僕はまだ子供だったが、覚えている。世間を騒がせた事件だったよ。事件の起きたのはまさに閑静な高級住宅街だったし」
 葉山は、紙面を食い入るように見つめる草摩に声を掛けた。
「この事件が──君の父親と桐生さんの接点だった」
「……え?」
 草摩は顔を上げた。葉山は真剣そのものである。
「この事件の捜査を担当したのが、当時警視だった七条一騎」
「…………」
「まず」
 葉山は諳んじているようだった。
「桐生美里(みさと)さんと、その姑にあたる桐生時子(ときこ)さん。二人が自宅で焼死体になって発見された。その後しばらくして」
 葉山はもう一枚の紙面を取り出した。先ほどよりは小さいが、それはひとつの記事が占める面積としてはまだ十分大きいといえるものだった。
「被害者の夫であり息子でもあった、桐生慶吾(けいご)氏が投身自殺した」
 確かに、二枚目の見出しには自殺、の文字が踊っている。
「結果的に、十三歳の息子一人が残された──」
「それが」
 草摩は呟く。
「桐生千影──」
 不意に電車が激しく揺れて、草摩は体に力を入れた。悪い夢からさめたような感覚。
「良く調べましたね?」
 草摩はかすかに微笑を浮かべてみせた。話題に相応しく、ひどくささやかな程度の表情の変化。
 葉山は肩をすくめる。
「迷宮入り事件をピックアップして、ルポを書くつもりなんだ」
「それで?」
「この事件が一番分からなかった」
 饒舌だったはずの彼が、なぜか言葉少なに口を閉じる。
「何がです?」
 電車は地下に入る。終着駅が近い。
 葉山は、遠く前方を眺めやった。
「他の事件は犯人こそ捕まっていないが、動機や犯人の目的は明らかだった。ほとんどが強盗目的──そういった、分かりやすい事件だったんだ。――少なくとも、そう見えた」
 いったん口を切って、
「しかしこの事件は」
「何も盗られていない?」
「うん」
 葉山は頷いた。
「桐生慶吾さんは勤務医だったが、桐生家そのものが代々の医者で、かなりの財産家だ。なのに」
「全く手をつけないで……?」
「火を放っている」
「…………」
 電車が止まった。終着駅だ。葉山は立ち上がる。草摩は黙って彼を見上げた。
「また今度、連絡させてもらってもいいかな?」
「何のために?」
 草摩は聞き返す。
「俺がその事件については何も知らないことは分かったでしょう? そもそも、何故桐生に直接コンタクトしないんですか」
「勿論そうしたよ。すげなく断られたけどね」

 ――古傷を抉るのは楽しいですか? そういうのをセカンドレイプっていうんですよ。
 
 桐生はそう答えたのだという。草摩には、その時の彼の表情をありありと想像することができた。
 きっと、
 誰よりも優しくて、
 誰よりも穏やかな、
 そういう顔をしていただろう。
 けれど、
 目だけは――偽りの微笑に凍り付いていただろう。
「『人の不幸を売り物にするのはやめて下さいね』って。お綺麗な顔して言うことがえぐい」
「でも」
 葉山を睨む。
「桐生の言うとおりじゃないですか」
「…………」
 葉山は草摩を見つめた。真顔だった。
「俺が君に接触した理由だが……」
「…………」
「多分、君のお父さんは何かを掴んでいたんだろう」
「親父が……?」
「捜査本部の縮小を進言したのは彼だそうだ。他の事件での彼の行動とは、明らかに矛盾する」
「確かに……」
 思わず、草摩は同意の呟きを漏らした。父はいつだって決して諦めない男だった。時効が来る前から捜査に手を抜くようなことは、考えられない。
 もし、あるとしたら――父なりの「真実」を手にしたときだろう。
 草摩は黙ったまま立ち上がる。既に乗客は皆駅に降り、車内見回りに来た車掌が未だに残っている二人を胡散臭そうに見ていた。
「また、連絡してもいいですか?」
 草摩の態度から動揺を感じ取ったのか、葉山は再びそう尋ねた。
「気が向けば」
 草摩は言う。葉山はにっこりと笑った。
「じゃ、そういうことで」
 背中を向けながら、軽く手を振る。
「可愛い彼女さんと仲良く」
「……いつから見てたんですか」
 草摩は呆れてため息をついた。