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File.1 Ash 3~4

  3

 浅い眠りを妨げたのは、電話の呼び出し音だった。桐生はそれが携帯電話の発するものでないことに安堵しながら体を起こす。もし携帯電話にかかってきたとしたら、それは間違いなく病院からの連絡で、つまり今日は彼の休日でなくなる。しかも、それは決して珍しいことではない。
 無機的な電子音の鳴り響く中、彼は寝起きにしては身軽な動作で子機を取り上げた。親機はリビングルームに、子機は廊下に据えてある。
「はい、もしもし」
 名は名乗らない。これは同居人である草摩への配慮というだけでなく、防犯上の問題でもある。ややこしい勧誘電話は掛け間違いだと言い張るに限るからだ。
 しかし、今回は違った。
『桐生千影君のお宅ですか』
「…………」
 桐生は一瞬周囲が真空になったように感じた。息苦しい。
「はい、そうです」
篠原(しのはら)(はじめ)ですが』
 桐生は少し息を止めて――やがて、大きく息を吸った。
「お久しぶりです、先生」
『お久しぶり』
 淡々とした声。十年以上前から、変わらない。
『七条草摩君はいる?』
「いえ……」
『そう』
 電話の向こうで、思考する気配。
 桐生の脳裏にかつての彼の様子が浮かぶ。短くこわい髪に、細い銀フレームの眼鏡。ガラス玉のような瞳は、一点をまばたきもせずに見据える癖があった。
 篠原素。七条一騎(かずき)の高校時代の親友であり、また桐生の母と祖母を検死した法医学者。現在T大の助教授になっていると聞いていた。一騎の葬式の日は海外出張中だということだったが、礼を尽くした弔電が送られていたのを覚えている。
 その彼が、何故今頃になって草摩に連絡を……? そもそも、彼と草摩は顔見知りなのだろうか?
「何か、お伝えしましょうか?」
『そうだね……、うん』
 篠原は言った。
『一騎から預かっているものがある。できれば早急に会いたい』
「一騎さんから?」
『そう。彼が二十歳になった時に渡してくれ、と言われていた』
「……そうですか」
 桐生は呟く。そんな話は初耳だ。胸がひどくざわめいた。
「今、どちらにいらっしゃるのです?」
『京都だよ。学会で』
「……ああ」
 そういえば、病院のどこかで法医学関連の学会開催の掲示を見たような気がする。
 電話口からかすかに鼻息の音が聞こえた。笑ったのだろう。
『そうか、君も医者だね。外科だっけ』
「はい」
『まさか、君が医者になるとは』
「…………」
 桐生は何も言わない。ただ、背中がじんわりと汗で濡れるのを感じていた。
 篠原は言葉を継ぐ。
『今から僕のアドレスを言うから、そちらにメールするよう彼に伝えてくれるかな。今日から一週間はこちらに滞在するから』
「分かりました」
 伝えられた篠原のメールアドレスと携帯電話の番号をメモする。
『では、よろしく』
「はい……、それでは」
『失礼』
 切れた。
 桐生は大きく息を吐く。今脈拍数を測ったら、きっと数え直したくなるような数値が出るだろう。耳の奥が、どくどくと脈打っているような感覚。
「そうか……」
 桐生は子機を見つめながら呟いた。
「もう……彼しか知らないのか……」
 ――まさか、君が医者になるとは……。様々な映像と音声が彼の中を駆け抜けた。

 消去したつもりだったのに、
 まだ消えてはいないらしい。
 彼がかつて経験した、
 痛み、
 悲しみ、
 恐怖、
 憤怒、
 絶望。

 しかし。
 涙は出なかった。

  4

 草摩の手元のカンパリソーダは既にぬるい。酔っているのかもしれないが、正直良く分からなかった。
 カウンタ席で隣に座る絵音の、半袖ニットからのびる腕は白く、眩しい。細い手首に腕時計を贈りたいと思った。
 ――だけど……。
 草摩は思う。
 時計なんてなくなればいいのに。そうすれば、ずっとこうして話していられるのに。
「時間、大丈夫?」
 それでも心配で、つい尋ねてしまう。桐生にもあまり女の子を遅くに帰してはいけないと念を押されていた。
 絵音は鞄から携帯電話を出して確認し、頷いた。
「ええ……、今二十時だし、二十一時に駅に着けばいいわ」
「分かった」
 草摩はグラスを傾ける。
 先ほど食べた絵音手作りのブラウニーは、とても美味しかった。寒空の下のベンチで食べるというシチュエーションも格別で、二人は何故か笑いが止まらなかった。
 夕飯のイタリアンも良かったし、このバーもカジュアルで居心地がいい。セレクトした絵音のセンスには脱帽だと思った。
 誕生日プレゼントはブラウニーだけではなく、革製の手袋も添えてあった。いや、むしろそちらがメインなのか。
「絵音は」
 草摩はさり気なく名前を呼ぶ。内心はかちこちに緊張していた。
「何科に興味がある?」
「そうねえ……まだわからないけれど」
 絵音は空になったカシスソーダのグラスを置き、注文を取りにきたバーテンダーに手を上げて断った。
「将来を考えて選ばないといけないわね」
「将来を?」
 絵音は笑みを絶やさない。
「家庭と両立させたいじゃない? ほとんど家に帰れないような忙しい科だと、厳しいんじゃないかしら」
「確かに……」
 桐生を見ていると、なるほどと頷かざるを得ない。重患の担当になっている時、桐生はほとんど帰ってこなくなる。
「勿論、不可能じゃないのかもしれないわ。だけど、私にはそんなに器用にやれる自信はないもの」
「…………」
 女性はそこまで考えているのか、と草摩は当惑する。
 家庭との両立――父は母を失って苦悩しただろうか。とはいえ、彼の幼い頃は祖母も近くに住んでいたし、父は自由に仕事をしていたような気がする。愛情は受けていたがそれなりに放任だったような……。それでも、必要な時はいつも側にいてくれた。
「なるほどねえ……」
「…………」
 慨嘆した草摩の横顔を眺め、絵音はふう、とため息をついた。
「たまに、男の人が羨ましくなるわ」
「なんで?」
 だが、聞き返すと同時に草摩は彼女の言いたいことを理解していた。そして、次に自分が言うべきことも。
「だって、悩まないでしょう? こういうことで」
 草摩は首を横に振る。
「それは……」
「女の子はみんな悩むのに。男の人は好きな科をそのまま選べるんだもの。羨ましいわ」
「……違うよ」
 草摩は静かに遮った。
「もし俺が結婚する相手が医者とか、そうでなくても、何か仕事を続けたいと願うのなら――俺は」
 絵音が振り向いた。その瞳に、草摩が映る。
「俺も、悩むよ」
「…………」
「それで……お互いが少しずつ妥協して、それで、二人ともやりたいことに近付けるように」
「…………」
「片方だけが、女の人だけが我慢するなんて、変だろ?」
 絵音は顔を綻ばせる。まるで、暗い店内にそこだけ花開いたように、初めて二人で出掛けた時に見た花火のように。
 こんな顔で笑うんだ、と思った。いつもの微笑にごまかされてはいけない。あれは、彼女のかぶる仮面なのだから。
「そろそろ時間かな。出ようか」
「うん」
 照れ隠しのように呟いた草摩に、絵音は頷いた。白いコートを羽織る。草摩はカーキ色のジャケットに袖を通した。
「草摩」
 絵音が呼んだ。初めてかもしれない。二人で――というよりも草摩が「名前で呼び合おう」と決めたのだが、絵音は恥ずかしがってなかなか呼んでくれなかったのだ。
「楽しかった?」
 わずかに傾げた首筋に髪が零れる。草摩は彼女の長い髪が好きだった。
 草摩は頷く。自然と、笑みが浮かんだ。
「最高の誕生日だったよ」
「そっか」
 彼女は満足げに微笑み、そして同時に少し安心したようでもあった。――何が不安だったのだろうか? 草摩は尋ね返す。
「絵音は、楽しかった?」
「…………」
 目を大きく開けて、その質問は少しも予想していなかった、とでもいうような顔。
「うん。楽しかった」
 突然、草摩は絵音の手を握った。痛いと言われてもいい。強く強く、握った。
 絵音は、痛いと言わなかった。