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File.1 Ash 1~2

この揺り籠の紐が切れて私が堕ちて行く時
あらゆるルールが 目の前で働けばいいのに

  1
  
 どうやら一晩の間に秋と冬が入れ替わったらしい。空が徐々に光を取り戻す頃、地上は薄く白に染まっていた。
 十二月八日は七条草摩の二十度目の誕生日である。二十年前はどんな天気だったのか草摩は知らないし、それを知る者たちはもうこの世にない。父母が存命でないことを悲しく思うのはこういう時だ。意外にどうでも良いことがきっかけで思い出す。
 物心つく前に病死した母のことは、元々記憶にない。幼い頃は、どうして他の「家族」には大人が一人余計にいるのだろう、と思っていた。父と自分。それが草摩にとっては完成された「家族」の形だったのだ。
 その父も今年の春に亡くなった。他殺だった。キャリアでありながら、一警察官としていつも一線に立っていた父は、きっと常に殉職を覚悟していたことだろう。既に草摩が成人近かったことは不幸中の幸いとも言えるかもしれない。
 もし草摩が幼い頃に父が死んでいたら、どうなっていただろうか。やはり彼が――桐生(きりゅう)千影(ちかげ)が、遠縁にも関わらず引き取ってくれたのだろうか。
「もし十年前とすれば……」
 いい年をした男が食パンをくわえて小首を傾げるのはやめて欲しい、と草摩は心から思った。
「お前、二十四だよな?」
 ミルクをたっぷり注いだコーヒーを啜る。
「そうですねえ」
 桐生は食パンをかじりながら、シャツのボタンを器用に片手で止めていく。
「まあ、法律上は可能なんじゃないでしょうか。成人だし、ちょうど研修医になった年だし」
「ふうん……」
 ふと、草摩は気付く。

 これまで決して話さなかったこと。
 桐生からも、
 草摩からも、
 暗黙の了解だとでも言うようにそのことについては触れなかった。
 けれど、
 草摩は敢えて、
 その禁忌を、
 破った。

「お前……家族は……」
「ああ」
 桐生は何でもないことのように微笑む。その自然さがかえって気になった。
 草摩は大きなマグカップで顔の下半分を隠し、目の前に座る桐生の顔を見つめる。色白、とはいえ病的ではなく、透明感のある健康的な肌色。くっきりとした弧を描く眉と、その下で華やかに瞬く黒い瞳。そこに宿る影は長い睫の落とすものなのか――それとも。
 薄い唇が、ゆっくりと開いた。
「中学生の頃に亡くしましてね」
「えっ? 中学生?」
 草摩は思わず声を出していた。桐生が苦笑する。
「そう驚くことでもないでしょう。貴方だって似たようなものじゃないですか」
「う、うん」
 草摩は一瞬だけ視線で壁掛け時計を捕らえた。今日、彼は授業がない。優雅に朝食を楽しむことのできる身分だ。だが桐生はそういうわけにいかない。彼は大学病院に勤める外科医だ。
 桐生は草摩の視線の意味するところを理解したらしく、
「まだ少し時間はありますよ。今日は手術日ではありませんから」
 と答えた。そして、あっさりと続ける。
「ちなみに僕には兄弟はいませんから、亡くしたのは両親です」
「……事故か?」
「何故そう思いました?」
 桐生はまるで他人の話をしているかのように穏やかに聞き返す。草摩はかすかに眉を寄せた。
「いや……、なんかお前の言い方だといっぺんに亡くなったようだったから」
「なるほど。鋭いですね」
 桐生は立ち上がった。いつの間にか、彼の前の皿は空っぽになっている。
 草摩は、彼を見上げなかった。
「それは半分正しくて、半分間違っています」
「え?」
 草摩は聞き返した。
 たぷん、とマグカップの中身が揺れる。白く濁ったコーヒーの表面は、何も映し出してはくれなかった。
「亡くなったのは祖母と、母と、父」
 桐生は静かに言う。
「母と祖母は何者かに殺されて、焼かれた。その後父も亡くなりましたが――そちらは投身自殺と断定されました」
「…………」
 草摩は言葉を失う。
 桐生の呼吸の音が聞こえた。
 リズミカルで、
 軽い。
 しばらく時間がかかって、笑っているのだということに気付いた。
 声はない。
 だから、彼の感情は読めなかった。
 ただ、笑っている。
 ――何故?
「まあ、もう全部時効がきているんですけどね――」
「…………」
 カチリ。
 八時を刻んだ時計の針の音が、急に大きく聞こえた。
 
 
  2
  
 ――彼氏ができた。
 数ヶ月前、その報告を聞いた雪村絵音の友人は皆一様に驚きを示したものだ。当の本人は浮かれる様子もなくいつも通り微笑んでいた。
 誰? どういうきっかけで知り合ったの? どこの人? 年上? どんな人なの?
 質問攻めにあっても、絵音は全く照れる様子がなかった。
 皆、その人を知らないと思う。きっかけは……良くわからないわ。飲み会、ね。大学はK大。医学部。同学年だけど、彼は一浪しているから一つ年上ね。どんな人って……。
 そこで初めて、絵音は感情を表出させた。手を口元にやって小さく噴き出したのである。
「変わった人。大人っぽくて、子供なの」
 その認識は今でも変わっていない。絵音は駆けてくる彼の姿を見て微笑した。待ち合わせの時間にはまだ二十分ほどある。
「早いよ!」
 息を切らせた彼は彼女の前に立ち止まるやいなやそう叫んだ。駅構内とはいえ空気は冷たく、頬や鼻の頭が赤くなっている。茶色の髪があられもなく乱れていて、絵音は手を伸ばしてそれに触れた。冷たい。
 撫でつけようとすると、自分の手のひらで彼の顔が隠れてしまう。絵音は仕方なく手を戻した。
 今の顔は見物だ、と思う。彼女の前で不機嫌そうに眉を吊り上げている草摩は、しかし口元と目元が怒りを示すことに失敗している。
「この前は草摩の方が早かった」
 絵音はすましてそう言う。十五分前に駅に到着して安心した彼女を出迎えたのは、何故か妙に勝ち誇った表情の草摩だったのだ。
「別に? 俺も来たところだったよ」
「少し前から雨が降っていたのに、足元が濡れていなかったわ」
 絵音は指摘する。
「降り始める前からそこに立っていた証拠ね」
「嘘だろ」
 だが、草摩の横顔は僅かに動揺を示している。
「嘘」
 絵音は笑う。
「だってあそこ、屋内だったじゃない?」
「あ」
 草摩がばっと振り返った。
 ――そうね。絵音はそれを余裕の笑みで受け止める。――悪くない。
「あやうく騙されるところだった」
「騙されればいいのに」
「いいや」
 草摩は立ち止まって笑う絵音の手を引く。自然だった。まるで、元から二つの手は繋がれるためにあったとでもいうような――悪くない。
「とりあえず、行こうか」
「ん」
 絵音は少し力を込めて彼の手を握った。
「今日は草摩の誕生日だから、私がエスコートするわ。いい?」
「勿論」
「そういえば」
 絵音は首をかしげた。
「桐生さん、寂しがってなかった? 草摩の誕生日のお祝いができなくて」
「……いや」
 一瞬、遅れた。絵音は草摩の横顔を見遣る。そこには笑顔はなく、代わりにどこか張り詰めたような緊張が浮かんでいた。だが、それはすぐに消える。草摩が絵音を見たときには、いつもの通りのわざとらしいしかめっつらだった。
「今日は当直明けのくせに人の服のコーディネートにまで口出してきてさ。さっさと寝ろっての」
「ふふ」
 絵音は笑う。――何も見ていないふりをしよう。そう心に決める。
「まずはお昼ご飯ね」
「うん」
 手提げ袋の中の手作りケーキがかさり、と揺れた。