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第四楽章 Presto 9~10

  9
  
 夜風がとても心地良い。
 桐生ははためく白衣の襟で頬をなぶられながら、ぼんやりと東を眺めやっていた。一週間後には、あの山の年中行事である野焼きが皓々と空を照らすだろう。だが、今はただ黒々と夕闇の中に山が鎮座しているのみである。
「…………」
 桐生は目を細めた。今頃草摩は伊吹に請われるまま、今回の事件の説明をしているのだろう。馬鹿馬鹿しい茶番。まるでただの喜劇。
 
 誰もが誰をも信じていなかった。
 誰もが誰かに裏切られていた。
 むしろ、本当に誰かを信じていたのは……。
 
「こんばんは」
 澄んだ声がして、桐生は振り向いた。
 そこには長い黒髪の、一人の女性が立っていた。黒いスカートが風にはためいている。
 桐生はかすかに息を呑む。穏やかに微笑むその顔には、見覚えがあった。あの時、ロビーの自動販売機の横で出会った――そして舞台の上で倒れていた。同じ顔。
「そう、そうでしたか」
 桐生はくすくすと笑い出す。
「まさか、貴方たちが入れ替わっていたとはね」
 彼は病院の屋上にはりめぐらされた金網にもたれかかり、口元を押さえて笑い転げた。
「冴木百合子さん?」
「いいえ」
 彼女は穏やかに微笑んだ。
「私はもう、百合子ではありません」
「では、お名前を教えていただけますか?」
 彼女は少しだけ目を伏せ、そして真っ直ぐに桐生を見つめた。
 綺麗な女性だと思った。少女めいた幼さと、どこか陰のある妖艶な微笑。そのちぐはぐさが独特の魅力となっている。
「冴木葉子(ようこ)
 彼女ははっきりとそう名乗った。
 
 
  10
  
「自殺?」
「ええ、そうです」
 草摩は聞き返す岡崎に落ち着いて答えた。
「どうして……どうして奈津子が自殺なんて!!」
 つかみ掛からんばかりの勢いで言い募る彼に、伊吹は軽く手を差し伸べて止める。
「続けてくれ」
 草摩を促す。彼は軽く頷いた。
「彼女は鞄の中に冴木百合子の入れたお茶と手紙を発見した。勿論これは冴木百合子が倒れた後のことです。手紙を見た彼女はどう思ったか――」
「そうか」
 伊吹は呟く。
「彼女に渡された手紙にはちょうど、岡崎君のものと逆のことが書いてあったわけだ」
「え?」
 遊斗はぽかんと口を開けた。草摩は頷く。
「そう。彼女の読んだ手紙には、『私は岡崎遊斗に殺される。証拠品がこれだ』とあったはず」
「そ、そんな馬鹿な」
「手紙はどこから見つかっていないので、もしかしたら吉原奈津子が処分してしまったのかもしれませんけれど」
 草摩は淡々と言葉を継ぐ。
「その後の行動から見て、おそらく間違いはないでしょう」
「……そうか、なるほど」
 伊吹が納得したように何度か首を縦に振り、やがて絵音に目を留めた。
「ということは……」
 絵音はその言葉の先を予想したようににっこりと微笑む。
「そうですね」
「…………」
 伊吹が口を噤むのに代わり、絵音が口を開いた。
「奈津子は私にそのお茶を飲ませてみたのです。冴木百合子の書き残したことが、本当かどうかを知るために」
「…………」
 岡崎の顔から血の気が引いた。
「そんな……そんなことを……奈津子が……?」
 草摩が口の端だけを歪めて笑みのようなものを形作る。
「そう。絵音さんが倒れた理由はそれですね」
「…………」
「その場にお茶が二本あったのもそういうわけです。一本はおそらく彼女が自宅から持ってきていたもの。一本は冴木百合子が忍ばせたもの」
「彼女は私が倒れた後、どうしたのかしら?」
 絵音はその先を促すように草摩に尋ねた。草摩はうなだれている岡崎をちらりと見遣った。
「彼女の中で自分の恋人に対する疑いは決定的なものとなった。彼女は咄嗟に――」
「お茶をあおったのかね。トリカブト入りの」
 驚きと共に発せられた伊吹の言葉に、草摩は頷いた。
「おそらく、目の前で絵音さんが倒れて動転したのでしょうね。その場に自分しかいなければ自分が疑われる。事情を話せば恋人に殺人容疑がかかる。そう考えて、彼女は――」
「……それで」
 岡崎が呟いた。
「自殺未遂だと言ったのか」
「そうです」
「そう……か……」
「あの場に零れていたお茶は?」
 伊吹が尋ねる。草摩は軽く首をすくめた。
「いくらなんでも、咄嗟に全部飲みきるのは無理だったのでしょう。絵音さんが倒れた時に叫んでしまっていたから、誰か人が駆けつけるのは時間の問題ですし、すぐに駆けつけた俺たちの足音も聞こえたでしょう」
「そうだね」
「彼女としては、お茶の成分が分析されることを避けたかったのでしょうかね……その辺は分かりませんが、飲みきれなかった分は何を思ってか床にぶちまけた」
「……ふむ」
 伊吹は軽く顎をつまんだ。彼女がそういう行動をとる可能性は、十分考えられ得るだろう。
 手の中に残った、友人を昏倒させたお茶。誰にも知られるわけにはいかない。この場に残すわけにもいかない――。
 飲み干せば自分も倒れてしまうわけで、結局のところ稚拙な考えではあったが、咄嗟の時に思いつく行動などたかが知れている。追いつめられると何をしでかすか分からないのが人間。それは、彼の警察官としての経験に基づいた実感だった。
「俺が」
 ぽつりと岡崎が呟いた。
「きっぱりと百合子をはねつけていれば良かったのか。着拒でもして、絶交していれば……」
「さあ」
 草摩はそっけなく答えた。
「そうしていれば、少なくとも今あなたが味わっているような感情は、知らなくて済んだかもしれませんけど」
「…………」
「けれど」
 絵音が付け足した。
「きっとそこには別の痛みも生まれたはず」
「…………」
 岡崎が顔を上げる。憔悴しきった表情をしていた。
 ――根は優しい男なのだろう、と絵音は思う。優しさは時として他人ではなく、自分を守るための鎧となる。人を傷付けないことで人からも傷付けられまいとするための、鎧。しかし、それはいつか破綻を来すのだ――。
「誰も傷付けないことなどできない。だって貴方は二人の女性と同時に付き合うことはできないのだから。そんなつもりはなかったのでしょう?」
「ああ、もちろんだ」
 岡崎はきっぱりと言った。
「それに、俺は百合子とはもう無理だと思っていたし」
「それなら」
 絵音はゆっくりと言う。
「貴方は百合子さんに憎まれて、恨まれて、それでもいい。それくらいの覚悟が必要だったのよ」
「…………」
 岡崎はうな垂れた。
「ああ……そう、だな……」
 声がくぐもっている。泣いているんだろうな、と草摩は思った。
 無駄だ。こんな時に泣いたって無駄なんだ。下らない。草摩は何故か苛立ちを抑えられなかった。何故だか分からない。だが、何か――何かが引っ掛かっている。何か無理をしている。どこかに齟齬を感じる――。
 電子音が響き、電話を受けた伊吹が部屋を出ていく。扉が閉まる音と同時に、
「……偶然、過ぎる」
 ぽつりと呟いたのは絵音だった。
「そうじゃない?」
「…………」
 草摩は驚いて彼女を見つめる。まるで彼と同じことを考えていたようなタイミングだった。事実、そうなのかもしれない。
「冴木百合子の行動。あまりにもうまく行き過ぎている。誰もいないうちに、本人たちにも気付かれないようにお茶と手紙を入れるなんてこと、できるのかしら」
 絵音は起伏のない声で何かを読み上げるかのように語った。
「できれば本番直前に仕込みたいところでしょういけど、それを誰にも気付かれずにできる保証なんてなかったはず。全体的に人の心理を突くのは巧みかもしれないけれど、肝心の方法論がめちゃくちゃで行き当たりばったり。こんなに上手くいったのも、まるで奇跡のようでしかない。もし失敗すれば本人は無駄死になのに、そんな僅かな可能性に掛けて実行したのかしら?」
「…………」
 草摩は黙って彼女の言葉を聞いた。
 ――あり得なくはないと思う。
 脳裏に浮かんだのはかつて自分を殺そうとした叔父の歪んだ笑顔だった。けれど……冴木百合子と叔父が似通った思考を持つかどうかなど分からない。
 確かに、指摘された部分については彼自身もしっくりきていなかった。それ以外の説明をしようがないから、そう結論付けただけで、彼が手にしていない他の事実があれば真実はその形を大きく変えるだろう。――その程度のことなのだ。真実なんて。
「草摩君?」
 声を掛けられて草摩は顔を上げた。絵音が顔を覗き込んでいる。思いのほか近いところに、彼女の瞳があった。
「な、何?」
 声が上ずったのを、慌てて咳払いで誤魔化す。
「伊吹さん、何処に行ってしまったのかしら。私、母を待たせているから……」
「そうだね。長電話にならないといいけど」
「そうね」
 絵音はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、あまりにも自然で――。
「絵音さんは」
 思わず草摩は声を掛けていた。
「気にしてないの? 今度のこと」
「何? 友人に毒の実験台にされたこと?」
 絵音はあっけらかんと聞き返す。草摩は思わず口ごもった。視界の端で、岡崎が心配げに絵音を見つめている。
「そうね、別に気にしてないわ」
 絵音の顔から不意に笑みが消えた。
「そんなこと、たいしたことじゃないもの」
「…………」
 草摩が言葉を失う。
「ちょっと、伊吹さん捜してくるわね。じゃあ」
 絵音は表情に笑みを取り戻し、手をひらひらと振った。
「……うん」
 草摩は彼女の背中を見送りながら、ぼんやりと言う。
 ――寂しい瞳だった。
 凛とした佇まいと裏腹に、力を込めて触れれば壊れてしまいそうな脆さをも併せ持っている。
 ――けれど、触れたい。
 草摩は己の手をぎゅっと握った。
 そっと、触れてみたい。彼女の心の輪郭を撫でてみたい。慈しみたい。そう思った。