第四楽章 Presto 8
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結局、奈津子は精神的に混乱が見られるということで聴取不能という結論だった。草摩は電話を切った伊吹からそう聞かされ、小さく頷いてみせる。
「そういえば、桐生さんはまだ彼女のところに……?」
絵音の疑問には伊吹が答えた。
「いや、いなかったそうだ」
ちらりと草摩を見遣る。
「居場所が気になるかね?」
「いえ」
草摩はあっさりとそう答えた。
「しばらくすれば戻ってくるでしょう。とりあえず話を始めてしまいましょうか」
「…………」
岡崎が横目でにらみつけているが、草摩は気に留めていない。
草摩は伊吹が椅子に座りなおすのを待って、口を開いた。
「ではまず、冴木百合子の件についてです」
「ああ」
「結論から言うと、あれは自殺でしょう」
「何だって……?」
岡崎が呟く。
「百合子が、自殺……? そんな、ばかな……」
「一つ、確認しておきたいことがあります」
草摩が岡崎を見つめた。
「貴方は、彼女とかつて付き合っていたことがありますよね?」
「…………」
岡崎は警戒した様子で彼を見返す。
「誰に聞いた?」
「吉原奈津子さんにです」
答えたのは絵音だった。
「今日、冴木百合子が倒れた後……彼女はその話をしてくれたんです」
「…………」
「否定しますか? それとも肯定しますか?」
草摩に追求され、岡崎は苦しげに口をゆがめた。
「ああ、そうだ。半年くらい前まで……確かに付き合っていたよ」
「プライヴァシィに関わることをお尋ねしてすみません」
草摩はそう言うが、たいして悪いとも思っていなさそうに見える。絵音はおかしくなって口元を緩めた。――この人は本当に変わっている。さっきまでは不機嫌そうにしかめっ面をしていたのに、今はただ冷静に落ち着いた表情を見せていて、一体どこに切り替えスイッチがついているのだろうかと不思議だった。
彼は淡々と柔らかな声で話していく。成人男性にしては高いトーンだが、それは彼女の耳に心地よく馴染んだ。
「何故彼女が自殺をしようと思ったのか、その動機は分かりませんし……正直、興味もありません。ただ、彼女の目的は明確です」
「目的?」
「ええ」
草摩は一瞬口を閉ざして岡崎をじっと見つめた。彼は落ち着かない様子で草摩を見つめ返す。
「彼女は……復讐がしたかったのでしょう。もっと簡単に言うと、嫌がらせ……」
「嫌がらせ?」
伊吹は呆れたように口をぽかんと開けた。
「それは……彼、岡崎君に対してかい? それとも」
「両方でしょうね」
草摩の表情に一瞬だけ嫌悪の色が滲んだ。だが、それはすぐに融けて消えてしまう。
「とにかく――彼女はトリカブト入りのお茶を用意した。どこから入手したのかは分かりませんが、まあそれは難しいことじゃない。トリカブトはその辺に結構自生しているそうですしね。主に山間部らしいですが」
「あ」
岡崎が呟いた。
「そうだ……確か、彼女の部屋には」
「鉢植えでもありましたか?」
草摩が間髪入れずに尋ねる。岡崎は茫然としたまま頷く。その脳裏にある日の会話が甦った。
――何のために、こんな危険な花……。
――そうかしら。
――そうだろう。
――本当に危険なのは、人間。トリカブトを毒物として使う、人間が危険なのよ。
「まあ、入手経路はともかくですね。彼女はそれを入れたペットボトルのお茶を、少なくとも二本は作ったはずです」
「二本……というと」
伊吹は思わず右手の指を二本立てた。
「吉原奈津子の持っていたものと、岡崎君が所持していたもの……」
「そういうことです。彼女自身がどういう手段で服毒したのかは分かりませんが……それは大した問題ではない」
「…………」
「彼女が本当にやりたかったのは、嫌がらせでも何でもなかったのかもしれないな」
草摩はぽつりと呟いた。
「ただ――彼女は試したかっただけなのかも……」
「試すって、何をだい?」
伊吹が尋ねる。
草摩は小さく微笑んだ。だがそれはどちらかというと投げやりな――寂しそうな笑顔だった。
「吉原奈津子と、岡崎遊斗の絆。信頼関係……ともいえるかな……言葉にすると陳腐になってしまいますけれど」
岡崎がかすかに反応した。唇を噛み締め、拳をぎゅっと握り締める。
絵音はそんな彼を横目で眺め、ため息をついた。草摩は再び表情を消し、言葉を続ける。
「冴木百合子は隙を見て二人の荷物の中にペットボトルと、手紙を忍ばせた。いつそんなことが可能だったのかは分かりませんが……その辺りはもう少し証言を集めないことにはね。ただ」
草摩は一瞬口を切った。軽く唇を舌で舐める。喉が渇いたのかしら……絵音はぼんやりとそんなことを思った。
「直前のリハーサル中に少し抜けて――お手洗いだとか何とか理由をつけて、楽屋に戻ることは可能だったでしょう。そうすれば二人に気付かれずに仕込めたかもしれない」
「確かに」
岡崎はうなずいた。
「そんなことがあったような気がする――そう」
思い出したのか、彼は顔を上げた。
「最後のリハーサルが終わった後、ホールの横でばったり彼女に会ったんだ。そこで話をした……」
「何の話ですか?」
「…………」
岡崎は決まり悪そうな顔をするが、隠し立てをするつもりはない様子だった。絵音の方に視線を向ける。
「奈津子が君に相談したのって、百合子のことだったんだよね?」
「え? ……ええ、まあ」
絵音は不意をつかれて慌てたようにそう答えた。
「彼女と別れて大分経つけど……ずっと接触は絶えてなかった。おかしい、って思われるだろうし、俺もそう思ってた。奈津子はそれで大分悩んでいた」
絵音は思わず彼を凝視した。
「貴方は知っていたんですか」
その言葉は、岡崎の表情を歪めさせるのには十分だったようだ。
「ああ……知っていたよ。彼女が俺に訴える前から気付いてた」
岡崎は絵音を見ない。まるでそこに奈津子がいるかのように、ただ目を逸らしている。
「分かっていたから、何度も言った。俺と君は別れたんだってね。奈津子と付き合う前から、ずっと言って聞かせていた。でも……」
「一つ疑問なんですけど」
草摩が口を開いた。
「迷惑していたなら、どうして着信拒否するなり、メールも受信拒否するなりしなかったんですか? それに、呼び出されたって無視すれば良かったでしょう」
「……それは」
「できなかった?」
「そうだ」
苦々しい声だった。草摩は心底解せない、という顔をする。
「それは、百合子さんの気持ちを慮って?」
「そうかもしれない。別に絶交しなくても良いと思ったんだ。別に、俺だって彼女を心底嫌いになったわけじゃない。以前みたいに仲良くできれば、それが一番いいなって……」
「なるほど」
絵音がため息をつきながら呟いた。
「そりゃあ、奈津子も悩む訳だわ」
その口調はつっけんどんで、心底あきれ果てたといった様子だった。
「…………」
岡崎は黙っている。
絵音は身を乗り出すようにして岡崎を見つめた。
「貴方にとって、本当に大切だったのは誰なんですか?」
「…………」
「確かに貴方は百合子さんを傷つけなかったかもしれない。でも、その影で奈津子は泣いていたんですよ」
「……埋め合わせは、してたつもりだ」
「埋め合わせ? 人の心の傷を、どうやったら埋め合わせることができるんです?」
絵音の口調は穏やかで、表情は優しい。だが瞳は見開かれていて、今は瞬きすらしていないようだった。
「貴方は、百合子さんが怖かったんでしょう」
「な、」
「違う」
絵音はさらに言葉を重ねた。
「百合子さんによって貴方が傷つくのが怖かったんだわ」
「君は、一体――」
岡崎は顔を怒りに染めた。絵音はさらに言い募ろうとするが、それを止めたのは草摩だった。
「彼だけを責めるのは不公平だよ」
絵音ははっとしたように息を呑む。その一瞬の表情がとても生々しくて、綺麗だと草摩は思った。
――人を信じることは難しい。だけど……。
絵音が口をつぐんだのを見届けてから、草摩は岡崎に向き直る。
「奈津子さんも、貴方と同じでしたからね」
――結局は信じてしまう。僕らは何度でも、同じ失敗を繰り返す。
人を好きになって、
嫌いになって、
信じられなくなって。
だけど、いつか気づくんだ。
結局は全部、自分の中に原因があるんじゃないかって。
そう、
いつまでたっても鏡の前を動けない道化師みたいなものなんだって。
「絵音さんが倒れた原因は吉原奈津子であり、その後の彼女の行動はいわば――」
草摩は意識的に、その言葉を選んだ。
「突発的な自殺未遂なのです」