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第四楽章 Presto 5~7

  5
 
「桐生が戻って来たら」
 草摩は言う。
「俺は帰ります」
「帰る?」
 聞き返す伊吹の方は見もせずに、
「伊吹さんは吉原さんの聴取に行くんでしょう? 俺は行くわけにはいかないし、別に行きたくもないですから……」
「それ、どういう……」
 声をあげる岡崎に草摩は鋭い一瞥を投げた。
「そもそも俺は警察関係者じゃないんです。いつまでもここにいる理由はない」
 ──ガン、と音を立てて椅子が吹き飛ぶ。岡崎の座っていたものだ。先ほどからの草摩の態度に耐えかねたのだろう、草摩の襟元に手が伸びた。軽い音と共に、伊吹は落ち着き払ってそれを受け止める。
「そう熱くなるな。警察の前で暴力沙汰なんぞ、馬鹿げてるぞ」
「一体……」
 岡崎は赤くなった目元で伊吹を睨む。
「何だってこいつはこんなに偉そうにしているんですか!」
「え?」
「いや、偉そうにしているつもりはないけど……」
 草摩は呟く。だが相変わらず眉は顰められたままだ。
 絵音はため息をついた。──どう見ても草摩の態度はあまり誉められたものではない。何しろ、岡崎はまだ何も分かっていないのだから。
「草摩君、いい加減落ち着いたら? 私が怒っていないのに、貴方がそんなにカッカしてどうするの」
「……でも」
 草摩は俯いた。母親に叱られた子供のような仕草に、思わず伊吹の口元が綻びる。
「俺はやっぱり許せない」
「許すかどうかは別の問題」
 絵音はひどく穏やかな表情をしていた。
「生きていれば許せないことなんて沢山あるし、逆に私たちの許しを得なければ存在できないものなんて、この世界にはほとんどないのよ。そうでしょう?」
「…………」
 ──まるで桐生が言いそうな言葉だ。草摩は下唇を軽く噛んで黙る。
「えっと」
 絵音はそんな草摩の様子には頓着せず、憮然としている岡崎へと向き直った。拳を作り、指の背を頬に押し当てる。何かを考えているのだろう。
「あの……」
 少し逡巡したかのように言葉を濁す。
「何?」
 そっけなく聞き返す岡崎に、彼女はすまなさそうな表情を作った。
「お名前、何だったかなって……」
 伊吹は今日何度目かもわからない、大きなため息をついた。

  6
  
 身を固くしている奈津子に、桐生は問い掛けた。
「不安ですか?」
「え?」
 奈津子が顔を上げる。桐生は微笑を浮かべて彼女を見つめていた。
「あなたのやったことは、殺人未遂かもしれない」
「ち、ちが」
「何が違うのです?」
 桐生は優しい声で、しかし糾弾の手は緩めない。
「貴方はあのお茶に──冴木百合子からの手紙と共に貴方の鞄へと忍ばされていたお茶に、毒が入っているかもしれないと知っていた。それにも関わらず、貴方は」
 桐生は言葉を切って奈津子の様子を観察する。白いシーツの上に置かれた手は固く握り締められ、小刻みに震えていた。
「違う……」
 消え入りそうな声。桐生はそれを無視する。
「冴木百合子からの手紙はどこへ?」
「捨てました……トイレに、流して」
「なるほど」
 桐生は頷く。
「証拠は隠滅、か」
「そんなつもりじゃ……!!」
 桐生を睨む目は涙をにじませていた。――しかし、
「では、どんな意味があるというのですか?」
 そんなことに彼は頓着しない。その頬を彩る笑みを深めただけだ。
「殺人事件の被害者かもしれない人の遺した手紙を警察にも見せずに捨て、託された証拠品をも……」
「遊斗が」
 奈津子の声音に嗚咽が混じる。
「彼が、あの人を殺すわけないもの……!」
「信じていた、と?」
「そうです!」
「それなのに」
 桐生は言葉を紡ぎ続ける。

「貴方は試した」

 びくん、と彼女の体が震える。
「彼女の言ったとおりに、本当に毒が入っているのかどうか」
 畳み掛けるように桐生は言った。
「貴方を心配して来てくれた友人の命を使って、試したんですよね」
「わ、たし……わたしは……」
「貴方の彼がトリカブトを入れて、冴木百合子に飲ませたのかもしれないお茶を……貴方は友達に飲ませたんだ。実験台として」
「違う……!」
 奈津子の声は悲鳴に近かった。ベッドに横たえたままの体を深く折り曲げる。白いベッドカヴァの上に涙が点々と落ちた。
 ――誰か助けて。
 奈津子は心の中で泣き叫ぶ。
 ――遊斗、助けて。
「貴方は卑怯だ」
 桐生は両手を白衣のポケットに突っ込み、あくまで穏やかな口調で彼女に語りかけた。しかし、もし彼女が顔を上げて彼の表情を見ていたなら――その眼差しの冷たさに慄然としていたことだろう。
「貴方は自分の恋人を信用しきれなかった」
 奈津子は掌で耳を塞ぐ。これ以上聞きたくない。

 出て行って欲しい。
 この男に。
 今すぐ。
 ここから。 
 いなくなってしまえばいい。
 
「けれど貴方は彼に面と向かって問い詰めることも、かといって警察に相談することも、どちらもできなかった」
 桐生は言葉を切り、小さくうずくまっている奈津子を見下ろした。
「貴方は……心のどこかで疑っていたのでしょう。彼を」
「違う!」
「だから、貴方は自分で試さなかった。友達を使ったんです」
「違う……!」
「警察に言わなかったのは、自分の恋人が犯罪者になるのが嫌だったから」
「違います!」
「友達で試してみて、何も起こらなければそれでいい。安心できる。もし何かが起こったら……元々貴方はどうするつもりだったのです?」
「…………」
「現実に」
 桐生は彼女から視線を外し、窓の外を眺める。夏の強い日差しは既に和らいでいた。
「絵音さんは倒れた」
「…………」
「貴方の中で、岡崎遊斗に対する容疑は固まった。貴方の選んだ行動は、非常に面白かったですよ」
 桐生はくすくすと笑った。さらに、心底楽しそうに肩を揺らす。
「貴方は咄嗟に証拠を隠滅しようとして、自分で残りのお茶を飲んでしまいました」
「…………」
「焦っていたのでしょうか? それとも……彼に対する抗議のつもりだった? むしろ――倒れている友人を目の前にして、自分が疑われるのが怖かっただけかもしれません」
 奈津子は既に声もない。桐生は不意に言葉を切り、身を翻した。
「そういえば、もうすぐご両親がいらっしゃるとのことですよ」
 それを聞いた彼女の頬にかすかに血色が戻る。
「それから」
 振り向きもせずに桐生は背中で告げた。
「警察の方が……お話を聞きたがっています」
「――う、……」
 再び彼女の体が震え始める。
「明日になってからかもしれませんけど……その辺りは主治医の判断ですね」
「……ううっ……」
「それでは」
 扉の開閉する音と、遠ざかる靴音。奈津子は背中からベッドに倒れこんだ。
 ――貴方は卑怯だ。彼の低い声が耳の奥で鳴り響く。

 貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯だ貴方は卑怯
 
「うう……ううううう……うっ……ううっ……う……」
 奈津子はただひたすらに涙を流した。そうしていれば、少し楽になるような気がする。誰かに許してもらえるのではないかと――しかし、それは馬鹿げた期待だった。
「……うっ……」
 床に倒れた絵音の姿。
「うう……」
 ――貴方は試した。
「助けて……っ」
 恋人の名前を呼ぼうとした喉が引き攣れる。
 ――貴方は疑っていた。
「ああ……」
 奈津子は目を瞑った。
 もう、どこにも逃げられない。

  7

「とりあえず、だ」
 気を取り直した伊吹が口を開いた。
「現状を把握したい。草摩君」
 少々表情を和らげた彼に向き直り、
「君の考えを聞かせて欲しい」
「だから」
 岡崎が苛立ったように声を荒げた。
「どうしてこいつを特別扱いしているんですか」
「…………」
 伊吹は少し黙り、やがて口を開いた。
「私が、彼の意見を聞きたいと思うからだ」
「何故です?」
「悪いかね?」
「……別に」
 反問して黙らせる。だが、実のところ伊吹は岡崎の言うのももっともだと思っていた。確かに、傍目に見れば彼が草摩を特別視しているのは明らかだろう。
 その場にいるもう一人の人物、雪村絵音を横目で見遣る。――そういえば、彼女はそんなことを気にも留めていないようだが……。
「意見と言われても」
 草摩は目を瞬かせた。
「何か、不明な点が?」
「……うん、まあ色々と」
 伊吹は一瞬絶句してから答えた。――今更こんなことで驚いていてはいけない。
「私も幾つかあるわ」
 絵音が軽く手を挙げた。まるで授業中に挙手している学生のようだ。
「……分かりました」
 草摩は少し微笑む。
「じゃあ時系列を追って、簡単にお話します。疑問点があれば随時どうぞ」
「……少し待ってくれ」
 伊吹は胸ポケットの中から携帯電話を取り出し、部下の一人にコールした。吉原奈津子から事情聴取できるかどうかを病院側と交渉させるためだ。
 早口で指示を飛ばしている彼を見ていた草摩は、自分の横顔に注がれている視線に気付いて振り向いた。絵音があっけらかんとした笑顔で微笑んでいる。
「もうすぐ帰れるわね」
「……そうだね」
 草摩は肩をすくめた。