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第四楽章 Presto 1~4

私は歓びを知った 痛みとしての歓びも
試されて失敗したけど もう一度トライした
私は愛を知った 憎しみとしての愛も

  1
  
「それ、見せてくれ」
 伊吹はポケットの中から薄い白手袋を取り出すと手早く嵌め、岡崎から手紙を受け取った。
 便箋は白で、何の飾り気もない。横書きでしたためられた文字は几帳面に整っている。彼は急いで目を通した。
「くだらないことに巻き込まれてしまいましたね」
 桐生は首をすくめる。
「まあ、そうだな」
 草摩は憮然として頷いた。岡崎が険しい形相で振り向く。
「それ、どういうことだよ。くだらないって」
「どういうことも、こういうことも」
 草摩は投げやりに答えた。そこには先輩に対する尊敬の色など欠片もない。
「思ったとおりを言ったまでですけど」
「人が一人死んでるんだぞ? それに、奈津子だってまだ意識が戻っていないのに……」
「知っていますよ、そんなこと」
 草摩はぴしゃりとはねつけるように遮った。絵音は驚いたように彼の横顔を眺め、やがて息を呑む。彼の眼には紛れもない怒気の色があった。噴火寸前の火口のような輝き。美しくはあるけれど、危険な色。
「だから何だっていうんですか」
「な……」
 岡崎は虚しく口を開閉させる。
「こんな馬鹿げた自殺、俺は知りません」
 吐き棄てるような声音。そこに滲むのは嫌悪だった。
 
 
  2
  
 伊吹が顔をあげ、部屋に満ちる気まずい空気に気付いて眉を顰めた。岡崎は唇を噛んで草摩を睨みつけているし、草摩はそんな視線をものともせずに不機嫌な顔でそっぽを向いている。絵音は複雑な表情を浮かべて草摩を見守っていた。
「どうかしたのか?」
 一人穏やかな微笑を崩さない桐生に尋ねてみるが、
「いや、草摩君がよほど腹に据えかねているようでね」
 答えになっているような、なっていないような言葉が返ってきた。
「腹に……? どういうことです?」
「それよりも、手紙。お読みになったんでしょう?」
 伊吹は頷いた。
「鑑定にも回すが、これが冴木百合子本人のものだとすると……」
 ――吉原奈津子の立場は悪くなるな。伊吹はその続きを口中で呟く。
 桐生は唐突に指を一本顔の前に立てた。左手の人差し指だった。
「その手紙に書いてあった内容。当ててもいいですか?」
「え? ……はあ、ご自由に」
 一応部外者である彼らに証拠品を勝手に見せるわけにはいかないが、勝手に桐生が当てる分には構わないだろう。
 桐生はわざとらしく少し考え込むふりをしてからふっと顔を上げた。
「『私は吉原奈津子に殺される』――」
 薄い唇から漏れ出した言葉に、伊吹は動揺した。
「『いつの間にか私のお茶がすり替えられていたことに、さっき気付いた。もう飲んでしまったから遅いかもしれないけれど、一応貴方に証拠品として託しておく。彼女に隠滅されるのを防ぐためにも』……とか、何とか?」
 最後だけ妙に明るく言って桐生は言葉を切った。
「どうです?」
「……大まかに言うと、そんなようなことですよ」
 伊吹は何か大切なものを諦めたような表情で同意した。――何故当てることができたのか、何をどこまで分かっているのか、それを彼に問い詰める気力は既になかった。
「な、なんで……?」
 代わりに岡崎が驚いている。無理もない、と伊吹は思った。だが、自分はもう驚かない。桐生千影とはそういう男だから。
 
 何かを犠牲にして、
 何かを得る。
 何かを殺して、
 何かを生かす。
 その方法を、知っている男なのだから。

「さっき……」
 絵音の声を久しぶりに聴いたような気がして、草摩は振り向いた。彼女の視線とかち合う。相変わらずの真っ直ぐな眼差しだった。
「自殺って、言ったけれど」
「ああ、うん」
「それ、正確じゃないと思うわ」
 ――あれ? 
 草摩は軽いデジャビュを感じた。彼女の黒い瞳。ぽっかりと開いた空洞を覗き込むとどこまでも落ちていって帰って来れなくなりそうな、そんな淵。
「多分、」
 ほとんど唇を動かさずに彼女は語る。
「殺人未遂。容疑者死亡だけど」
「そうかもしれない。でも……僕はやっぱり自殺だと思う」
「……ま、それは彼女でないと分かりませんね」
 桐生が軽く口を挟む。伊吹が問い返した。
「彼女、とは?」
「…………」
 桐生が振り向く。伊吹は彼の淵と、相対した。
「冴木百合子、ですよ」

  3
  
 カンファレンスルームの扉が開き、看護師が姿を見せた。
「吉原奈津子の意識が戻りました」
 ――ガタン、と岡崎が椅子を蹴立てて立ち上がるのを伊吹は制し、桐生に目配せした。
「様子を見てきていただけますか」
「はい」
 視線で訴えかける岡崎に、
「君はここに居て」
「…………」
 伊吹は無表情に告げた。岡崎は不審そうな視線を桐生に向ける。――何で貴方だけ。そう言いたげだった。だが、そんな彼の表情など桐生は意に介さない。
「では、少し離れますね」
 軽く草摩に手を振り、絵音に会釈して、桐生は部屋を出て行った。扉の閉まる音が、やけに大きく響く。
「……それで」
 部屋に落ちた沈黙を破ったのは伊吹だった。
「草摩君には分かっているのか。今回のことが一体何だったのか」
「分かっているのかどうか、僕には分かりません。ただ、客観的に見てどういう事象が起こり得たのか、その最も可能性の高いものを提示することはできます」
「ああ……それで構わない」
 伊吹は椅子に腰を降ろした。――草摩はとてつもなく不機嫌だ。それは伊吹にも分かっている。そもそも草摩自身がそれを隠そうとしていない。だが、それがどういうことに由来するのかは全く分からなかった。
 実のところ、第一報を受けてからまだ数時間しか経っていないのに、この疲労感ときたら。伊吹は深くため息をついた。

  4
  
 その人を死神だと思った。何故だかは分からないけれど。
 
 吉原奈津子はぼうっと彼を見つめていた。とても綺麗な、背の高い男の人。彼女の父親よりはずっと若いけれど、恋人よりは年上だろう。長い指先が彼女の腕に刺さったままの点滴をチェックした。
「……先生」
 ぽつりと呟く。
 ――死神ではない。彼は医者だ。

「わたし、友達に酷いことをした」
「許してもらえないかもしれない」
「わたし、彼を信じられなかった」
「もう駄目かもしれない」
「わたし、彼女を死なせてしまった」
「わたしのせいかもしれない」
「わたし……」

「吉原さん」
 彼はやんわりと彼女を遮る。

「友達なんていくらでも取替えがききますよ」
「彼氏だって永遠のものじゃない。別れるかもしれない」
「死んでしまった人はもう戻らない。君が手を下したのでなければ気に病む必要なんてない」

「え…………」
 奈津子はぼんやりと彼を見上げる。逆光になって彼の表情は良く見えない。ただひどく優しい顔をしている――ような気がした。
 ゆっくりと深呼吸をする。
「そう……」
 急に彼女は息を止めた。眼を見開き、彼を見つめる。
 彼は微笑んでいる。ただ、優しく。
「君はそう言って欲しいんでしょう? 君は悪くないって」
「…………」
 奈津子はぎゅっと目を瞑った。それ以上聞きたくない。だが、彼は許してくれなかった。

「友達は君を許すかもしれない」
「彼は君を捨てないかもしれない」
「彼女のことで君が罪に問われることはない」
「……でも」
 眼を開いて彼の顔を見つめる。彼の表情は終始変わらなかった。
 
 ただ、
 穏やかに、
 綺麗に、
 笑っている。
 (きたな)いものを全て押し隠して、
 笑っている。
 
「きっと彼は……君を許さないでしょうね」
 ――彼? 奈津子には良く分からない。彼はそんな彼女を見つめながらもう一言、呟いた。
「何より、貴方は貴方自身を許せるのかな……?」