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第四楽章 Presto 11~13

  11
 
 言葉のない時間が流れた。
 冴木葉子、と名乗った彼女。桐生はただそれを見つめている。彼女は目を逸らすことなくまっすぐに桐生を見据えていた。唇には張り付いたような笑み。だが瞳は暗く澄みきって瞬きすらしない。
「……なるほど」
 桐生はつぶやいてふっと息を抜いた。
「貴方は自殺などしていなかった。貴方が殺したのは」
「自殺?」
 彼女は聞き返し、小さく噴き出した。
「私がどうして自殺しなければならないというの?」
「……僕が言っているのは」
 桐生は気を悪くした様子もなく、真面目な表情で続ける。
「今日起こった事象をただ見せられどのように解釈するかと問われた時、一体どのような返答がなされ得るかということです」
 彼女は不意ににっこりと微笑んだ。その切り替えは絵音に似ているようで違う。もっと人工的な、意識的な匂いがした。
「面白い方ね」
「だからこそ」
 桐生は少しだけ微笑む。
「貴方はここに来たのでしょう?」
「……そうかもしれない」
「貴方がここにこうやって来なければ――僕は貴方が姉だか妹だか、つまり冴木百合子が冴木葉子に入れ替わっていることには気付かなかったはずです。自己顕示ですか?」
 彼女は首をかしげてみせる。
「私、客席で葉子が倒れるところを見ていたの。そのとき飛び出したのが貴方だった」
「…………」
「客席の人間は誰が倒れたか知らないし、教えてももらえない。私は遅くなりそうだから迎えに来てもらうために実家に連絡していたのよ。途中で――親には警察から連絡が入ったようだったけれど」
 彼女は口早に告げた。桐生はそれを遮るように、
「僕は」
 ときつい調子で言う。
「貴方と話すことは何もありませんよ」
「……聞きたいこともないと?」
「人間は」
 桐生は笑みを消した。
「貴方が思っているほど馬鹿ではありません」
「…………」
 彼女はわずかに目を細めた。
「貴方がどうやってご自分の姉妹を陥れたのか、などということには何の興味もない。もしかしたら積極的に貴方に協力していたのかもしれないし、それとも貴方に騙されてトリカブトを飲まされたのかもしれない。貴方と入れ替わる方法はいくらでもあるでしょう。皆を驚かせるために髪型をお揃いにしたっていいし、貴方はもしかして今カツラをかぶっているのかもしれない。舞台だって、風邪を引いて声が出ないと代役を頼むこともできる」
「パーフェクトね」
 感心したように鼻息を漏らす彼女に、

「しかし――貴方はまだ、自分が殺したものの大きさに気付いていない」

 桐生はゆっくりと言葉を紡いだ。
 彼女は黙って彼を見つめていた。その口元は固く、一文字に引き結ばれている。
「貴方の計画は、確かに成功したのかもしれない。双子を使って自殺したように見せかけ、その隙に貴方を振った元恋人と、そして彼の現在の交際相手に罠を仕掛けた。そして」
 桐生はやれやれ、というように首をすくめる。
「彼らはまんまとその計画にはまってしまった」
 草摩のように怒りをあらわにするほど、自分は若くない。だが、草摩がどうやらほのかに好意を抱いているらしい女性――雪村絵音が巻き込まれたのは、桐生にとっても腹立たしいことではあった。
「貴方はただ、それを横目で観察していればよかっただけ。さぞかし面白かったことでしょう。……けれど」
 桐生は何の表情も動かさない。
 
「貴方はもう、冴木百合子には戻れない」

「…………」
 彼女の表情に変化はない。
 
「貴方は他人の、本来冴木葉子のものであった人生を生きていく以外に道はない」

 桐生の声音には軽蔑の色が滲んでいた。
 
「貴方は一生下らない茶番を続けていくしかない」

 彼女は静かに口を開いた。
「……それが? 茶番ではない人生が、この世にあるとでも思っていらっしゃるのですか?」
 彼女はやれやれ、期待はずれだ――とでもいうような、そんな表情で苦笑していた。
 桐生はふう、と息をつく。
「それは本人の気持ち次第でしょう。茶番だと思っていれば茶番に見える。そう思わなければ」
「それはただ、事実に気が付いていないだけではないのかしら?」
「……いいえ」
 桐生の脳裏には若い二人の姿が浮かんでいた。七条草摩。そして、雪村絵音。あの二人はきっと気付いている。気付いていながら、彼らは――。
「そんな言い訳はただ逃げ道を作っているに過ぎないと、そう考えている人もいます」
「…………」
 初めて彼女の顔色が変わった。桐生はそれを面白そうに眺める。彼女は己の失態に気付いたのか、表情を改めて無表情を保った。しかし、容赦なく彼は言葉を重ねる。
 
「貴方は、貴方の人生から逃げた。それだけですよ」

 12
 
 絵音は屋上から降りてくるエレベータの階数表示を、ぼうっと眺めていた。──ようやくこの、非日常的な事件から解放される。伊吹にも、もう帰って良いと言われた。帰ろう。母と共に、自分の家に。そう思っても何故か気は晴れない。
 奈津子のことも気にかかるが、もう彼女とは前と同じようには付き合えないだろう。絵音の感情的な問題ではない。ただ何となくそういうものなのだろうと思った。
 たとえば退院した奈津子に謝罪されたとして、自分は彼女を許すことができるだろうかと考えてみる。──許すことは簡単だ。全てをなかったことにできる。だからこそ、自分はその安易な道を選ぶかもしれない。しかし、本当は起こってしまった後でなかったことにできることなど何もない。だからこそ、人は忘却に縋って生きている。「自分にとって」だけは、なかったことにできるように……。
 やがてエレベータの扉が開いた。先客は、見覚えのある女性だった。コンサートホールで草摩と一緒に居た自分に声を掛けてきた、あの人だ。十人に尋ねれば十人ともが、掛け値なしの美人だと言うだろう。だが、そのうち一人くらいは彼女の持つ、かすかに陰鬱な雰囲気を敬遠するかもしれない。──いや、陰鬱というのとは少し違う。何となく近寄りがたい。こいつは自分の手には負えないぞ、というような……。
 女性は絵音の方を見向きもしないでデジタルの階数表示を睨みつけていた。先ほど会った時とは随分印象が違う。絵音の存在にも気付いていないのかもしれない。さりげなく様子をうかがってみると、小さな拳がほっそりした腰の横で固く握りしめられていた。
 ──何か嫌なことでもあったのかしら。
 絵音は内心で呟き、しかしすぐに思い直す。
 ──これは、嫌なことがあったというよりも……。
 何か圧倒的なものによって叩き潰されてしまった。抗うこともできなかった。そういった無力さと悔しさと、僅かな──自分でも認められないほどの諦めと。そういった感情がマーブル模様を描いて彼女の顔色を白っぽく染めているような。──まあ、勘違いかもしれないけれど。
 一階に着き、絵音は彼女よりも先に降りて足早に歩き出した。絵音が母の待つ待合室に近づいた時、そこから見知らぬ中年の女性が飛び出してきた。
「?!」
 驚いて跳ね退く彼女には構わず、女性は駆けていく。続いて出てきた男性──おそらくは彼女の夫だろうが、彼が代わりのように絵音に会釈して、そしてまた歩みを早めた。絵音は振り向くことなく、歩き続ける。しかし――。
「葉子!!」
「ママ」
「探したんだよ、警察に聞いたら葉子は先に病院に行ったと聞いたから」
「パパ、ごめんなさい」
「そんなことより葉子、」
 ママ、と呼ばれた女性の声が震える。
「百合子が……!」
 絵音は驚愕し、振り返った。
 号泣する母親と抱き合う娘。そしてそれを側で項垂れている父親。
 ――ゆりこ? まさか……。
 ごくり、と喉を鳴らす。その音がやけに大きく響いたような気がして、絵音はびくりと体を震わせた。実際には小さな音だったのだ。誰の耳にも届くはずはない。そんなはずはないのに――。
「…………」
 自分よりも背の低い母親を抱きしめていた娘――あの女性が、ふっと目を上げて絵音を見た。その目は無表情に凍り付いている。そこには家族を失った悲しみなど欠片もなかった。ただ、どうでもいいといった投げやりな色。こんなところには自分の大切なものはないとでもいうように、興味もなさそうに眇めた瞳。
 母親は気付いていないのだろう、涙を流しながら、娘に語りかける。
「貴方もショックでしょう、ごめんね、私がこんなで……この世でたった二人の姉妹だったんですものね、……生まれたときからずっと一緒だったんだもの……生まれた日も、生まれた場所も……」
「無理しないで、ママ」
 声だけはあくまで優しく。娘は立ち尽くす絵音をただ眺めている――まるで、彼女がどこまで知っているのかを試すように。
 絵音はそれ以上見ていられなくなり、くるりと踵を返した。
 
 ――冴木百合子には双子の姉妹がいた。そしてきっと、彼女は……。
 
「そうか」
 唇の中で小さく呟く。背中に感じる冷たい視線。彼女はそれから一刻も早く逃れたくて、母の待つ待合室に飛び込んだ。

 13
 
 伊吹の携帯電話にかかってきた用件は、冴木百合子の両親が到着したというものだった。彼は沈痛な面持ちでそれを告げる。草摩は頷いた。――もう、ここで話すことは何もない。
 連れ立って扉を出たところで捜査員に先導されてきた三人の人物に出会った。冴木百合子の遺族だろう。実際のところはたまたま立ち会わせた部外者に過ぎない草摩は、彼らと目をあわさずにその場を離れようとした。伊吹が一歩、前に出る。
「この度は誠に――」
「どうして娘は死んだんです! どうして」
 半狂乱で食ってかかる母親をなだめながら、伊吹は草摩に目配せした。もう行け、ということなのだろう。草摩も頷き、歩みを再開する。
 廊下を歩む草摩の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「岡崎さん、お久しぶり」
 そういえば先ほど母親の後ろにひっそりと立っている人影があった。どこかで見たような――。
「あ、ああ」
 口ごもりながら、岡崎が答えている。
「このようなところで会いたくはなかったわ」
「…………」
「でも、どうして姉は……」
「貴方の方が妹だったのですか」
「ええ。百合子が姉で、私が妹でした」
 草摩は不意に歩みを止める。
 
 ――思い出した。彼女を一体どこで見たのか……。
 
「生まれた日は一緒でも、死ぬときは別なのですね……」

 ――彼女は確か、あの時コンサートホールで。
 
「……そうか」
 草摩は小さく呟いた。これで全ての辻褄が合う。
 ――結局、全て彼女の手の内にあったわけだ……。
 ぞっと身震いした草摩の前に見覚えのある長身が立ち塞がった。
「桐生……」
 見上げた彼の顔はどこか侮蔑の色に染まっていて、草摩はなぜかほっとする。やはり桐生も気付いていた……。
 
 冴木百合子は、
 双子の妹の冴木葉子を、
 自分の身代わりに殺した。
 自分をかつて捨てた恋人と、
 その彼女との絆を確かめる、
 ただそれだけのために。
 それだけのために、
 絵音は倒れた。

「……行きましょう」
 桐生に促され、草摩は歩み出す。
 ――決して振り返らない。それが今の彼にできる精一杯のことだった。