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第二楽章 Moderato 8~10

  8
 
「刑事さん!」
 血相を変えて駆け寄ってきた青年が、伊吹に向かって叫んだ。間違った呼称だがそう呼ばれるのは慣れている。それに何より、彼の切羽詰った様子が気に掛かった。
「何かありましたか?」
「絵音さ……いや、雪村さんが」
「……ユキムラ?」
 呟いた伊吹ははっと息を呑んだ。さっき、草摩と共に楽屋に入っていった少女。
「いきなり倒れたみたいなんです。来て下さい! それと救急車を」
「分かった」
 伊吹は駆け集まってきた捜査員の一人に救急車の要請を命じ、残りのうち数名を連れて楽屋の廊下を走った。――やはりあの時、許すべきではなかった。悔悟の念が頭をよぎる。
「この部屋です!」
 先頭を走っていた青年が足を止めた。
 伊吹は開け放たれたままの扉から中に入る。部屋の中央近くに少女が倒れているのが見えた。気道確保はされているらしく、青ざめた顔があらわになっている。眼を閉じ、荒い息を付いている様子が見えた。その傍らに草摩が屈み込んでいる。
 ぴしゃり、と濡れた靴音がして足元を見ると茶色い液体が床を浸しており、隅には口の開いたままのペットボトルが落ちていた。
「絵音ちゃ……そんな、何で」
 壁際に立ちすくんでいる少女を一瞥し、ひとまず伊吹は絵音の方に歩み寄った。草摩が顔を上げぬまま答える。
「呼吸はしています。脈も特に乱れはない」
 伊吹は一通り確認し、頷く。そして草摩を見遣った。
「吐かせたのか」
「……はい」
「そうか」
 とりあえずは賢明な処置だ、と伊吹は思った。
「意識はないようだが」
「救急車は」
「間もなく来る」
 伊吹はそう言うと声を低めた。
「君が付いていながら、何故こんなことに」
「少し場を離れたんです」
 草摩は負けず劣らず小さな声で囁いた。
「吉原奈津子と、二人きりにした」
「吉原奈津子……」
 鸚鵡返しに呟き、はっと顔をあげる。その視線の先にいた小柄な少女は、怯えたようにあとずさった。伊吹はひとまず視線を逸らした。
「この床は……茶か?」
「ええ。雪村さんは持っていませんでした」
「吉原奈津子のものか……」
 伊吹は捜査員を呼び、転がったペットボトルに残っている液体を分析に回すように告げた。
「彼女なのか? 彼女が……」
 伊吹の言葉に草摩は首を横に振る。
「まだ分かりません」
「しかし」
「まだ、材料が少なすぎる」
 草摩は呟いた。
「…………」
 確かに、現状で吉原奈津子をどうにかすることはできない。伊吹は頷いた。
 そして、ふと気付く――草摩の握り締められた拳は、膝の上で小刻みに震えていた。
 

  9
  
 雪村絵音が救急車で運ばれた後、伊吹は吉原奈津子と高城尚人に部屋に戻っているように告げた。
 草摩は振り向きもせず、部屋の真ん中をじっと見つめている。
「俺がここに来たときも」
 淡々とした口調に、押し殺された感情の奔流を感じた。――あの時と同じだ。伊吹は彼の横顔を見ながら、既視感に襲われた。
「伊吹さんが来たときの状況と何も変わりません。床はびしょ濡れだったし、雪村さんは既に倒れていました。吉原さんは席から立った状態で立ちすくんでいた」
「部屋の中には二人きりだったのだな?」
「それは吉原さんに聞いた方が良いように思いますが……」
「いや。まずは君に聞きたいんだ」
「…………」
 草摩はようやく真っ直ぐに伊吹の目を見、やがて頷いた。
「それでは、やはり彼女が……?」
「いや、それでは不自然な点があります」
 草摩は言った。
「何故わざわざ二人きりの時に実行したのか」
「……というのは?」
「自分を疑ってくれというようなものでは?」
「それはそうだな」
「それと」
 草摩は床を見た。ペットボトルは持ち去られているが、床はまだ濡れたままだ。
「何故、冴木百合子が死んだ日に雪村さんを害しなければならなかったのか」
「どういう意味だ」
「吉原さんが最初の被害者を殺したのか、そうでないのかによって事情は変わりますが……」
 草摩はゆっくりと部屋の中を見回した。窓のない、小さな部屋である。扉以外からは誰も出入りできないことは、間違いない。
「まず、彼女が二つの事件両方を手がけたとしましょう」
「うん」
「最初の事件について、彼女は特に疑われていたわけではない。何も今日すぐに行動をうつす必要はなかったはずです」
「雪村絵音だけは疑っていた。としたら?」
「だとすれば、わざわざ吉原さんと二人きりになろうとするでしょうか?」
「自首するように説得したのかもしれない」
 何となく、彼女はそういうことはしなさそうだな、と草摩は思った。だが口に出したのは別のことである。
「そんな相手の出したものをおいそれと口にするかどうか。俺はしないと思います」
「……それもそうだな」
 伊吹は腕を組んだ。無理に飲ませるといっても、体格では背の高い絵音のほうが有利だ。吉原奈津子がよほどの怪力の持ち主ならば別だが、そうも見えない。さらに、近くにいた草摩が言い争う物音も絵音の声も聞いていない。吉原奈津子の悲鳴ははっきりと聞こえたのにも関わらず、である。
「もし雪村さんのことが最初の一件とは無関係だとしたら……」
 草摩は話を再開した。
「吉原さんは一体何故今日という日を選んだのか。元々今日雪村さんと彼女は会う約束をしていたようですが、それにしてもこんなイレギュラーな出来事が起こった日にわざわざ決行しなければならない理由はない。警察もつめかけているのに」
「アリバイを完璧にして我々を証人にするというならともかく……」
「ええ。いくら何でも馬鹿ですよ、こんなの」
 草摩は吐き捨てた。伊吹はその肩に優しく手を置く。
「あまり自分を責めないほうがいい」
「…………」
 草摩の体がぴくりと震えた。
「むきになると判断が狂うこともある。落ち着かなければ」
「落ち着いてはいるつもりです……けど」
 草摩は俯く。
「俺があの時……二人きりにしなければ……」
「…………」
「いつだってそうだ」
 片手で顔を覆い、草摩は呟く。
「いつだって、俺のいないところで誰かが傷つく」
 親父も、
 桐生も、
 雪村さんも。
「俺の周りの人は……俺のいないところで……」
 不意に、伊吹の胸の携帯電話が鳴った。伊吹はそれを手に取る。二言三言交わして切った後、彼は草摩の頭をくしゃ、と撫でた。
「…………」
 驚いて顔を上げた彼に、伊吹は微笑む。
「雪村絵音が眼を覚ました」
「え……!」
「検査も済んで、これ以上処置の必要はないそうだよ。まあ大事を取って少し休んでもらうとのことだがね」
「良かった……」
 顔を緩ませる草摩に、しかし伊吹はすぐに険しい表情になった。
「それと、彼女が摂取した毒物のことだが」
 草摩の表情に再び緊張が走る。
「おそらく……トリカブトだ」
「…………」
 草摩は言葉を失った。
 
 
  10
  
 眼を覚ました絵音は、立て続けに脈拍や血圧を測定されたが、特に異常はないようだった。自分の知らないうちに、左腕に点滴が一本繋がれている。絵音はぽたりぽたりと落ちるその点滴を、ぼんやりと見上げていた。
 担当医が救急病室を出た後、入れ替わりに病室に入ってきた男を見て絵音は驚いた。
「桐生さん」
「大丈夫ですか? 雪村さん」
 端正な顔を曇らせ、桐生が歩み寄ってくる。
「ちょうど僕はあちらに戻ろうとしていたんですけど、貴方の名前を聞いてびっくりしましたよ」
「私もびっくりしました……」
 絵音は呟く。
「どうして自分が倒れたのか、今でも良く分からなくて」
「何か飲んだり食べたりしましたか」
「友達がくれた、お茶を……」
 絵音ははっと息を呑む。
「まさか、そこに何か……?」
「どうやら貴方の症状は軽度のトリカブト中毒に酷似していたようです」
 桐生は淡々とした口調で告げる。
「早い段階で一度嘔吐していたこと、ここで素早く胃洗浄の処置をされたこと。そもそもの摂取量も僅かだったので、そういったこと全てが幸いしたようですね」
「…………」
 絵音は俯いた。
「あの子、私を殺すつもりだったのかしら」
「…………」
 桐生は黙って彼女を見つめる。
「でもおかしい」
 絵音は独り言のように言葉を続ける。
「あんな、二人っきりのところでやったら自分が疑われるに決まってる。しかも周りに警察がたくさんいるっていうのに」
「…………」
 桐生は僅かに眼を細めた。
「しかもあんな話を私に聞かせて、どうしようっていうつもりなの?」
 絵音は低く呟き続ける。
「……何もかもがおかしいわ」
「貴方も大概変わった人ですね」
 桐生が不意に口を開いた。淡い苦笑を浮かべている。
「毒を飲まされた後とは思えないほど冷静だ」
「…………」
 絵音は一瞬無表情に桐生を見返し、すぐに微笑みを浮かべた。
「死んでしまえば、こんな風にものを考えることもできなくなりますから」
「……なるほど」
 桐生は応えるように笑った。
「素敵な理由ですね」
「あ、そうだ」
 絵音は座っていた寝台から立ち上がる。
「七条君にお礼を言わなきゃ」
「草摩君に?」
 桐生は不思議そうな顔をした。
「ええ」
 絵音は頷く。
「彼が倒れた私を見つけて吐かせてくれたんです。彼がいなかったらもう少し重症だったのかもしれない」
「……なるほど」
 ――また、彼は人が倒れているのを見たのか。
 草摩の叫び声を思い出す。桐生が倒れたあの時、彼は明らかに錯乱していた。絵音の言うような冷静な対処など、とてもできるわけがないほどに。
「草摩君が、貴方をねえ……」
 桐生は意味深長な笑みを浮かべる。絵音はその理由が分からないというようにきょとん、としていた。