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第二楽章 Moderato 6~7

  6
 
 細い廊下を歩んでいくと、大きな控え室らしき部屋の扉が見えた。おそらくここにほとんどの学生が居るのだろう。抜け出しているのは吉原奈津子一人かもしれない。――少しまずいな、と思った。
「あれ、草摩?」
 声が聞こえたのと気配を感じたのは同時だった。草摩は振り向いて笑みを浮かべる。
「よう」
 高城尚人。彼にこのコンサートのチケットを手渡した男だ。
「こんなところで何してるの」
「いや。ま、ちょっとね」
 草摩は近付いてくる尚人を見つめる。黒いスラックスに白いワイシャツ。きちっとアイロンがあててあるのが印象的だった。彼は下宿しているはずだから、自分であてたのだろうか。
「部外者立ち入り禁止じゃないんだ」
「俺、警察に知り合い多いしさ」
「ああ」
 尚人は頷いた。
「そういうこと」
 その端正な横顔からは何もうかがい知ることができない。
「お前たちは、ぶらぶら出歩いてもいいいのか?」
「トイレ。一応、このホールから出なければいいってことらしいからね」
「そうなのか?」
 しかし、楽屋の外ではほとんど部関係者らしきものの姿を見ない。草摩の怪訝そうな顔を見て悟ったのか、尚人は肩をすくめた。
「みんなびびってるんだよ」
「……どこまで聞いてる?」
「いや? 特に何も。でも」
 尚人はため息混じりに呟いた。
「先輩たちは色々知識もあるし……ま、想像の範囲だけど」
 ――誰かが冴木先輩に何かしたんだろ? 声を低めて囁くように言う。
「…………」
 草摩は軽く首を横に振った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。今のところ、何とも言えないな」
 廊下の壁にもたれかかり、草摩は上目遣いに尚人を見遣る。
「なんで? 先輩たちの話じゃ何か毒物でも飲まされたんじゃないかって。急病ならこんなに警察は来ないだろうし」
「飲まされたかどうかは不明だよ」
 草摩は腕を組んだ。
「『飲まされた』っていうと彼女以外の誰かの意志が絡んでくるけど、今の段階じゃそうとは限らない」
「自分で飲んだかもしれない……ってこと? 自殺?」
「可能性はないわけじゃない」
「……死んだのか?」
「――――?!」
 しまった。草摩の表情が目に見えて変わった。尚人が息を呑む。
「まさか……」
「後でみんな知ることにはなるだろうけど」
 草摩は視線を床に落とした。
「今はあんまり言うなよ」
「何で?」
「警察が関係者に言わないのはそれなりの考えがあるからだと思うから」
「考え?」
 尚人は不思議そうな表情で鸚鵡返しに聞き返す。草摩は顔を上げた。
「もし関係者の中に殺人者がいる場合、そいつはまだ自分の目的が完遂されたかどうかが分からない訳だろ?」
「そうだな……なるほど」
 尚人は頷いた。
「焦ってボロを出す可能性もなくはない……か」
「そう上手くはいかないと思うけどね」
 草摩は肩をすくめた。
「もしこれが他殺だとすれば、きっとアリバイを完璧なものにしているはずだ」
 冴木百合子は舞台上で倒れ、死んだ。それは、その場にいたもの全員が目撃している。
「かなり自分の犯行計画に自信があるんだろう」
「……そうだね」
「なんて」
 草摩は小さく笑った。
「お前が犯人だったらこういうの言っちゃまずいよな」
「冗談きついよ草摩」
「分かってる」
 軽く尚人の肩を叩いた。
 ――実際、草摩は無条件に尚人を信用しているわけではなかった。冴木百合子と彼の間には何の関係もないように見える。だが、それは草摩が知らないだけかもしれない。そもそも、人間関係がない場所に殺意が芽生えるわけがないなどとは決して言えない。それはただの先入観である。
「俺、もう戻るわ」
 尚人がそう言って軽く手を上げた。
「ん、じゃあ俺も」
 草摩が壁から背中を浮かせたとき。廊下にかすかな――それでいて鋭い悲鳴が響いた。
 
 
  7
  
 遡ること十数分。
 絵音は穏やかな表情で奈津子を見つめていた。引き結ばれた唇と真っ直ぐな眼差し。だが奈津子はそれを見ようとしない。
「冴木先輩……どうなったのかな」
 呟かれた言葉に、絵音は小さく息を吐いた。聞かれると思っていた。そしてそれに答えてはいけない、とも。
「分からないわ。まだ警察の人は何も言ってない」
「……そう」
 奈津子は指先が白くなるほど拳を握り締めていた。絵音は意を決して口を開く。緊張のせいか喉の奥から胃液がせり上がってくるような不快感があった。
「もしかして」
 舌で乾ききった唇を湿し、
「この前言ってた相談事って、今回のことと関係あるの?」
「…………」
 それは湖面に落ちた一粒の水滴だった。奈津子の表情がざわめく。
「それは……」
 その声はわずかだが掠れていた。
「分からない」
 奈津子は俯く。肩のラインが床に向かって落ち込んでいて、絵音は何となくその曲線を視線でなぞった。
「でも冴木百合子さんに――彼女に関係のあることだった。そうよね?」
「……うん」
 頷いた。相変わらず表情は見えない。
「喉が渇いた」
 絵音が呟くと奈津子が弾かれたように顔を上げた。
「あの、私お茶持ってるけど」
 手に持っていたハンドバッグからペットボトルを取り出した。緑茶のボトルだが、中に入っているのは麦茶なのだろうか、液体の色は茶色だ。
「家で沸かしたの?」
 絵音はそれを受け取り尋ねた。奈津子は頷く。
「なっちゃんは下宿だよね。そういうの、面倒くさくない?」
「絵音ちゃんは自宅?」
「まだ自宅通いだよ」
「大学までどれくらい掛かるの?」
 絵音の喉を冷たいお茶が通る。
「今のところは一時間ちょっと。ただ、二年からキャンパスが変わるのよ。そうなると一時間半以上かかるから、下宿も考えてる」
「ふうん」
「それで……」
 絵音が再び口を開くと、彼女の笑顔がさっと掻き消える。
「話って何?」
「…………」
 奈津子は自分の拳に視線を落とし、やがて大きくため息をついた。
「分かった。言うね」
 絵音はじっと奈津子を見つめる。
「冴木先輩は、私の彼氏の元カノだったの」
「へ?」
 予想外の言葉に、絵音は目を瞬かせる。
「それ、どういうこと?」
「言葉どおりの意味。遊斗(ゆうと)――あ、彼の名前なんだけど。先輩は彼と付き合っていたの。春頃まで」
「春まで?」
「私と付き合い出す一ヶ月くらい前かな」
 奈津子はそう言って弱々しく微笑んだ。彼女の付き合っている相手、岡崎(おかざき)遊斗はK大三回生である。冴木百合子とは同級生で、彼らが付き合っていたのは一年弱。告白したのは百合子からだったという。
「最後は彼の方がふったんだけど、別れるまでかなりもめたって」
「ふうん……」
 絵音は肘を突いて肩の辺りではねている髪をいじった。
「でも、もう別れたんでしょう?」
「うん、別れたんだけどね」
 奈津子は困ったように俯いている。
「彼、結構しょっちゅう呼び出されていたの。ご飯食べに行こうとか、飲みに行こうとか。それも二人きりでよ?」
 絵音は怪訝な表情になった。
「何それ」
「相談があるとか言ってね。変だとは思うんだけど……」
「失礼だけど、彼はそれに応じていたってわけ?」
「あの人、優柔不断だから」
 奈津子は悲しい笑顔を浮かべた。
「最初は私も何も言わなかったの。でも、だんだん頻繁になってきて……いい加減おかしいんじゃないかと思い出して」
「そりゃそうよね」
 絵音は不意に大きく息を吸い込んだ。何となく息苦しい。締め切った部屋のせいだろうか。
「彼に言ったの。そうしたら彼も悩んでいたみたいで……ちゃんと断るようにしてくれた。『俺にはもう付き合っている相手がいるから、そういうのはできない』って」
「うんうん」
「でも……」
 奈津子の表情がだんだんと暗いものに変化していく。絵音は顔を背けた。嫌な汗が噴き出す。
「今度は私の悪口を吹聴し始めたの。部活の人たちに」
「馬鹿馬鹿しい」
 絵音は吐き捨てるように呟いた。そのプライドのなさに、彼女はぞっとする。
 そんな経験はないが、自分をふった相手になど絶対彼女は見向きもしないだろう。彼女のプライドがそんなことは決して許さない。涙も見せずに笑って別れてやりたい。そう思う。
 奈津子はじっとうつむいていた。
「彼と冴木先輩が付き合っていたことは、誰も知らなくって」
「え、どうして?」
「冴木先輩が秘密にして欲しいって言ってたみたい」
「……良く分からないわね」
 独占欲と執着心の塊のような行動を見せている割に、周りには知らせようとしない。どこか矛盾した行動のように思えた。
「そう。だから、彼女が私の悪口を言っていても、その理由は誰も分からないわけ。冴木先輩は美人だし、歌も上手だし、ピアノだってすごいのよ。普段は優しくて賢くて、すごくいい人だから、疑いもせずに信じちゃう。それがたとえ嘘でも」
 奈津子は辛そうに唇を噛む。
「彼は私を庇おうとしてくれたけど、あからさまなことはできなくて……それにやっぱり遠慮してたのかも」
「冴木先輩に?」
「……うん」
「そこはちょっと頑張って欲しいよね」
 絵音は呟いた。奈津子も曖昧に頷く。
「でもあまり強く言えないじゃない、そんなこと。彼自身の意志で何かしてくれるならいいけど……私を守って、なんて言えない」
「そうだね」
 机に突っ伏すようにしながら、絵音は奈津子を見つめた。暑い。絵音は額に浮かぶ汗を指先で拭う。ふと、奈津子が眉を寄せた。
「絵音ちゃん……? どうしたの?」
「え?」
 絵音は顔を上げた。呼吸が浅く早くなっていることに、彼女はようやく気付いた。
「顔色が悪いけど……気分悪い? 大丈夫?」
「うん、大丈夫……」
 絵音はゆらり、と机から身を起こし――そのままぐらりと床に倒れた。
「絵音ちゃん!!」
 奈津子の悲鳴が聞こえる。頬をつけた床から震動が伝わってきたのは、彼女が何かを落としたのだろう。
 息が苦しい。
 体が暑い。
 気持ち悪い。
 ドアが開く音がして、誰かの腕が彼女を抱え上げた。
 指だろうか、細いものが乾く唇をこじ開けて喉の奥に侵入する。異物感にこらえかねて彼女は嘔吐した。
「救急車! それから警察も! 早く!」
 叫ぶ声に意識が揺さぶられる。自分の真上にある横顔に焦点が合った。
 ――七条君……。
 絵音はそのまま気を失った。