instagram

第二楽章 Moderato 4~5

  4
  
「楽屋に入りたい?」
「ええ。もし良かったらお願いできませんか」
「いや、それは……」
 舞台袖に立って現場検証の様子を見ていた伊吹は、渋い顔で草摩を見返した。
「君が入りたいのかい? 中に友達でも?」
「そういうわけじゃないんですが」
「私の友達がいるんです」
 草摩の一歩後ろに立っていた絵音がすっと進み出た。伊吹はますます訝しげな表情になる。
「君の?」
「ええ」
 強い意志を瞳に宿し、絵音は頷く。伊吹は困ったように首を傾げた。
「……ええと、君の友達は今回の事件に何か関係があるのかい?」
「分かりません。でも……」
 少し考え込むように視線を落とした絵音は、またすぐに顔を上げた。
「以前、その友達から電話がありました」
「ほう」
「何か悩みがある、と言って」
「悩み、ねえ」
「ええ」
「その友達の名前は?」
「それは、でも……今回の件に関係あるかどうかはまだ分かりませんし」
「それはこちらで判断することだよ」
 伊吹は言う。絵音は軽く眉を跳ね上げた。だが口調はあくまで穏やかだ。
「今日、彼女と会って話を聞く約束でした。でもこんなことになったから……」
「で、その彼女の名前は?」
「えっと、伊吹さん」
 草摩が口を挟んだ。
「これからその友達に話を聞いてくるっていうのはどうでしょう」
「何?」
「もしかしたら今回の件に関係あるかもしれないし、ないかもしれない。とりあえず話を聞くだけでも」
「しかし……」
 伊吹はあくまで渋っている。
 草摩は絵音が軽くつま先で床を叩いていることに気付いた。どうやら彼女は警察官を相手にしても反骨精神旺盛らしい。困ったものだと思うが、どこか微笑ましい。――ここは自分が交渉しなければなるまい。草摩は意を決し、口を開いた。
「楽屋中を探して、不信な人間は見当たりましたか?」
「いや」
「それと、被害者の盛られた毒は」
「トリカブトかと推定しているが」
 伊吹は言い終わってから、あっという顔をした。さすがにそこまで彼らに言うつもりはなかったのだろう。だが、草摩は彼のその表情を無視し、少し考える。
「確か、速効性の毒ですよね」
「……そうだな」
「良く知ってるわね」
 しぶしぶ認める伊吹を目の前にして、絵音がこそこそと彼に告げた。彼女の吐息が髪を揺らして頬を掠める。くすぐったい。
「昔、親父が言ってたんだ」
 草摩は微笑んだ。
「その点を突いてアリバイに使われたこともあるって」
「へえ……」
「とりあえず」
 草摩は伊吹に向き直る。
「彼女が舞台に出てから十数分。……おそらくその前にはリハーサルが行われていたんでしょうね」
「そうだな」
 伊吹は手帳に書きとめられたメモに目を落とす。開演は十四時だったが、リハーサルはその日の朝九時から行われていた。十一時から十二時までが昼食時間。その間、一同はあらかじめ量販店に注文していたお弁当を食べている。また、被害者はペットボトルに詰めたお茶を持参してきていた。
「のどあめなどを口にした可能性は?」
「被害者の鞄から袋が発見された。お茶と一緒に今鑑識に回している」
「あめ、誰かにもらった可能性もあるわ」
 絵音がぽつりと呟く。
「女の子同士だと良く配り合うから」
「そうだね」
 草摩は頷く。そして伊吹の顔を見た。
「つまり、彼女は九時からこの会館を一歩も出ていない」
「そうだ」
「口にしたのは皆と同じお弁当、持参したお茶、仲間内で食べたのどあめ」
「おそらく」
「毒は多分経口摂取でしょうね。そうなると犯人は」
「内部の者……か」
 伊吹は呟く。医大生による殺人――か。命を守るために医師を目指したものたちのはずが、何故。
「まだ分かりませんけどね」
 草摩は軽く首をすくめた。
「弁当屋にだって問い合わせなくちゃいけないだろうし、外部の者がリハーサル中に楽屋に忍び込んだ可能性だってある」
「あ、ああ」
「あの、警部さん」
「警視だ」
 絵音の言葉を伊吹はやんわりとした苦笑で訂正した。
「警視さん」
 絵音の黒い瞳が伊吹の目にぴたりと視線を合わせる。伊吹は、自分の瞬きの回数がわずかながら増えたのを自覚した。
「警察に何か、話をしに来た子がいましたか?」
「まだ簡単な聴取しか行っていないからな。……ああ、被害者の妹がいたから、病院に行ってもらったけれど……」
「妹?」
「ああ。音大生で、姉のコンサートを見に来ていたそうだ。双子なんだと言っていたかな……被害者にそっくりでびっくりした」
 ――もしかして、先ほどの女性だろうか。こっそり見に来たといっていたが、もしかすると……それに、双子なら見覚えがあったのも頷ける。冴木百合子はK大だ。草摩が大学内で見かけていたのかもしれない。
 絵音が再び口を開いた。
「もし、友だちの悩みが今日の事件と関係があっても」
 草摩は何を言うのかと絵音の横顔を見守った。
「彼女はそれを警察に言うかどうかは分からない」
「…………」
 伊吹は黙った。
「明らかに関係があれば言うかもしれない。でも、もし彼女の判断で『関係がない』ということにしたら……」
「君がそこまで心配する必要は」
「確かにありません」
 絵音は伊吹に指摘される前に頷いた。
「でも、もしかしたら私が彼女から聞き出す内容は、警察には必要な情報かもしれない」
「……詭弁だな」
「詭弁って」
 絵音はくすっと笑った。さめた笑顔の割に頬が紅潮している。何か悪事を楽しんでいるような表情だった。
「頭が受け付けることのできないロジックのことですよ。勿論、ロジックの態をなしていない詭弁もあるけれど」
「何が言いたい?」
「ロジックの正誤は、それを理解したものにしか分からない」
 絵音は続けざまに言う。
「七条君の言うとおり内部犯の可能性が高いなら、中に入っただけで無差別に私を襲ってくることはまずあり得ない。外部犯なら既に楽屋にはいない。内部犯は私を襲わない。まあ、よほどまずい情報でも入手しない限りですけどね。でもそれはそれで向こうの落ち度を誘うことになります」
「危険にさらされてからでは遅いだろう?」
「一応」
 草摩はのろのろと手を上げる。
「俺も行きますよ。一人で行くよりはいいでしょう」
「しかし」
「警視さんが天秤にかけて下さい」
 絵音は厳しい口調で言い切った。
「私の友達から得られる情報に僅かでも期待するか、それとも無視するか。発生するリスクとベネフィットを計算して、プラス値の多い方をとればいいんですから」
「…………」
 伊吹は頭を抱えたくなった。
 理屈では良く分かっている。このままこの二人を中に通したところで大して問題はないだろう。捜査員の邪魔をするとも思えない。友達に会って話をする。それだけのことである。
 草摩が一緒なら絵音が共犯者の手引きをするということもあり得まい。いや、この状況で彼女が容疑者側に手を貸せば自分に疑いがふりかかることなど百も承知だろう。彼女の頭の回転は決して悪くないようだ、何か実のある情報でも得て帰ってくるかもしれない。しかし警察官として、現場に無関係な人間を立ち入らせることはできないのだ。
「まいったな……」
 呟いて伊吹は顔を上げる。若い二人の顔を交互に見て、軽く両手を上に挙げた。
「私は見逃す。できるだけ早く戻って来い」
「ありがとうございます!」
 絵音は丁寧に頭を下げ、草摩ににっこりと笑みを浮かべて見せた。草摩は済まなさそうな表情で伊吹に軽く会釈する。
 伊吹はやれやれ、とでも言いたげな表情で彼らを見送った。
 
 
  5
  
 楽屋に通じる廊下に入ると、絵音は携帯を取り出してメールを打ち始めた。友達を呼び出しているのだろうか。
「ねえ、私たちが話している間、あなたはどうする?」
「どうするもこうするも……」
 別行動をすれば彼が彼女についてきた意味がなくなる。
「やっぱりさ、俺がいたら駄目かな」
「駄目っていう訳ではないけど」
 絵音は言いにくそうに口ごもった。
「多分、あの子の相談って恋愛がらみじゃないかと思うのよね」
「……なるほど」
 草摩は苦笑する。初対面の異性の前では、随分と話しづらい話題だろう。
「でもそれって今回の件と関係あるのか?」
「分からないけど、確かあの子の彼氏は同じ合唱部内なのよ。それで最近悩んでいたっていうから……。まあ、関係ない可能性が高そうだけど」
「そうだな」
 背後から足音が近付いてきて、彼らはその場で振り向いた。
 絵音よりは幾分か小柄な女性。髪はセミショートで童顔の、可愛らしい顔立ちである。
 草摩はあっと息を呑んだ。同級生の吉原奈津子だ。彼女は舞台の上で女性陣が身につけていた、黒のロングスカートと白いブラウスを着ていた。
「絵音ちゃん」
「ごめんね、急に呼び出して」
「ううん、いいの。私も話したいことがあって」
 絵音の目の前で立ち止まり、草摩をちらりと見遣る。
「どうも、七条です。同級生なんだけど……知ってるかな」
 奈津子は案の定困ったような表情で草摩を見ている。大学でも話したことはないし、あまり見覚えがないのだろう。絵音がとりなした。
「私の友達で、さっき警視さんにここにいれてもらえるよう頼んでくれたのよ」
「あ、ありがとう」
 草摩はきょろきょろと辺りを見回した。
「ここ、捜査員が通るかもしれないから場所を移動しよう」
「どこに?」
「そこ」
 といって廊下の反対側を指差す。
「『控え室』になっているみたいだから、ちょっと借りちゃおうか」
「鍵、開いているかしら」
 絵音は首を傾げるが、草摩がノブをひねるとあっさりと開いた。
「話があるならここでできるよ」
「うん」
「俺は席を外した方がいいよね?」
「…………」
 奈津子は絵音の顔を窺う。絵音は困ったように微笑した。草摩は軽く手を挙げて頷く。
「じゃあ俺も友達の様子でも見てくる。俺一人だったら誰かに見つかっても何とかなるから」
 最悪の場合は伊吹の許可済ということにしてしまおう。草摩はこっそりとそう決意した。
「戻る時は?」
「携帯の番号とメルアド、知ってるよね?」
「ええ」
 以前の飲み会の時に交換済である。
「じゃあそこに連絡して。もし俺の方が早かったらここに戻ってくるから」
「分かった」
「それじゃあ後でね」
 身を翻した草摩の後ろで扉がパタン、と閉まる。彼は顔を引き締め、足早に廊下を歩んで行った。