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第二楽章 Moderato 1~3

だって私の半分は怯えていて半分は猛り狂ってる
女の部分もあるけど子供の部分もある
私の半分は嘘をついていたけど半分は誠実だった
クレイジーな部分もあるけど私のすべてがあなたなの

  1
  
 観客席にいた者たちは、氏名や連絡先を告げることで帰っても良いことになった。冴木百合子が倒れてから三時間後のことであり、それはコンサートが終わる予定時刻から一時間以上も遅れていた。
 桐生はまだ帰ってくる様子はない。病院にいるとすれば、携帯でも連絡は取れないだろう。
 草摩は再び辺りを見回したが、先ほどの髪の長い女性はどこにも見当たらなかった。もう帰ったのだろうか。
「どうする?」
 隣りで眉根を寄せている絵音に声を掛けると、彼女ははっと顔を上げた。
「どうって?」
「いや。もう帰っていいんだろ?」
「あ、うん……そうね……でも……」
 長い睫毛に隠れて瞳の色は見えない。
「部の関係者だともっと長くかかるのかな」
「多分ね」
 舞台の上に視線を送り、草摩は頷く。捜査員が歩き回る中に伊吹の姿もあった。実は、冴木百合子が命を落としたことは彼らしか知らない。いや、先ほど館内放送で冴木百合子の肉親がいないかどうか探していたから、もしいたならばその人物も知っているだろう。
「今はみんな楽屋にいるのよね」
「ああ」
「ちょっと行って来る」
「え?」
 驚く草摩の目の前で絵音は勢い良く立ち上がる。
「気になることがあるの。先に帰っていてくれていいから」
「いやそういうわけにも」
 彼女は不意ににっこりと微笑んだ。何かのスイッチが切り替わったのかもしれない。いわゆる開き直りだろうか、と草摩は思った。
「今日はありがとう。じゃあね」
「いや、あの雪村さん」
 くるりと身を翻した彼女の腕を軽く掴む。
「楽屋の入り口なんて、普通に捜査員が張ってると思うよ」
「…………」
 絵音はうっすらとルージュの塗られた唇に指先を当てた。歯の間からかすかに舌先が覗くその表情は、ひどく子供っぽい。
「それもそうね」
「…………」
 草摩は一瞬の逡巡の後決断し、口を開いた。
「伊吹さんに頼んでみようか」
「さっきの刑事さん?」
「正確には警視だけど……」
「頼めるの??」
 絵音は草摩の腕を逆に掴んだ。そのまま軽く揺する。
「うんと、多分……。無理だったらごめん」
 草摩は脳内でめまぐるしく計算した。春にN県で起きたあの事件の真相を知る自分は、ある意味警察に対しては強い立場である。彼らは結果的に身内をかばうような決断を下したのだから。
「こちらこそ無理言ってごめんなさい。でも、お願いするわ」
「うん」
 草摩と絵音は足早に舞台袖へと移動を開始した。
 
 
  2
  
 K府立医科大学附属病院。
 桐生は捜査員に混じって、急遽用意された部屋にいた。元々は研修医が泊り込むためにあるもののようで、部屋の隅には簡易ベッドが二台置かれている。
 楽屋に置かれていた被害者の鞄や、舞台にいたときに身につけていた衣服、所持品などがテーブルの上に並べられていて、桐生はそれらを静かに眺め渡していたが、やがて一点で眼を留めた。
「あの、すみません」
「はい?」
 振り向いたのは巡査部長で、確か松林とか名乗っていたはずだ。それとも松田だっただろうか……それとも松本?
 桐生は人の顔を憶えるのは得意だが名前を記憶するのは不得意である。一度会ったことのある人物の顔はほとんど忘れることなどないし、いつどこで会ったのかも、交わした会話すら記憶の引き出しから取り出せる。だが、名前だけは別なのだ。
 顔と、名前。
 人の脳には顔に特に反応する神経細胞があることが明らかにされている。人にとって顔の識別はそれだけ重要だということなのだろうか。事故などで脳に傷害を負った人の中にまれに顔の識別がまったくできなくなる人がいて、しかしそういう人も大抵声の聞き分けは問題なくできる。相貌失認は、両側または右側の後頭葉・側頭葉の損傷によるケースが大部分で、特に重視されているのは紡錘状回と呼ばれる部位だ。ここに、例の顔を見分ける神経細胞が存在しているのである。相貌失認でない人間にとっては、人の顔を見分けるのは簡単なことだ。相手が同じ民族・人種に属している場合、さらに容易くなる。だが、動物の顔の見分けとなると難しい。だが、サルにとってはサルの顔の見分けは恐らく簡単なのだろう。同種個体の識別というのはとても重要なことで、生物はそれを容貌によって行ってきた。脳もそのように対応し進化してきたのだろう。
 一方、名前をつけるという行動は人特有のものである。犬などは名詞という概念がないという。名前を呼ばれてやってくるのは、その名前という音声を「来い」という意味の動詞だと理解しているからだそうだ。
 「名付ける」ということは抽象的かつ流動的な事象の一部分を切り取り保存するということで、それは写真を撮る行為に似ている。写真に写っていない部分が常に存在しているし、写っている部分でさえ時が移ろえば変化が現れる。
 ――だから、他人の顔が覚えられても名前が覚えられないのは仕方ないのだ。
 そこまで考えて桐生は小さく噴き出した。随分と長い言い訳である。
「どうかしましたか?」
 歩み寄る松林――多分これであっていたと思う――を見て、彼は表情を引き締めた。
「これ」
 捜査員と違って手袋をしていないため、彼は品々に手を触れることができない。桐生はそのすらりとした指先でテーブルの一角を指し示した。
「花、ですね」
 松林が頷く。茎を僅かに残して折り取られたらしい花は紫色をしている。
「これ。トリカブトの花では?」
「え?」
 松林が聞き返した。桐生は周りの捜査員の一人に手袋を借り、花を手に取った。
「ほら、この帽子状の……五枚ある、花弁に見えるものがありますよね」
「え、ええ」
「これは実はガクです。花びらは」
 桐生は二本の突出した突起を指先でつついた。
「こちら。蜜腺になっているのですが、本当の意味での花びらはこれなんですよ」
「お詳しいですね」
 松林はじっと桐生を見つめた。実は、先ほど伊吹から電話があって桐生について話を聞いていたのである。――頭は切れるが何を考えているか今一つ分からない曲者だ、と。
「ええ、まあね」
 桐生はその花をテーブル上に戻した。
「ちなみに、トリカブトって全草に毒を含んでいるんですよ」
「花にもですか?」
「ええ。蜜にもね」
 桐生は微笑する。口にしている内容には似合わない、穏やかな笑顔だった。
「園芸店でも品種改良したものを取り扱っていますし、山地の草原や林には自生しています。春先には芽を野草と間違って食べてしまう中毒事故が起きることもあるんですよ」
「え、でも」
 松林は不思議そうに花を見つめた。
「これって虫媒花なんじゃないんですか? 蜜にまで毒があるって……」
「トリカブトの毒というのは神経毒の一種です。アルカロイド系なので」
「神経毒……?」
「神経伝達を阻害するんです。つまり、シナプスに悪さをする」
「…………」
 文系の松林には理解しにくい話である。桐生は丁寧に説明を続けた。
「昆虫にも神経系はあるのですが、虫が主に使っている神経伝達物質は人と全く違います。つまり、人にとっては毒物であっても昆虫にとっては何の影響も無いわけです」
「……はあ」
 松林は今一つ釈然としないながらも頷いた。
「しかしこんな危ないものが花屋で売っているんですか」
「まあ、園芸植物になっている場合は毒性が薄れていると思いますけどね。毒の多い根は口にするべきではないでしょうが」
「それにしても」
 松林は苦笑して桐生を見つめた。
「随分詳しいですね。医者はそういうことも勉強するんですか?」
「まあ中毒を治療する機会もありますが、これはどちらかというと単なる僕の趣味です。お気になさらず」
「…………」
 松林は肩をすくめる。毒物が趣味だといわれて気にならないわけがない。
 鑑識の者たちの到着が待ち遠しかった。
 
 
  3
  
 鞄に入っていた見覚えのない封筒を見て、彼女はそれを急いで上着のポケットに押し込んだ。部屋を足早に出ようとしたが、見咎めた上級生に尋ねられた。
「どこに行くの? まだ帰れないわよ」 
「……分かってます」
 自分でも頬が強張っているのが分かる。
「ちょっとお手洗に……」
「なんだ」
 先輩の顔は目に見えて緩んだ。緊張しているためにきつい声が出たのだろう。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「はい。すみません」
 彼女は後ろ手に扉を閉め、廊下を歩んだ。――こつん、こつん。靴底と床の立てる音が耳障りだ。
「冴木先輩……」
 呟いて廊下を曲がり、女子用手洗いに入る。個室の鍵を掛け、ポケットから封筒を取り出した。
 表には自分の名前が書かれている。筆跡には見覚えがあった。震える手で便箋を取り出す。白地に灰色の罫線が引かれた、シンプルなもの。細い黒のペンで几帳面に書かれた綺麗な文字。
 その一行目が目に飛び込んでくる。
 
『あなたがこの手紙を目にする頃、私は死んでいるかもしれない。それとも一命を取り留めているのかしら。』
 
「…………」
 呼吸が上ずる。
 目まぐるしく眼球が動くのを自覚した。短い文章にも関わらず、文字がまともに頭に入ってこない。だが、ある部分に視線が吸い寄せられた。
 
『気をつけなさい。私を殺すのは、……』
 
 彼女は荒々しく便箋を便器に突っ込み、流水レバーを押す。
「……そんなこと、信じない」
 流水音に紛れて彼女の言葉は誰にも届かない。
「私は、信じない」
 見開かれた大きな瞳からつう、と涙が零れた。