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第三楽章 Allegro 7~9

  7
  
 伊吹の携帯電話に掛けてきたのは部下のうちの一人で、吉原奈津子の交際相手を連れて今そちらに向かっている、というものだった。案外あっさり探し出せたものだ、と思ったが実際のところはそうではないらしい。本人から名乗り出てきたのだという。
『名前は岡崎遊斗。K大医学部三回生だそうです』
「そうか」
 伊吹は答えながら思う。しかし、一体何故わざわざ自分から……?
『もうそろそろ着きます』
「分かった」
 伊吹は言葉少なに答えて電源を切る。
「…………」
 暫く廊下に佇んで天井を見上げる。薄い石灰色の正方形のタイルの縁を,、しばらく眺めるともなく眺めていた。
 やがて踵を返し、元居た部屋へと足を運ぶ。
「失礼――」
 扉を開いて、思わず目を大きく見開いた。草摩が深々と頭を下げている、その後ろ姿を目にして。
 
 
  8
  
 遡ること数分。
 部屋に落ちた沈黙を破ったのは絵音だった。立ち尽くす草摩を軽く視線で示して、
「母さん、彼が私を助けてくれたのよ」
「え?」
 母親が振り返り、草摩を見つめる。草摩は慌てた。
「い、いや、助けただなんて」
「助けてくれたじゃない。先生だって草摩君の応急処置を褒めていたもの」
 初めて耳にした「草摩君」と呼ぶ彼女の声。草摩は耳に血流が集まるのを感じる。
「…………」
 母親は不躾にならない程度に彼を観察し、やがて穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。お名前は?」
「七条です」
 答えてからすぐに草摩は言い直す。
「七条、草摩です」
「七条君ね」
 母親は上品な微笑を浮かべたまま頭を下げる。
「娘を助けてくれて、本当にありがとう」
「いえ」
 草摩は居住まいを正した。照れていたような表情がさっと消え、変わりに痛ましいものを見るような――それを目の前にして無力な自分を責めるような、そんな目をする。口元からも笑みが消えていた。
「本当は……」
 拳をぎゅっと握り締め、草摩は目を床に伏せた。
「一番近くにいたのに。止めることができなかった」
「え?」
 聞き返される。草摩は低い声でもう一度呟いた。
「二人が倒れるのを、止められなかった」
「草摩君」
 桐生が気遣うように声を掛けるが、草摩はそれを振り切るように頭を下げた。
「すみません……!」
 カチャリ、とノブの回る音がして扉が開く。草摩は振り向きもせずに頭を下げ続けた。
「…………」
 絵音は言葉を失っている。
 ――やがて、
「頭を上げて下さい」
 優しい声が草摩の頭上に降り注いだ。絵音の母親のものだ。
「七条君。顔を挙げて」
 呼びかけられ、草摩はゆっくりと姿勢を元に戻す。彼女が浮かべていたのは、相も変らぬ微笑みだった。
「私は現場を見ていた訳ではないし、今でも何が何だか良く分からないわ。本当に何が起こったのか――どうして私の娘が毒を飲まされたのか、誰がそんなことをしたのか、何も分かりません」
「…………」
「本当に、こんな恐ろしいことを貴方が防げた可能性があったのか、防げたならどうして防ぐことができなかったのか……そのことも、私には分かりません」
「母さん」
 口を挟もうとした絵音を彼女は柔らかく押しとどめる。
「でもね」
 彼女は穏やかに語り続けた。
「だからこそ、私は私が信じたいものを信じようと思うの」
「信じるべきもの……?」
 呟いた草摩に、彼女は頷いてみせる。
「娘の言葉よ」
「…………」
 草摩は小さく息を呑む。彼女は揺るぐことのないまなざしで彼を見つめていた。
「私の娘は、貴方に助けてもらった、と言ったわ。だから私はそれを信じます」
 彼女はもう一度草摩に頭を下げた。
「ありがとう。七条君」
「…………」
 草摩は言葉を失ったまま、ただ彼女を見つめていた。
 ――信じたいもの。
 不意に草摩は体を震わせる。
 ――その言葉はパズルの最後の一ピースだった。
 
 
  9
  
 伊吹が困ったように口を開く。
「ええと、一体どういう……」
「いいえ、別に何も。ところで」
 答えたのは桐生だった。有無を言わせぬ笑顔で、話を強引に変える。
「何のお電話だったんですか?」
「吉原奈津子の交際相手がここに来たそうだ」
「へえ……?」
 草摩が怪訝な顔をする。
「随分早く見つかったんですね」
「ああ、いや」
 伊吹は困ったように眉をひそめ、ふと気付いたように絵音の母親へと視線をうつした。彼女も気が付いたのだろう、軽く一礼した。
「雪村絵音の母でございます」
「ああ」
 伊吹は頷き、改めて向き直った。
「K府警U署、署長の伊吹です。この度は……警察が現場に駆けつけていたにも関らず、こんなことになって申し訳ない」
「軽症で済んで幸いでした」
 母親は穏やかな声で呟く。その声に刺はない。
「ところで、絵音はもう帰ってもよろしいのでしょうか?」
「それは」
 伊吹は返答に窮する。
 彼女は被害者であり、既に聴取は終わっている。今日は帰しても支障はないだろう。また、何かあれば連絡をとればいい。しかし、今新たな要素である岡崎遊斗がここに到着した。何となく、彼女も交えて話を聞きたい――吉原奈津子から実際に話を聞いたのが彼女だから、ということもあるが、理由はそれだけではなかった。彼女は、どこか七条草摩と似た匂いがする。
「…………」
 伊吹が眉を顰めて黙っていると、母親はわずかに語気を強めた。
「絵音は先ほどまで意識を失っていたんでしょう? 今日はもう休ませてやって下さい」
 絵音は母を制止しようとする。
「母さん、」
「絵音は黙っていて」
「そういうわけにはいかないわ」
 絵音ははっきりとそう言った。伊吹に向き直る。
「私は、大丈夫です」
「何を言うの」
 母親は咎めるような眼差しで彼女を見上げた。
「母さん」
 絵音は伊吹を見たまま、しかし言葉だけは母親に向いている。
「確かに私はさっきまで倒れていた。そしてその前には人が一人死んだ。今も私の友達は意識不明」
「…………」
「そして、そのどれも……まだ原因も、犯人も――もし、そう呼ぶことのできる人間がいれば、だけど――分かっていないのよ」
「そうなんですか?」
 伊吹は問われて不承不承頷いた。草摩はただじっと絵音を見つめている。
「被害に遭った三人の中で、今意識があるのは私だけなの。私にしか話せないことがあると思う」
「それはもう終わったんじゃないの?」
「私には分からないわ」
 絵音は伊吹に向かい静かに、穏やかに微笑んだ。何故今そのような微笑を見せるのか――伊吹には分からない。
「それは、プロフェッショナルにしか分からないことよ」
「……プロ」
 母親ははっと気がついたように桐生に視線を投げた。彼は白衣を着ているから、医師だということは一目瞭然だろう。
「先生」
 彼女は半ば縋るように彼に言う。
「あの子の体調は、無理をできるようなものではありませんよね? 今日は休んだ方がいいって、そう言って下さい」
「…………」
 桐生は、その細い手を軽く母親の肩の上に載せた。
「今唯一彼女の体調の中で心配する要素があるとすれば、それは精神的な疲労でしょう。他に何も後遺症などはありません」
「あの子は疲れています!」
「それは」
 桐生は悟られない程度に苦笑を浮かべた。
「僕には分からないですね。ただ」
 絵音の方へと視線を動かし、
「彼女の体調に万が一の異変があれば、僕がついている限りすぐに対処ができるでしょう。ある意味自宅にいる時よりも早く」
「…………」
「そして」
 桐生は再び母親の方へと視線を戻した。
「自分に害をなしたものが分からないというストレス――それもまた、精神的な疲労の原因になり得るかもしれない」
「そんな」
 怒りの眼差しで詰め寄る母親を止めたのは、絵音自身だった。
「もう少しだけ。待ってて、母さん」
「絵音……」
「わざわざ仕事まで抜けさせて、悪いとは思っているの。でも」
「仕事のことはいいのよ。でも、貴方の体が」
「桐生『先生』がいるわ。それに」
 絵音は突然きつい口調で言い放った。
 
「人が一人、死んでいるの」

 ――彼女は怒っている。草摩は唐突に理解した。具体的に、何に対してなのかは分からない。しかし、彼女は今猛烈に怒っているのだ。
 人の死に――怒りを感じている。悲しみよりも強く。
「私は、それを放っておくことができない」
「どうして……」
「だって、私は殺されたくないから」
 母親が呑まれてしまっているのに気付いたのだろう。絵音は子供じみた笑みを浮かべ、そう答える。その笑顔がどこか作りものじみているのに気付いたのは、草摩と――そしてそんな母子のやりとりをじっと見つめていた、桐生だけだった。