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第三楽章 Allegro 4~6

  4
  
「吉原奈津子が現在交際している人は」
 絵音は表情をこそぎ落としたように淡々と語り始めた。
「冴木百合子が以前交際していた相手だそうです」
「何?」
 声を出したのは伊吹のみだった。桐生は無反応、草摩は軽く目を見開いている。
「しかし、そんな話は誰も」
「『誰にも知らせていなかった』。彼女はそう言っていました」
 絵音は伊吹の声に被せるように言葉を発した。草摩が尋ねる。
「どちらの交際を知らせていなかったの?」
「冴木さんの方よ。彼女は、何故か人に彼との交際を知られることを嫌がっていた。だから、本人たちと吉原さん以外はほとんどその事実を知る者はいないそうです」
「それで?」
 桐生が促した。絵音は再び顔を真っ直ぐに向ける。その瞳は誰にも焦点を合わせていなかった。
「それで……冴木さんと別れた後、彼は吉原さんと交際を始めた」
「別れたのはどちらから?」
 伊吹の問いに絵音は即答した。
「彼、だそうです」
「その彼というのは誰なのかな」
 絵音の表情にかすかな当惑が浮かぶ。
「下の名前だけ彼女から聞いています。フルネームは、ちょっと……」
「構わない。事情を聞きたいのでね、調べさせてもらう」
「ユウト。字は分かりません」
「分かった」
「で、話はそれだけじゃないよね」
 草摩の瞳を絵音は一瞬だけ見る。彼女は何故か妙に冷めた視線をしていた。今ここで話をしていることなど自分には何の関係もない、というような……。絵音が頷いたために視線はぶれ、彼女は草摩から目をそらした。
「どうやら冴木さんが彼との別れに納得していなかったようで、もめていたらしいんです」
「具体的には?」
「頻繁に電話が掛かってきたり食事に呼び出されたりするので、彼はそういうことをやめるよう彼女に申し入れたそうです。『既に付き合っている人がいるから』と」
「それで」
「それで、吉原さんの悪口を言いふらし始めた……。彼女はそう言っていました」
 桐生の言葉に導かれるように絵音はそう言い、やがてふ、と口元を緩めた。
「…………」
 何か言おうとしたように開かれた唇が音もなく閉じる。
「それが事実だとするなら」
 伊吹は眉を寄せる。
「吉原奈津子には冴木百合子を殺害する動機があったことになる」
「伊吹さん」
 草摩が口を挟んだ。
「待って下さい。今の話は『吉原奈津子』がしたものです。いいですか、そこを忘れないで下さい」
「忘れてなどいないよ」
 伊吹が少しむっとしたように鼻から息を吐いた。
「彼女のした話が本当かどうか。僕らには判断がつきません。勿論」
 草摩はちらりと絵音を見た。
「雪村さんにもね」
「ええ、そうね……」
 絵音は少しぼんやりした様子で頷いた。確かにそうだ。彼女は事態の部外者に過ぎず、彼女の話の真偽を判断できるほどの情報は持ち合わせていないし、判断する立場でもない。
 ――だがあの話を聞いている時、彼女はそれを信じていた。一体何故だったのだろう……。
「だから」
 草摩は軽く右手を広げて自分の右頬に当てた。ちょうど人差し指の先がこめかみを押している。
「他の事に注目したい」
「他の事?」
「そうです」
 草摩は頷く。桐生は穏やかな表情で彼を見つめていた。
「何故、彼女の話の後にあれが起きたのか――」
「私が倒れ、そして彼女も」
 絵音は囁くように呟いた。草摩は無言で首肯する。
「それが重要なことなのか?」
「とても」
「何故」
 草摩の真っ直ぐな視線が伊吹の眼差しを射る。デジャブを感じた。
「俺は雪村さんの話を聞いて、吉原奈津子は一連の事件の首謀者ではないと考えましたから」

  5
  
「なっちゃんが倒れたんだって」
「嘘!」
「本当よ。……なんか、一緒に話してた友達も一緒だったとか……」
「ええ?!」
 楽屋の中でひそやかに囁かれ始めた話を耳に挟み、岡崎(おかざき)遊斗は蒼白になった。側にいた尚人が気遣うように彼を見遣る。
「先輩……」
「な、なんで奈津子、いや、吉原が……」
 彼は奈津子と岡崎が交際していることを知っていた。
「無事なのか?」
「そ、それは」
 高城は目をそらす。
「俺には、ちょっと……」
「そうだよな」
 岡崎はくしゃりと自らの髪を掴んだ。色は黒く、固そうな質感。高城の茶色に染めた、柔らかな髪とは違っていた。
「くそ……どうしてこんなことに……」
「…………」
 高城はまるで独り言のように呟いた。
「吉原さんと一緒にいた友達が先に倒れたんですよ。その後、彼女が」
「友達? 合唱部か?」
「いえ、違います」
「…………」
 岡崎は不思議そうに高城を見つめた。彼は説明を加える。
「俺のクラスメイトで、吉原さんの予備校時代の友達です」
「部外者が何で……」
「吉原さんが」
 高城は真っ直ぐに岡崎の瞳を見つめた。
「話があるって呼んでいたらしいですよ」
「…………」
「こんな時に、何の話だったんでしょうか」
「…………」
 岡崎は高城の大きな瞳を見返した。困惑の色が湛えられている。
「俺には分からない……けど……」
「…………」
「けど、もしかして……」
 岡崎は呟いて、はっと息を呑んだ。
「先輩?」
 高城の怪訝そうな声にも答えず、彼はぶつぶつと呟き始めた。その声はあまりに小さくて高城には聞き取ることができない。
 彼はため息を一つ吐いて座っていたパイプ椅子から立ち上がった。
 冴木百合子が倒れてから数時間。そのわずかな時間に、冴木百合子を含めた三人の女性が次々と倒れたのだ。尋常な事態ではない。
「トリカブト……か……」
 高城は座ったままの岡崎の頭を見下ろす。その言葉だけが妙にはっきりと聞こえた。岡崎は足を組んだまま、手のひらに顎を載せている。その表情は良く見えない。
 高城はふう、と再び深いため息を吐いた。

  6
  
「どういう……ことだ? 吉原奈津子が首謀者ではない、というのは……」
 吉原奈津子の交際相手を探すように指示した後、伊吹は草摩に向き直った。テーブルの上をぼうっと眺めていた草摩ははっと顔をあげる。
「え、何ですか?」
「いや、だから……」
「ああ、そうか」
 絵音が不意に呟いた。
「そういうことなのね」
「…………」
 視線が絵音に集中する。彼女はまるで童話を読むような調子で語り始めた。
「彼女がもし冴木百合子が死んでしまったということを知っていたなら、私にそんな話をするわけがない」
 草摩は無言で頷く。
「だって彼女はもういないのだから。彼との間を邪魔する存在ではもはやあり得ない」
「それに」
 桐生が口を開いた。
「むしろ自分に疑惑が向く原因にもなります。現に伊吹さんは彼女を疑っておられる」
「それはそうだな……」
「以前から彼女は私に話をしたがっていました。悩みがある、と」
「そうなのか」
「そして今日、この状況にも関わらず彼女は私に悩みを打ち明けた」
「……ああ」
「彼女がもし冴木百合子を殺したのなら」
 絵音ははっきりと言った。
「馬鹿過ぎる」
 自分の友人を「馬鹿」呼ばわりする彼女に、伊吹は僅かに目を剥いた。桐生は笑みを浮かべ、草摩は特に反応を見せずに口を開く。
「まあ、そういうことになると雪村さんと吉原さんが何故倒れたのか……その理由が分からなくなるんですけどね」
「あと、ペットボトル」
 桐生はぽつりと呟いた。
「……一つ、可能性はあり得ますが……」
「え?」
 伊吹が桐生の方を向いた。
「そ、それはどういうものです?」
 桐生は顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「さすがにこれは憶測の域を出ません。何か裏づけが出てきてから言いますよ」
「しかし」
「桐生」
 草摩が口を挟む。彼は真剣な、どこか必死にも見える眼差しをしていた。
「これ以上は誰も……?」
 桐生はその問いの意味を悟り、かすかに首をかしげた。
「吉原さんの交際相手がわかればいいんですけれど」
「それならすぐだろう」
 伊吹は言った。
「彼らが冴木百合子のように交際を秘密にしていなかったのなら、必ず誰かが知っている」
「……そうですね」
「とはいえ」
 草摩は深く椅子に腰をかけて息を吐いた。
「容疑者候補の中から吉原奈津子を完全に除外して考えることはできませんけどね」
「…………」
 伊吹に視線で問われた草摩は苦笑する。
「だって」
「人間が馬鹿じゃないなんて、とても言えないものね」
 絵音がぽつり、と呟く。冷たい響きを帯びた声には、どことなく哀れみと諦めの色が秘められていた。
「…………」
 しばらく無言で立ち尽くしていた伊吹が、己の携帯の着信音に気付き部屋から出て行く。
「草摩君」
 扉の閉まる音がするのと同時に、桐生は草摩に声を掛けた。ブラインド越しの光を見ていた草摩は、振り返ることなく答える。
「どちらだろう」
「……ええ」
 桐生は頷いた。
「でも証拠がありますか?」
「分からない……もしかしたら」
「もし彼女だったのなら?」
「そう」
「……彼に期待するしかなさそうですね」
 桐生は苦笑した。
 二人の会話を黙って聞いていた絵音がぽつりと呟く。
「私は、実験台だったのね」
「…………」
 草摩は驚いて顔を上げた。桐生もまた息を呑む。
 絵音は左手で自分の右肩を抱いていた。表情を失った顔は白い。
「そうか。そういうことか……」
「雪村さん」
 不意に草摩が彼女に声を掛けた。
「何?」
 絵音が顔をあげる。
「俺も名前で呼んでいいかな」
「え?」
 絵音はきょとんとして草摩を見る。
「絵音さん、って呼んでいいかな」
 草摩は真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「……いい、けど」
「ありがとう」
 草摩は先ほどまでの深刻な表情とは似ても似つかない笑顔で礼を言う。絵音はくすりと微笑んだ。
「こちらこそ」
「……どうもお邪魔しました」
 桐生がわざとらしく一礼して部屋を出ようとした、その時。
「絵音!」
 扉が開いて一人の女性が飛び込んできた。小柄で若々しい。表情は青ざめていたが、絵音の姿を視界に捉えた途端にそれは緩んだ。
「……母さん」
 絵音は茫然と呟く。
「絵音!」
 草摩と桐生の隣を走り抜けた女性は、絵音をしっかりと抱きしめた。
「無事で良かった……」
 水色のサマースーツに身を包んだ彼女は、自分より遥かに背の高い絵音の背中を撫でる。絵音はなされるがままに彼女を抱き寄せた。
「心配かけてごめんなさい。仕事も抜けさせちゃって……」
「何を言っているの」
 母は顔を上げて微笑んだ。その目尻は濡れている。
「貴方が一番大切なんだって、そう言っているでしょう?」
「…………」
 絵音も微笑んだが、その表情には影があった。
「……うん」
 頷くのを確かめてから、母はもう一度娘を抱きしめる。
「本当に、良かった……」
「…………」
 絵音はまるで胸に棘を抱きしめているように、顔を顰めていた。痛いのに、離すことができない。そんな表情。
 草摩と桐生は無言で彼女らを見守る。やがてぽつりと桐生が呟いた。
「似て、いる」
 草摩は彼の顔を振り仰ぐ。そこには常にないほど動揺している彼がいた。その表情はどこか今の絵音にも似ていて……。
 彼を見ていることに気付かれないうちに、草摩は再び絵音を見遣る。
「母親……か」
 何故絵音と桐生が揃って辛そうな表情をしているのか……彼には分からなかった。