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第三楽章 Allegro 1~3

私をひどいめに遭わせても得るものはなんにもないのよ
なんにもならない なんにもならない
すべてはあなたに戻ってくることになってるのよ

  1
 
 ――もう、良く分からないの。
 
 彼女は笑っていた。
 
 何を信じていればいいのか、
 何に縋ればいいのか、
 何に祈ればいいのか、
 何も分からない。

 ――違う。
 信じるべきものなんて最初からなかった。
 縋るものなんて最初からなかった。
 祈りを聞いてくれる神様なんてどこにもいなかった。
 
 彼女は涙を流して笑う。
 
 ねえ、どうしてなの。
 どうしてこんなことになってしまったの。
 
 どうして今、私は死んでいこうとしているの。
 
 
  2
  
 桐生と絵音が病室に入る。そこには伊吹と草摩、そして白衣を着た若い医師がいた。彼らの囲むベッドに横たわる少女を見て、絵音の顔色が変わる。
「雪村さん」
 草摩が振り返って彼女の名前を小さく呟く。
「気分は大丈夫か?」
 伊吹に尋ねられ、絵音は頷いた。
「良かった」
天野(あまの)先生」
 桐生が医師に呼びかけると、天野は少し眉を陰らせて桐生を手招く。その気易い様子を見ると、どうやら知り合いのようだった。
「彼女の容態は?」
「重篤というわけではないけれど……この症状から見るとやはり」
 桐生はその先を読んで頷いた。彼女もやはり、トリカブト中毒だというのだろう。
 伊吹が尋ねた。
「快復しますか?」
「その点については問題ないと思います」
 天野ははっきりと頷く。
「胃洗浄、吸着剤の注入をしました。今はご覧の通り、多少は落ち着いたのか眠っています。瞳孔の散大などは見られませんし」
 ――三人目ですから処置も早く行えたので。天野の言葉を聞きつつ、桐生はちらりと少女の顔を見下ろした。蒼白な顔色で酸素を吸入している。絵音よりは重症だったのだろう。
「念の為酸素吸入をさせていますが、サチュレーションや血液ガスの値に問題はない。ヴァイタルサインは全て正常。おそらく、一両日中には快復するでしょう。後遺症も残らない可能性が高い」
「そうですか……」
 伊吹が彼らに歩み寄ってくる。彼は先ほど天野から説明を受けたのだろう。手には黒いメモ帳が握られていた。
「少し雪村さんにお聞きしたいことがあるのですが、桐生さん、医師として許可いただけますか?」
「大丈夫だと思いますが……」
 桐生は答え、天野に視線を投げた。彼もまた頷く。
「病院の方から彼女の親御さんには連絡済みです。遅くとも二時間後には来れると」
「母は仕事中だったのでは?」
 絵音が口を開いた。
「できるだけ早く切り上げて来られるとのことでしたよ」
 天野の微笑みに、絵音はかすかに顔を歪める。草摩はそれを不思議そうに眺め、やがて不躾だと思ったのか目を逸らした。
「どこか、空いている部屋はありますか?」
 伊吹の問いに天野が頷いた。
「カンファレンスルームがあります。そこをお使い下さい」
「草摩君は……?」
 伊吹に尋ねられ、彼は少し困ったような表情をした。
 実際のところ、彼はこの事態にそう深く関わっている訳ではない。たまたまその場に居合わせた、それだけのことだ。彼の見聞きした情報は既に伊吹に知らせてある。そんな自分がこれ以上首を突っ込んでいいのかどうか……。
「一緒に、来て欲しいんだけど」
「?」
 草摩は驚いて振り返った。
 絵音がそこに立っている。病室のブラインドを通り抜けた陽光が、彼女の全身に光の縞模様を作っていた。軽く顎を引き、濃い睫毛の下の瞳が揺らめいている。彼の視線を受けて、絵音は慌てたように付け加えた。
「あの、私の記憶違いとかあるかもしれないし、私も自分が倒れた時の状況を知りたいし……」
「あ、ああ」
 急に早口になった彼女に気圧されるように草摩は頷いた。
「うん。行きます」
「分かった」
 伊吹は頷いた。
 視界の端で捕らえた桐生はこんな状況にも関わらずのほほん、とした顔で笑っている。いや、にやけている。おそらく草摩と絵音のやりとりを見てのことだろう。足を踏んづけてやろうかと思うが、それこそそんな場合ではない。
 天野医師とベッドに横たわる彼女を残し、彼らは病室を後にした。
 
 扉が閉まる少し前、絵音は振り向いて彼女の顔を見る。
「なっ……ちゃん」
 パタン、と空間が引き裂かれる音がした。
 
 
  3
  
 カンファレンスルームには白いテーブルが一つとパイプ椅子が数点置かれていた。窓には遮光カーテンが掛かっているところをみると、研修医の仮眠室として使われるのかもしれない。案の定、部屋の奥を除くと白いカーテンで仕切られたスペースがあって、シーツの乱れた小さなベッドがあった。
 ぐるりとそこに座る面子を見渡し、伊吹は漏れそうになったため息をこらえる。
 現場での捜査指揮は新たに署からやってきたベテランの警部補に任せている。とにかく今は情報を集めることが先決だ――伊吹はそう思い、吉原奈津子を乗せた救急車に同乗してやってきたのだった。
「あの」
 絵音がぽつりと呟いた。先ほど伊吹と相対していた時にはあれほど精彩を放っていた彼女の瞳は暗く翳っている。無理もない、と伊吹は思った。人の死んだ場所で毒物を飲まされ、さらに友人も倒れた。気が滅入るなという方が酷な話だ。だが彼女は気丈さを保っている。それだけでもたいしたものだった。
 彼女は誰の手にも縋らない、というようにぴんと背筋を伸ばしている。黒い瞳がまっすぐに彼を見つめた。
「どうして、なつ――吉原さんが、ここに」
「君が倒れてすぐに、我々は彼女を一端楽屋に帰らせた。捜査員を付き添わせて、高城尚人とともにね」
「尚人君と?」
「俺と喋ってたから、俺の後にすぐ来たんだ」
 絵音が彼を「尚人君」と呼んだのが若干気に掛かるが、今ここでそれを追求している場合ではない。草摩は口早に答えた。
「……やっぱりあの時、七条君が助けてくれたのね」
 絵音は少し俯き加減のまま、それでも口元の笑みは草摩にはっきりと見えた。とても柔らかそうな曲線だった。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
「それはそうと」
 桐生が口を開いた。
「吉原さんはいつ倒れたのですか?」
「楽屋に戻って数分後だ」
「ということは楽屋に戻る前にトリカブトを摂取した、というわけですよね」
「おそらく。楽屋には大勢の人がいた。彼女が何か不審な行動をしていれば誰か気がつくだろう」
 現に捜査員も高城尚人も、彼女から目を離していないという。
「彼女の荷物は調べましたか?」
「ああ」
 答えてからふと思う。これでは自分が尋問されているようではないか。伊吹は軽く座りなおした。このまま桐生のペースに巻き込まれるのは癪にさわる。
「ところで雪村さん」
「はい」
 絵音が居住まいを正して伊吹を見た。
「貴方が飲んだお茶のボトルは」
 持参した証拠品の中から、一つ選んで差し出す。勿論右手には手袋を嵌めていた。
「これでしたか?」
「…………」
 絵音は少し眼を細めてそれを眺め、やがて頷く。
「そうです。その銘柄のボトルでした」
 言い切ってから少し首をかしげ、
「でもいっぱいだった中身が空になっているから、私が飲んだのがそれかどうかは……」
「ああ、いいんだ。それは」
 伊吹は頷く。
「君が飲んだボトルが特定できれば、それで」
「待って下さい」
 草摩が口を挟んだ。
「それ、どういう意味ですか」
 伊吹が怪訝そうに視線を動かすと、草摩の瞳の放つ輝きとぶつかった。彼は、真っ直ぐに伊吹を見つめている。
「ボトルは、一つじゃなかったんですね?」
「え?」
 絵音が呟く。
 一瞬虚を衝かれた伊吹よりも早く、桐生は口を開いた。彼もまた、草摩の言おうとしていることを理解しているらしい。
「もしあの場にあったボトルが一つだったのなら、わざわざ絵音さんに確認を取る必要もない。いや確認は取るかもしれないけれど、それほどの優先事項とは思えません」
「…………」
 伊吹は黙ったまま視線で桐生に先を促した。草摩も横目で桐生を見る。誰かに借りたのか、白衣を着た桐生の姿はいつもと雰囲気が少し違って、知らない人のようだった。まるでかつての、現場から掛かってきた電話を取ったときの父のようだと思う。
「中身の色も何も分からない状態で、それでもボトルの銘柄が確認されればそれで良い。それって、別の銘柄のボトルがあったかのように受け取れますよね?」
「私が飲んだもの以外にも、ボトルが……?」
「ご明察だ」
 伊吹はこらえきれなくなったようにため息を一つ吐き、テーブルの上に先ほどのとは別のボトルを置いた。
 最初に絵音に見せたのは濃い緑のボトルで、白抜きの文字が大きく踊っている。今度のボトルは全体的に黄緑色で、黒字で銘柄が書かれていた。こちらには中身がまだ入っているようだった。どちらも良く知られた緑茶メーカーのものである。
「少々不可解なことがあってね」
 伊吹はそれらを前に腕組みをした。
「こちらの、今空になっている方。こっちにどうやら毒物が入っていたらしい」
「味は麦茶でした。それ」
「麦茶? ……そうなのか。いや、そうかもしれないな」
 絵音の言葉を聞いて伊吹はつぶやいた。
「そこまでの報告は受けていなかったが……ちょっと調べてみた方が良いのかもしれない」
「で、今入っている方のボトルは?」
「こちらはごく普通のお茶だよ」
 伊吹はそう言った後、付け加えた。
「ウーロン茶、だけどね」
「……え?」
 草摩は聞き返す。
「何で別々のお茶が?」
 元々は緑茶のボトルだったところから見て、恐らく中身は家で沸かし、詰め替えていたに違いない。
「ふつう、ウーロン茶と麦茶を両方常備しているとは考えにくいですよね。茶葉を買い置きしているのはともかく、同時に沸かすかな」
 桐生も首をかしげる。
「そもそも」
 絵音が口を挟んだ。
「吉原さんは下宿ですし」
「……少々不可解だな」
 伊吹は軽く髪を指で挟んだ。
「彼女からはまだ事情聴取ができる状態ではないし……」
「冴木百合子の妹さんは、何か言っていませんでしたか?」
 草摩に尋ねられ、伊吹は首を横に振る。
「まったく心当たりがないと言っていた。特に変わった様子もなかったらしいし……まあ、元々物静かな人だったみたいで、そんなに姉妹で話をすることはなかったみたいだな。ご本人もおとなしそうだった。またご両親が到着されたら何か話が聞けるかもしれないが……」
「そうですか」
 草摩が絵音の方を見た。こうしてきちんと目を合わせるのは絵音が倒れてから初めてのことで、絵音は少し瞬きする。一瞬、草摩の目が金色に光って見えた。
「雪村さん、吉原さんから何の話を聞いていたの?」
「…………」
 絵音は彼女との会話の全てを思い起こす。それはまるでテープに録音されていたかのように鮮明だった。伊吹も桐生も興味津々といった様子で彼女の言葉を待っている。
 絵音は意を決して口を開いた。
「自分と冴木百合子さんとの関係について、でした」

 ――あの人、優柔不断だから。
 
 そう言った彼女の顔を思い出す。悲しげで、切なげで。
 でもどこかほっとしているようにも見えたのは……冴木百合子がもういないと知っていたからだろうか。犯人だから……わかっていたのだろうか。彼女がこの世のどこにももういないことを。
 彼女が語ったことが真実かどうかも絵音には分からない。
 それでも、これは真実の一部。
 吉原奈津子の願う真実の一部なのだと、絵音はそう思った。