第三楽章 Allegro 10~12
10
しばし話し合った後、絵音の母はしぶしぶながら絵音の希望を容れ、階下の待合室で娘を待つことを了承した。それと入れ違いに、岡崎遊斗が捜査員の一人に先導されて伊吹たちの詰めているカンファレンスルームにやってきた。大きな布製の鞄を肩から下げ、それを両手で抱えこんでいる。
「君が……」
「岡崎です。K大医学部三回生の、岡崎遊斗です」
彼ははっきりとそう答えた。知的な好青年。それが、伊吹が彼に抱いた第一印象だった。
絵音がちらりと隣に腰掛けた草摩を見遣ると、彼はある一点に目をやり続けていた。岡崎の鞄。絵音は一瞬首を傾げかけるが、やがて彼の視線の意味を察して息をのんだ。
岡崎は周囲を見回し、早口に尋ねた。
「奈津子――吉原さんの容態は? あと、もう一人倒れた方がいると聞いたのですが、大丈夫でしょうか」
「そのもう一人の方はこちらにいらっしゃる、雪村さんです。大事ありません」
桐生が医師としての顔で口を開いた。岡崎が絵音を見てほっとしたように表情を緩める。
「摂取量が僅かだったこともあり、症状は非常に軽く済みました。後遺症などの危険性もほぼないでしょう」
「…………」
岡崎は黙って耳を傾けている。
絵音は物静かに話し続ける桐生の横顔を見つめた。岡崎が聞きたいのは自分のことではないはずで、それは桐生も良く分かっているだろう。先ほど絵音の無事を聞いて安堵したように見えたのも、奈津子と同時に倒れた絵音が無事だったということで、奈津子も似たようなものだと思ったからかもしれない。見知らぬ他人である自分の安否などより、自分の恋人の状況の方がずっと気になっているはずだ。――どうしてもそういう風に深読みをせずにはいられない自分に対して、絵音は知らず知らず苦笑を浮かべていた。
「それから」
桐生は変わらぬ声音で告げる。
「もう一人の被害者――吉原奈津子はまだ意識不明です」
「……えっ?」
本来、家族でもない彼に、何故桐生は詳細な病状を告げるのか。伊吹は怪訝に思ったが、止めはしなかった。何か考えがあるのだろうから、泳がせておこう。彼がそう判断することすら、桐生は見通しているのかもしれないが。
岡崎が引きつったような声で聞き返す。
「それ……どういう」
「言葉通りです」
「でもっ……でも、彼女は!!」
岡崎は絵音を指し示しながら身を乗り出す。その必死なさまに、伊吹は僅かに痛ましげに眉根を寄せたが、桐生は表情ひとつ変えなかった。
「トリカブトの摂取量が異なっていたのです」
桐生はあくまで静かに語り掛ける。
「ですが、生命の危険な状態というわけではありません」
「でも意識不明って……」
「明朝までには目を覚ます確率が高いと思いますよ」
「…………」
岡崎は深くため息をついた。心から安堵したのだろう、冷房が効いているにも関わらず、じっとりと汗ばんだ額を拭う。
「……それで」
伊吹が口を開く。
「君の話を聞かせてもらいたいんだが」
「――鞄の中には」
突然、それまで黙っていた草摩が言葉を発した。伊吹は気圧されたように口を閉じる。
絵音は草摩を見遣る。その瞳は、不思議な色をしていた。夕焼けの混じった、レモンティーのような色。光源を乱反射する煌めきは、揺らめく炎を思わせた。
誰も口を開かない内に、草摩は言葉を続けた。
「持ってきた覚えのないペットボトルがあるのでは?」
「え?!」
伊吹は驚いて岡崎の顔を見る。彼は唖然と口を開けていた。横目で伺った桐生は平静な様子、絵音も目を見開いてはいるが、特に驚愕した様子はない。むしろ、どことなく納得しているかのような……。
──これじゃどっちがプロだか分からん。伊吹はため息をかみ殺しながら、茫然としている岡崎に向き直った。
「それは本当ですか?」
「……ああ、いや、はい」
岡崎は困惑しながらも鞄を開けた。
「実はそのことでここに来たんです──勿論奈津子のことも気になっていたんですけど」
「ほう」
「でもペットボトルだけじゃなくて……」
岡崎は鞄の中から一枚の便箋を取り出した。
「手紙も、あって」
「手紙?」
伊吹が聞き返す。岡崎は頷いた。
「誰から、ですか?」
「冴木」
答えたのは岡崎ではなかった。草摩である。
「冴木百合子――そうですね?」
「……は、はい」
同年代のはずの草摩に、岡崎は圧倒されていた。むしろ実際、草摩は岡崎の後輩で年下である。だが今の彼にはそんな風に感じさせる要素は何もなかった。
「…………」
桐生は僅かに眼鏡の奥の目を細める。――ますます一騎さんに似てきたな。絵音はただじっと、草摩を見つめている。大きな黒い瞳。そこに映る色に見覚えがあるような気がして、桐生は唇を引き結んだ。
――そうか。不意に気がつく。――彼女は、どこか……。
「僕に、似てるんだ」
桐生の声は誰の耳にも届かなかった。
11
カンファレンスルームに岡崎が入ってきた時、草摩はすぐに彼の姿勢が不自然であることに気付いた。大きな肩掛け鞄を自分の体の前に回し、何か貴重品でも扱うように両手で抱えていたからである。あそこに何かが入っている。そう思った。そして、それこそが彼がここにきた理由だと。
確かに伊吹は「吉原奈津子の交際相手から話を聞く」とは言っていた。だが「話を聞く」と言ってすぐにここにやってきたということは、伊吹が指示を出すまでもなかったということだろう。それでは何故彼はここに来たのか。
――吉原奈津子のことが心配だったから? 確かにそれもあるかもしれない。だがそれだけではないだろう。そんな気がしていた。
彼の鞄に何かが入っているとしたら、それは今回の事件に関わるものであるはずだ。だとすれば、それは何か――。
桐生の淡々とした声が耳に入っていた。だがその言葉は全く解釈されることなく、ただ音としてのみ響いては消えていく。
舞台上で衆人環視の中崩れ落ちた冴木百合子。
二人きりの密室の中で倒れた雪村絵音。
その後を追うように昏倒した吉原奈津子。
一人は死に、
一人はすぐに快復し、
一人は未だ意識不明だ。
そして――残された二本のペットボトル。
「私は、実験台だったのね」
絵音の声が聞こえる。
――もしかして。
草摩の脳裏に閃光が走る。
――もしかして……。
「だからこそ、私は私が信じたいものを信じようと思うの」
やはり……、
そこに全ての答えはあったのだ。
草摩はゆっくりと口を開く。
「鞄の中には」
静寂が部屋を支配する。
「持ってきた覚えのないペットボトルがあるのでは?」
それはこの長い舞台の、幕切れの始まりだった。
12
ピッ……ピッ……。
規則正しい心電図の音。
彼女はただ静かに呼吸を繰り返していた。瞼は固く閉ざされている。一時は白く透けるようだった肌の色も、今は大分血色を取り戻していた。
「大丈夫」
寝台の側に立っていた医師が呟き、小さく微笑む。
「何があったのかは知らないが……死ななくて良かったね」
優しい声。
「若いんだ。何も死ぬことはない」
つぶやきを残し、病室を出て行く。
しばらくの後――、彼女の白い頬に涙が一筋伝った。