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第一楽章 Andante 7~9

  7
  
 八月八日、K外大講堂前。草摩の側には桐生の姿があった。
「せっかくの休みなんだし、家にいれば良かったのに」
「でも車で来られて良かったでしょう?」
 桐生はそう言って微笑む。
「それにチケットは二枚あったんですから、無駄にするのも」
「まあ、それはそうだけど……」
「誰か、誘いたい人でもいましたか?」
「いまっせん」
 力いっぱい否定する。
「なんだ……」
 桐生はあからさまに肩を落とした。
「がっかりすんなよ」
「だって……ねえ」
「何がだって、だ」
「若いのに」
「お前は?」
「え?」
 桐生は一瞬ぽかんとした。珍しく無防備なその表情に戸惑いながらも、草摩は続けて言う。
「お前の大学生時代ってどうだったの? 俺聴いたことない」
「僕ですか? 僕は――……」
 桐生は草摩から視線を外した。遠い記憶を遡るように眼が細められる。
「僕は……」
「あれ?」
 どことなく聞き覚えのある声が背後に聞こえた。
「七条君?」
「え? あ」
 草摩は声の主を発見して声を上げる。
「雪村さん?」
「え?」
 隣りで桐生が反応する。草摩は慌てた。
「何でお前が覚えてるんだよ」
「いやまあ」
 桐生が視線を向けた先にいる一人の若い女性。――この子が雪村絵音か。桐生は興味深げに観察した。草摩と同い年だというが、どこか大人びているように見える。すらりとした身長のせいだろうか。真っ直ぐに相手を見据える大きな瞳が、草摩から桐生へと向けられた。首の角度が右に二十度ほど曲がる。
「七条君のお兄さん?」
「いやいやいや」
 草摩は何故か妙に力を入れて否定した。
「それは違う。全然違うから」
「はじめまして」
 桐生は微笑を浮かべている。穏やかで人当たりのいい、もしこれがセールスマンなら誰もがふっと商品を購入してしまいそうな、そんな笑顔である。
「桐生千影といいます。草摩君の遠縁の者で、現在は保護者です」
「こちらこそ、はじめまして」
 絵音はぺこりと頭を下げた。
「雪村絵音です」
「雪村さん」
 七条はふと疑問に思って問いかけた。
「何でここにいるの?」
 ここは講堂内のロビーフロアだ。
「え?」
 絵音は黒のキャミソールの上に白いサマーカーディガンを羽織っている。指先の色はほとんどそのカーディガンと同化していた。
「ホールが寒かったから出てきたの。まだ開演には間があるし……」
「あ、雪村さんも合唱祭見に来たんだ」
「七条君も?」
 絵音は小首を傾げて尋ねた。
「ああ。高城にチケット二枚渡されて――ってそうだ」
 草摩はふと思いついた。
「さっきそこに自販機あったからさ、何かあたたかいもの買ってくるよ」
「え、じゃあ私も」
「僕が行きましょう」
 桐生が割って入った。
「二人とも、ここにいてくださいね」
 有無を言わせぬ笑み。
「……はい」
 二人は大人しく頷いた。
 
 
  8
  
 桐生は柔らかなカーペットの上を歩きながら、独り思考していた。
 自分の名乗りを聞いたとき、絵音は少しだけ反応した。――名前の違う遠縁の親戚が今保護者をしている。その意味を考えたはずだ。
 見開かれた眼がやがて納得の色に染まり、そして温かな理解が彼女の表情に流れ込んだ。七条という名から例の一件を連想するのはそう難しくはないはず。
 草摩の父親が殉職し、叔父が謎の自殺を遂げ、それら全てに関わっていたと思われる新興宗教教団の教祖もまた自死した――。
 一時はマスコミを賑わせた騒動だったから、絵音もきっと知っているだろう。まあ、一人遺された息子の名前までは知らなかったかもしれないが。
「あの子、何も言わなかった……」
 自販機の前で一人ごちる。それは草摩に興味がないせいなのか、それとも興味があるゆえなのか。興味がないのだとするならば、桐生がこれ以上考える必要はない。だが興味があるがゆえに何も聞かなかったのだとすれば――。
「草摩君が気に入るのもわかる気がする」
 桐生はくすりと笑った。自販機に五百円玉を入れ、商品を眺める。
 草摩はホットティがいいと言っていた。彼の好みは甘ったるいほどのロイヤルミルクティだ。ストレート派の桐生には飲めた代物ではない。恐縮している絵音からも無理やり聞き出したところ、彼女はブラックコーヒーが好きなのだと言った。――やっぱり、ちょっと大人っぽい子なのかもしれない。
 桐生は紙コップに中身が注ぎ込まれるのを待つ。
 自分は何にしよう。そう思ったところではたと気がついた。三つの紙コップをどう持てばいいのだ。手は二本しかない。
「うーん……」
 唸りながら視線を動かす。ふと一点で眼が留まった。楽屋裏に通じる、細い通路。その隅から話し声が聞こえていた。
「だから……いい加減に……」
「あなたが何を言っているのかわからないわ」
 低い男の声と交互に聞こえる澄んだ女の声。
「わたしが何をしたって言うの?」
「なつ……に……やめろって……」
 ――痴話喧嘩かな? 肩をすくめたところで、背後から声が掛けられる。
「すみません、やっぱり持てませんでしたよね」
「ああ」
 振り向いて、微笑む。駆け寄ってきたらしい絵音が、軽く息を弾ませていた。草摩はその後ろから気が乗らないように、駆け足で追いついてくる。
「どうもすみません」
「お前なら、何とか持ってきそうな気がしたんだけどなあ」
「無茶よ」
 絵音が草摩をたしなめる。――まるで姉が弟に言って聞かせているようだった。
「助かりました。ありがとうございます、絵音さん」
「あ。名前で呼んでる」
 草摩から厳しいチェックが入るが、桐生はしれっと受け流した。
「いけませんか?」
「いや、雪村さんがいいんなら……」
「私は構いませんよ?」
「そ、そう……」
「さて、そろそろ開演時間ですね」
 桐生は自分用に買ったカフェオレを手にして提案した。
「ホールに入りましょうか」
「そうですね」
 草摩と絵音は連れだって歩きながら会話を弾ませている。――こんなことなら僕は来るんじゃなかったなあ。桐生は苦笑を浮かべつつ、ふと先ほど声がしていた通路を見た。
「…………?」
 佇む人影と、目が合う。長い黒髪の女。絵音より少し年上くらいに見える。白いブラウスと黒の長いスカートを身に着けているから、きっと出演者なのだろう。だが、出演者がこんなところで何をしているのだろうか……。
 ――ふ、
 と人影は微笑み、桐生の視界から消えた。なんとなく、嫌な笑みだな、と桐生は思った。
 
 
  9

 照明を落としたホールの中、合唱の声だけが空気を震わせている。開演まではひそひそと話していた草摩と絵音も、今はただ黙って聞き入っているようだ。
 桐生は連日の仕事疲れのせいか、うたたねのような心地よさに身を任せていた。このままでは寝入ってしまうかもしれない……。
「テナー、あんまり上手くないな」
 草摩が不意に桐生に話しかけた。
「あ、ええ……そうですかね」
 虚を衝かれた桐生は慌てて頷く。
「どうしたんだよ」
 草摩に怪訝そうに見つめられ、彼は笑った。
「いやあ。僕の存在なんて忘れられているかと思ってました」
「なんで」
「せっかくの機会ですし」
 桐生は声を低めた。
「ゲッツ」
「古!」
 即座に切り返す草摩。
「そもそもそういうんじゃないし」
「でもちょっといいなって思ってるでしょう?」
「だから、『友達』だって……」
「あの子に彼氏ができたら、そうも言ってられなくなりますよ? 異性の友人よりは彼氏さんを優先するに決まってますからねえ」
「う……」
 草摩が黙り込む。どうしたのかと不思議そうに見つめてくる絵音には、何でもないと誤魔化したようだ。その微笑ましい様に、桐生はくすりと微笑む。
 ――そのとき、不意に伴奏が途切れた。遅れて歌も止まる。観客たちの視線が何事かと舞台に集まった。
百合子(ゆりこ)!!」
 ピアノを弾いていた女性が走った。ざわめく舞台上。
「誰か倒れたのか?」
 草摩の声に、桐生が腰を浮かせる。
「ちょっと見てきましょうか」
「あ……うん」
「え? 桐生さんって……」
「ああ、あいつ医者なんだ。俺の先輩にあたる」
「あ、そうだったの」
 彼らのやりとりを背後に、桐生は壇上へと身軽に上がった。
「僕は医者ですが、何かお手伝いできることは?」
「彼女が……!」
 人波が割れ、床に倒れ伏した女性の姿が見えた。
「急に倒れて」
「…………」
 桐生は眉を顰めて彼女を抱き起こす。長い黒髪がだらりと床に垂れた。彼女はひどく汗をかいて、苦しげに呼吸している。
「な……なんだか」
 舌をもつれさせながら訴える。
「めまい……口がぴりぴり、して……」
「救急車!」
 桐生は叫ぶ。何人かが走り出した。
「失礼」
 桐生は彼女の口腔に指を突っ込み、嘔吐させる。大して内容物はないのか、透明な胃液が飛び散っただけだった。――何かの中毒かもしれない、そう思っての処置だったが、とっさのことで具体的な毒物名は思い浮かばなかった。
「は、はあ、はあ……」
 女性は粗い呼吸を繰り返している。
 桐生がその顔に見覚えがあることに気付いたのは、彼女に付き添って救急車に乗り込んだ後のことだった。
 ――あの時、ロビーの廊下で桐生の胸をざわめかせた笑顔。今はただ、ぐったりと蒼白だった。