instagram

第一楽章 Andante 4~6

  4
 
 七夕から二週間が過ぎた頃、草摩は大学に入って初めて高城尚人と会った。メールで時折連絡を取ってはいたのだが、こうして顔をあわせるのは四ヶ月ぶりのことである。最後に会ったのは一騎の葬式の時だったか――短い付き合いにも関わらず、高城は駆けつけてくれた。そのことに、草摩は心から感謝している。
 場所はK町。居酒屋や近付くのが躊躇われるような雰囲気の店までが華々しく夜の街並みを彩っているが、彼らが入ったのはそれなりに名の知れたチェーン店で、店舗そのものは新装開店したばかりということだった。内装も新しく、清潔感がある。
 一杯目のドリンクを頼み店員が去ったのを眼で追ってから、尚人は草摩に視線を移した。
「そういえばさ、絵音さんに会ったんだってね」
「カイネさん?」
「ああ、雪村さんのこと」
 そんなことは分かってる、と草摩は内心で呟いた。――俺が聞きたかったのは、何でお前がそうなれなれしい呼び方をしているんだって話。
 尚人の少し長めの髪はつややかに明るくカラーリングされていて、それがどこか日本人離れした彫りの深い顔立ちにとても良くマッチしていた。
「あの日の夜、メールが着てさ」
「何て?」
「『七条君っていう子と知り合いになった。あの子面白くていい子だった』ってさ」
「俺、面白いか?」
 草摩が首を捻ると、尚人はかすかに笑った。
「面白いかどうかはともかく、ちょっと変わってるよな」
「そう? お前には言われたくないような気もするんだが」
 店員が尚人の前に生ビールを、草摩の前にファジーネーブルを置く。
「草摩はお酒弱いんだっけ」
「うん、まあ」
「じゃあ仕方ないな」
 何か仕方ないのか分からないが、尚人はそう言うと軽くグラスを持ち上げた。
「乾杯」
 鈍く、グラスが鳴った。
 
 
  5
  
 その日の草摩は随分注意深かったと言えるだろう。何しろ尚人と来たらその顔立ちに似合わず噂好きな世話焼きで、特に他人の恋路に首を突っ込むのが大好きなのである。
 草摩の中で絵音はまだ一友人であり、特別な感情は意識されていない。それでも、万が一草摩が彼女に興味や、わずかにでも好意でも持っていることを知られてしまったら、かなり鬱陶しいことになるのは間違いない。それでいて大学での絵音の様子に興味があった草摩は、それとなく尚人から聞き出すことに成功していた。
「口ではきついこと言うけど、結構面倒見がいいんだよね。優しいよ」
「そうなのか?」
「うん。僕もあんまり授業に出ないものだから心配されちゃって。ノートをコピーさせてくれたりプリントをもらっておいてくれたり……色々世話になってる」
「へえ」
「変なところでお人好しなんだよね。あれは損をする」
「どうして」
「外面の強さと、内面がミスマッチっぽいからさ」
「…………」
 その分析には少し驚かされた。絵音は、芯まで強い女性なのだと思った。あの飲み会の日も、凛とした眼差しは常に少しも揺らがず、自分というものを強く確立している人なのだと感じさせるものだった。
 だが、同時に自分の気遣いを相手に悟らせまいとしているような様子も窺えて、敏感な草摩はそれに何となく勘付いたが、気がつかない者も多いだろう。尚人も、気が付いた側の人間だということだろうか。
 草摩の内心の動揺が顔に出たのか、尚人は少し微笑んだ。
「まあ、多少親しくしていれば分かってくるよ」
「ふうん」
 そろそろ潮時だろう。草摩はそう判断して、話題を他の方面に振った。共通の友人の近況やお互いの近況について話を広げているうち、やがて尚人は二枚のチケットを取り出した。
「草摩、八月八日って空いてる?」
 草摩は脳裏にカレンダーを思い浮かべた。
「うん、多分な」
「もし良かったら、これ来て欲しいんだけど」
 草摩は差し出されたチケットに目を落とした。
「K外大の講堂で、K大とH大合唱部合同音楽祭っていうのをやるんだ」
「そんなのがあるのか」
「そうそう、その練習が今忙しくて」
「授業行けよ」
「うん、まあ……」
「それでそのチケットなのか?」
「勿論」
「わかった。……チケット代、今払えばいいのか?」
「ありがとう。半額でいいよ」
「本当に?」
 草摩は驚いて眼を上げた。尚人は頷く。
「これ配るのノルマみたいなものだし、うちらは所詮アマだからね」
「じゃあ二枚で千円?」
「うん。ありがと」
 尚人は草摩の手にチケットを渡し、やがてふっと草摩の顔を見つめた。
「……どうした?」
 聞き返すと尚人は苦笑して首を横に振る。
「いや。絵音さんから聞いたんだけどね」
「うん」
「K大の方の合唱部に友人がいて、厄介事に巻き込まれているんだってさ」
「へえ……」
「詳しくは教えてくれなかったけど。心配そうだったよ」
 ――もしかしたら、絵音も来るのだろうか。
 草摩はチケットを見つめる。
 あの日彼女と交わした会話は楽しかった。もう少し色々話してみたい。
 尚人は空になった四杯目のアルコールをテーブルの上に置いた。
「お前、確かクラシック好きだろう?」
「うん、まあ」
 どうやら亡くなった母が好きだったらしい。彼女の集めた古いレコード、CD、それらのどれ一つ捨てずに一騎がとっておいたものを、今度は桐生がそのまま引き取ってくれた。
「楽しんでもらえると思うな」
 尚人の横顔には充実した気概が満ちていて、それでも草摩は釘を刺す。
「楽しいのはいいけど、お前、あんまり人様に迷惑かけんなよ」
「はいはい」
 ――こいつ、絶対分かってねえ。さわやかに微笑む尚人の顔を見ながら、草摩はやれやれとため息をつくのだった。
 
 
  6
 
 七月末日。雪村絵音は受話器から流れ込んでくる声に耳を傾けていた。
 声の主は吉原(よしはら)奈津子(なつこ)。高校時代に通っていた塾で知り合った友人で、今はK大医学部に在籍している。大学に入学してからもしばしばメールで連絡を取ってはいたが、電話がかかってくるのは珍しい。
 奈津子の声はどこか沈んでいて、歯切れも悪かった。絵音は軽く眉を顰める。
『絵音ちゃんはさ』
 奈津子は尋ねる。
『彼氏いないの?』
「いないけど……」
 絵音は言うと同時に思い出した。奈津子は確か、ひと月ほど前に彼氏ができたと言っていた。確か同じ合唱部の先輩だと聞いたような覚えがあるが……。
『じゃあ、気になる人とか』
「うーん、今のところはいないなあ」
 絵音は苦笑した。
 弟がいるからかどうかは知らないが、彼女は異性と友人になるのが得意だった。時には同性の友人より心地よく、距離感が上手く掴める。それが幸いしたのか災いしたのか、絵音自身あまり異性をそれと意識することがなく、これまで特に誰とも付き合ったことはなかった。
 実は大学に入ってから二度ほど付き合って欲しいと言われたことはあるのだが、何となく気が乗らず、色良い返事は返さなかった。そういうところで妥協するつもりはない。
「それより、なっちゃんはどうなの? 彼氏さんとうまくいってる?」
『うん……』
 あまりうまくいってはいないのだな、と絵音は悟った。
「私で良ければ聞くけど?」
 絵音は自分が相談されやすいキャラクタであることを自覚している。奈津子はしばらく逡巡した後、
『八月八日、空いてる?』
「八日?」
 絵音はスケジュールにさっと目を走らせ、
「特に何も予定はないわね」
『合唱祭に来る気ない? 場所は』
「あ」
 絵音は声を上げた。
「そういえばそのチケット高城君に押し付けられたわ」
『高城君?』
「H大の合唱部の子よ。行くかどうか分からないって言ってるのに、ノルマ達成のために協力しろって……無理やり売りつけられたの」
『仲良さそうじゃない』
「……誤解。そんなんじゃないから」
 絵音は肩をすくめた。
 確かに尚人と彼女は仲が良く見えるだろう。実際、友人という意味ではかなり馬の合う方だと思う。それでも奈津子の言う意味の「仲が良い」では決してあり得ない。
 尚人はあれで他人に対する洞察が鋭い男だ。それは絵音にも共通している。だが、彼は自分の観察眼に自信を持っている。それは絵音との決定的な違いだった。――人は決して他人の全てを理解することはできない。絵音はそう思っている。理解したふりをするのは簡単だ。だが、それは時に相手を傷つけ、そしてさらには自分をも傷付ける――。
「その合唱祭、行こうか?」
『うん。良かったらその後一緒に夕飯でもどうかなって』
「いいわね」
 絵音は微笑んだ。
「そのときに話してくれる?」
『……ええ』
 奈津子は答える。
『そのとき……きっと』