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第一楽章 Andante 1~3

心を引き裂くささいなことがごまかせなくなって
随分長いことになるんでしょ
微笑みは紙みたいに薄っぺらく見えて
壁にぶつかっては耳障りな音を立てている

  1
  
 その日は七夕だった。七条草摩は後に懐かしげに思い返す。何か思い出す必要のある特別な日なのかと問われれば、彼は違うと答えるだろう。本当の記念日は別の日で、またそれは別の話だ。
 七月七日金曜日、午後六時を少し過ぎた頃。ラッシュ時の混みあうO駅の中央口に若い男女の集団があった。草摩もその中にいる。
「集まらないわね」
 一団のまとめ役らしき女性がふう、とため息をついた。同年代なのだろうが、随分大人びて見える。露出度の高いプラム色のキャミソールをまとい、きっちり施されたメイクには一分の隙もなく、したがって草摩には話しかける勇気が出ない。どこの大学だと言っていたか……草摩はうっかり聞き漏らしていた。まあどこでも構いはしないのだが。
 いわゆる合コン、というものに出席するのは草摩にとって初めてのことだった。特に興味もないし、自分の肌に合うとも思えない。そんな彼が何故ここにいるのかというと、友人の穴埋めのためだった。急に風邪を引いたらしいのだが、既に店には人数分のコース料理が予約されており、幹事に来れなくとも金は払えと迫られたのだという。その友人は穴埋めに奔走したのだがたまたまその日は誰も都合がつかず、渋る草摩に参加費の八割負担でいいから、と半ば強引に押し付けたのだった。結局断りきれなかった草摩は今、所在なげに佇んでいる。
「なかなか全員揃わないね」
 草摩の隣りに立っていた男が呟く。H大生の鹿野(かの)(じゅん)で、草摩の予備校時代の友人だった。草摩は軽く肩をすくめる。
「まあ、そんなもんだろ」
 さらにその隣り、つまり草摩と鹿野を挟んで線対称の位置に立っていた女性が口を開いた。独り言に近い小さな声だったが、草摩にははっきりと聞き取れた。
「どう考えても、私は場違いでしょ」
 鹿野があわてて両手を顔の前で合わせる。
「ごめんって。直前で女の子一人抜けたから、どうしてもさ」
「合コンだなんて聞いてないわよ」
「そりゃあ言ってないからな」
「む」
「怒るなよ雪村(ゆきむら)
 雪村と呼ばれた女性はきっと顔を上げた。わずかに染めているのか、ダークブラウンの髪とくっきりした目鼻立ち。化粧はしているのかしていないのか、男である草摩の目には良く分からない程度だった。意志の強そうな眼差しと口元だと思う。
 確かに、彼女の様子を見ればここに集っている他の女性たちと違うのは一目瞭然だった。鹿野との会話から類推すると、彼女は鹿野の同級生らしい。草摩も入学以来合コンに明け暮れている友人を何人も知っているが、大抵その相手は女子大生だった。逆に、同級生の女性が合コンに行ったという話はあまり聞かない。その理由は、何となく理解できる。
「俺も代理なんだ。お互いやられたね」
 草摩を見て一瞬眉を顰めた彼女は、草摩と初対面かそうでないかを探ったのだろう。草摩はそれを察して自分から名乗った。
「俺は七条草摩。K大一回生」
「ソウマってどういう字を書くの?」
 差し出された手のひらに一瞬面食らいながら、草摩はその白い手のひらに指で軌跡を描いた。肌には触れない。
「草はくさで、摩は護摩を焚くとかいう護摩の、摩。分かるかな」
「分かる」
 彼女はあっさりと頷き、次に自分の指で自分の手のひらに文字を書き始めた。
「私は雪村絵音(かいね)。H大よ」
 草摩は彼女の指を眼で追い、やがて声を上げた。
「これでカイネ? 読めないな」
「でしょう? エネって読まれたりエオンだったり」
「まあ俺の名前も大概だけどさ」
 草摩は苦笑した。絵音も微笑む。
「きっと七条君の名前はすぐに覚えられると思うわ」
「珍しいから?」
「それもあるけど……」
 絵音の言葉にかぶさるように、先ほどの女性が声を張り上げた。
「全員集合したんで、移動しまーす!」
「……幼稚園児みたいだな、俺たち」
 鹿野の言葉に、草摩と絵音は力なく頷いた。

  2
  
 店に入った一行は、それぞれ思い思いの席に着いた。先ほどの流れで何となく一緒にいた草摩と絵音は隣同士に座る。鹿野は別の友人の近くに座った。
「飲み会って久しぶりだ」
「私も」
 にこりと微笑み、絵音は言葉を続ける。
「あんまり騒ぐのって、性に合わないのよ」
「うん、俺も」
 草摩は相好を崩す。
「七条君はお酒強い方?」
「パッチテストではそれなりに赤くなったから、あんまり強くはないと思う。そんなに飲まないけど。……雪村さんは?」
「私、まだ酔ったことないわね」
「強いんだ」
「というより」
 絵音はテーブルに肘を突き、その小さな手のひらに顎を載せた。
「外じゃ酔えないのよ。家飲みすると結構酔うんだけどな」
「緊張してるから、かな?」
 絵音は少しだけ目を見開いた。
「そうかも、ね」
「そうか」
 何となく意味は分かった。
 彼女は自分の中に殻を持っているのだろう。本当の自分はそこに仕舞われていて、アルコールをもってしてもこじ開けることはできないし、自分から開けてみせることもない。知らない人間の前で無防備な素顔は晒さない。
 確かに、絵音の彫りの深い横顔にはどこか張り詰めたような緊張感が漲っていた。一方でそれは溢れる生気のようでもあって、草摩には心地よく感じられる。この女性への興味が湧いた。
「H大って言えば」
 草摩はふと思い出す。
高城(たかぎ)尚人(なおと)っていない?」
「いる」
「それ予備校時代の同級生なんだけど。そこの鹿野も一緒」
「え、そうなの?」
 絵音は身を乗り出した。
「私、高城君とも鹿野君とも仲いいの」
「……そうなんだ」
 ちり、と嫌な感じが掠めた。一瞬この話題を出したことを後悔するが、話を盛り上げるという意味では効果的だったのかもしれない。絵音との距離は少し縮まったような気がする。共通の知人がいるという親近感がなせる業だろう。
「高城君って変な子よね」
 絵音はくすりと笑う。草摩もつられて頬を緩めた。
「かなり変。相変わらずなのかなあ。俺、最近会ってないから」
「あの子、今合唱部に入ってるの」
「あ、それメールで聞いた」
「すっごい熱上げてて、真夜中まで部室で練習して、授業に来なかったり」
「……本末転倒だな」
 大学生にはありがちなことだ。だが草摩はそういう学生があまり好きではない。見遣ると絵音も軽く眉を顰めていた。
「そう。そのくせ要領はいいんだから、困るのよ」
 絵音は苦笑しながら草摩を見つめる。その珈琲色の瞳に自分が映っていた。
「大学の授業なんて、出なくたって何とでもできるもの。出席を取られても代返っていう手があるし、ノートなら誰かにコピーさせてもらえばいいし」
「ううん」
 草摩の顔も彼女と良く似たしかめっ面になった。どうやらお互いそういう者たちの餌食にされる側の人種のようだ。別にノートくらいはコピーさせてやるのだが、そうやって試験をパスしていくものたちを見ているとやはり少しは癪に障るのだ。――互いの思考に気付き、ふたりは笑みを交わす。
「ま、いいんだけどね」
「うん、まあ」
 乾杯の為、一端会話は途切れる。だが一杯目のビールが空になった頃、草摩と絵音の会話は誰も割って入れないほどに盛り上がっていた。

  3
  
「ただいま」
 その夜草摩が帰宅したのは夜半過ぎだった。
「おかえりなさい」
 奥から同居人、桐生(きりゅう)千影(ちかげ)の声。彼は多忙な外科医だが、今日は緊急手術も当直でもなかったらしい。
「遅かったですね?」
「うん。飲み会の場所がO駅辺りだったからさ」
 リビングを覗くと桐生が新聞をめくっていた。まだシャツにスラックスを身につけているから、風呂はまだらしい。
「ごめん、もしかして待ってた?」
「いいえ。今日はちょっとオペが長引いたので、先ほど帰ってきたところなんです」
「そうなんだ」
 桐生は草摩の母親の従姉妹の息子であり、草摩が父母を失った今では保護者のような存在である。また、草摩と同窓でもあった。十三、四ほど上の先輩ということになる。
 桐生はふと顔を上げた。
「草摩君、何かいつもより機嫌良くないですか?」
 鋭い指摘に、草摩は内心うろたえた。
「え? いや、別に……」
「顔がにやけてますよ」
「嘘」
 草摩はふと頬を引き締める。
「ちょっと飲んでるからじゃないかな?」
「…………」
 桐生の端正な顔から放たれる猜疑の眼差しに、草摩は何となく面映くなって瞬きを繰り返した。
「いい女の子でもいましたか?」
「そんなんじゃないよ」
 背中に汗が流れる。
「いい友達になれそうな子なら、いたけど1」
「『友達』?」
「うん。ま、女の子なんだけどさ」
「『友達』……『友達から始める』……『お付き合い』……」
「何をぶつくさ言ってるんだよ」
 新聞の紙面を睨みながら呟き始めた桐生の背中を軽く叩き、草摩は鞄を自室に放り込んだ。
「風呂洗い、まだだろ? やってくるわ」
「すみません、ありがとうございます」
 草摩が机の上に投げ出した携帯電話がメールの着信を告げる。草摩は既に浴室に行って音に気付いていないようだ。
「…………」
 桐生はさりげなくディスプレイを流し見た。勿論、中身を見るような真似はしない。お互いに、プライヴァシーは尊重されるべきだ。だが、好奇心は確かに存在していて……このくらいは、許容されるだろうか。
「……『雪村』、えっと」
 ご多分に漏れず桐生も彼女の名前は読めなかったらしい。
「エネ、じゃないだろうし、エオン? まさか。ええっと……」
「カイネ」
 戻ってきた草摩は桐生の眼前から携帯電話を掬い上げた。
「カイネ?」
「そ。雪村絵音」
「変わったお名前ですね」
 画面を開いてメールを読む草摩の横顔は明らかに上機嫌で、桐生は思わず苦笑する。

 だが、ほんの一ヶ月もしないうちに彼女と桐生が直接出会うことになろうとは――そして共に同じ事件に巻き込まれることになろうとは、この時はまだ誰も想像だにしなかったのだった。