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第一楽章 Andante 10~12

  10
  
 警察、と叫んだ桐生の声が響いた後、会場内は騒然とした。草摩は不意に立ち上がる。
「七条君?」
 絵音の声を手で制して、
「ホールの出入り口を閉めて! 警察の到着まで誰も出て行っちゃ駄目だ!」
 声を張り上げる。騒ぎを聞きつけたのか、現れた係員が慌てて扉を閉めた。
「ど、どういうことだよ」
 同じくらいの年代の男が、草摩に詰め寄る。
「今、この場にいた医者が、倒れた人の様子を見に行きました」
 草摩は落ち着き払って答える。
「その彼が警察を、と叫んだ。単なる目眩や貧血じゃないってことだ」
「それはそうだろうけど、でも」
「この中に事件関係者がいるかもしれない以上、ここにいて警察の到着を待つべきでしょう?」
「犯人が、中に?!」
「犯人とは言ってないけど……」
 日常にいきなり出くわした事態に動転しているのだろう、男の友人らも集まって草摩に尋ね始めた。
「なあ、どういうことなんだよ」
「いつ帰れる? これ、もう続けられないよな?」
「えっと……」
「事故かなんかだろ? まさか殺人なんて」
「いや、まだ死んでるかどうかなんて知らないし……」
 草摩が辟易していると、
「いい加減にしたらどうですか!」
 隣で勢い良く絵音が立ち上がった。
「……へ?」
 間抜けな顔をして振り向く草摩に構わず、彼女はまくしたてる。
「大体、まだ誰にもどういう状態かは分からないんでしょう? 倒れたのだって、事故で何かあったのか故意に何かされたのかもわからない。ただ、医者の判断で警察が呼ばれたんです。だったらその到着くらい大人しく待てないんですか。そもそも故意犯だって犯人がここにいるかどうかなんて、ただの観客である彼に分かるわけないし、情報量は貴方たちと全く同じなんだから、ちゃんと自分の頭を使ってください」
 ここで一息。
「もし事件性があったとしたら、私たちは舞台上で起きたことを見ていた証人でもあるわけで、無責任にほいほいと帰れる訳がないですよね。それくらいのことは素人にだってわかるでしょう。だったら、ちょっとは協力したらどうですか」
「きょ、協力っていったって何を」
「この場合」
 絵音はぴしゃりと告げた。
「黙って待っているのが協力だと思います。皆がパニックにならないように周りの人を落ち着かせてあげるとか……それくらいのこと自分で考え付くでしょう。子供じゃないんだから!」
「…………」
 草摩がぽかんとしているのを見て、絵音は慌てたように表情を変えた。高速で回転していた口がやんわりとした笑みに代わる。
「でしゃばってごめんなさい。私も不安なものだから、つい」
「……あ、ああ」
「まあ、そろそろ警察も来るよな」
 草摩の前にたむろしていた男たちは呆気に取られた様子で自席の方へと引き上げていった。
「あー。雪村さん?」
「何?」
 答えた後で絵音は表情を曇らせた。
「ちょっと言い過ぎたわよね……」
「いや。何ていうか」
 草摩は軽く頭を掻きながら、
「口、良く回るなあ」
「……良く言われるわ」
「あの」
 絵音は振り向いた。白のブラウスに長い黒いスカートをはいた、黒髪の長い女性が立っている。年は絵音と同じくらいか、少し上だろう。一瞬出演者かと思ったが、ここにいる以上、そんなはずはない。
「えっと……何か……?」
 女性はどこか不安げな表情で尋ねる。
「今、誰が倒れたのか……分かりますか?」
「いえ、それはちょっと」
「そうですか……」
 草摩が一歩踏み出した。
「もし気になるようでしたら、舞台のほうへ行かれてみては?」
「え、……ええ。でも、ちょっと……内緒で見に来てしまったので」
 大人しそうなその女性は、物静かに微笑んだ。
「多分大丈夫だと思います。ありがとう」
「いえいえ」
 ――どこかで見たことがあるような……。草摩はぼんやりと見送る。
「美人だったわね」
 絵音の言葉に不意に我に返った。
「あ、そうだった?」
「うん」
「あの人、見覚えがあるんだよな……」
 草摩は呟く。
「誰だっけ……?」
 
 
  11
 
 K府警管轄下のU警察署に知らせが入ったのは、午後二時過ぎだった。眠気覚ましにコーヒーを飲んでいた署長、伊吹(いぶき)は報告を聞いて目を覚ました。警部から警視に昇進したのは良かったものの、どうも一線から遠ざかるばかりでいけない。
 伊吹はいわゆる準キャリアである。準キャリアとは警察庁が毎年十名ほど採用する国家公務員二種試験合格者で、彼らははまず巡査部長の地位につく。ノンキャリアと呼ばれる都道府県警察官採用者は昇進ごとに試験を受けなければならないのだが、準キャリアは年功序列に昇進する。とはいえ警視以上の昇任は全て選考で行われるから、伊吹が三十三で警視になったのは平均と比べれば早い方だった。
 伊吹は準キャリアでありながらノンキャリアに気質が近いらしく、デスクワークよりも一線で捜査する方が性に合っている。ここ最近はそう言った機会もなく、勿論犯罪はないに越したことはないのだが、年甲斐もなくうずうずしていた。
 一一〇の第一報では、K外大で不審な急病人とのことだった。それから三十分。病院からの知らせを総合して、伊吹は眉を顰めた。
 
 被害者は冴木(さえき)百合子、K大医学部三回生。年齢は二十一歳。
 合唱部のコンサートの舞台が始まって、三十分後に倒れた。唾液分泌が激しく飲み込みきれないほどで、嘔吐と強い運動神経の興奮が続き、瞳孔が散大している。医者の診断では何らかの中毒ではないか、とのことだった。症状はトリカブト中毒と類似しているという。
 
 部下の松林巡査部長が、困惑の表情で言う。
「トリカブトって、確か治療法がないんですよね」
「そうなのか?」
「ええ。解毒剤がないんだそうです。しかも致死量は、根っこならほんのわずか」
 伊吹は思い出す。
「そういえば昔トリカブト殺人事件なんていうのがあったな」

 昭和六十一年、Kという男の妻が旅行中に急死した。
 三番目の妻であった彼女には、二億円近い保険金が掛けられていたが、保険会社は保険金の支払いを拒否した。不審だったのは健康だった彼女が急死したという点だけではなく、実はKの一人目の妻も二人目の妻も、それぞれ急死していたことだった。
 その後、平成三年になってKは別件で逮捕された。とはいえ、当局の目的は保険金殺人であり、再度検死医が検査を行った結果、Kの妻の血液からはトリカブトとフグの毒が検出された。さらに取調べで、Kがトリカブトやフグを大量に購入していたことなどが判明。Kはアリバイを主張したが、平成十二年二月に最高裁はK被告の上告を棄却、無期懲役が確定した。
 
「その刑が確定したの、俺が警察に入った年なんですよねー」
「……お前若いなあ」
 思わずしみじみと呟いてから、伊吹は思考を元に戻す。
「しかし、何だってトリカブトなんだ。しかも舞台の上で」
「効くまで時間がかかるんじゃないんですかね」
「いや、あれは速効性のはずだ」
 伊吹が呟く。
「例のトリカブト殺人事件ではそれが争点だったんだからな」

 Kが主張したアリバイとは、妻が死亡した数時間前に彼は単身で東京に向かっていたというものだった。トリカブトは速効性があるため、数時間後に急死することはありえないというのである。
 
「結局フグ毒を合わせることで時間操作が可能になったんだとか、そういう話だったと思うがな」
「フグは遅効性なんですか?」
「多分そうなんだろうな」
 伊吹は頷きながら報告に目を落とし、ある一点で視線を止めた。
 救急車に同乗していた医師。K大病院外科勤務医、桐生千影。
 
 
  12
  
 警察が到着し、一気にホールの空気は慌ただしいものになった。舞台の上にいる者たちは楽屋に帰るわけにもいかず、座り込んで警察の質問に答えている。観客たちはどちらかというと手持ち無沙汰で、自席に着いたまま周りの者とぼそぼそ会話をしていた。
「で、思い出せた?」
 草摩は絵音の問いに首をひねった。さっき声を掛けてきた女性のことである。
「それが、まだ……学校で見たような気もするし……先輩かなあ……」
 辺りを見回してみても見当たらない。一体どこに行ってしまったのだろうか。
「倒れた人……大丈夫かしら」
「さあ」
 草摩は眉を顰める。
「分かんないな。事故なのか故意なのか、原因は何なのか……」
「ようは何も分からないってことよね」
「情報がなさ過ぎるからね」
 草摩は背もたれから体を起こして軽く伸びをした。
「しっかし、とんでもないところに出くわしたよなあ」
 絵音は自分の髪の先を弄りながら呟く。
「こんなんじゃ、なっちゃんと夕飯一緒って訳にもいかないわね」
「え?」
「ごめん。独り言よ」
 気になりつつも口をつぐんだとき、
「草摩君?」
 聞き覚えのある声が背後からして、草摩は立ち上がった。目に入った人影に驚きの声が上がる。
「い、伊吹さん?」
「やはりな。桐生君の名前があったから君もいるんじゃないかと」
 トレンチコートを着こなすいかにも刑事風な男に、絵音は驚いて草摩と見比べた。
「知り合い?」
「親父のことでお世話になったんだ」
「別に世話なんぞ……」
「そういえば」
 草摩は居住まいを正して頭を下げた。
「昇進おめでとうございます」
「いや」
 伊吹は苦笑した。
「どちらかというとN県警にあのまま置いておきたくなかったんだろう。ていのいい厄介払いさ」
「で」
 草摩は表情を改める。
「倒れた方の様子はどうなんですか?」
「……分からない」
「原因は?」
「今すぐここで言う訳にはいかない。捜査してみないことには」
「では一つだけ」
 草摩はゆっくりと尋ねた。
「警察の見立てでは故意犯ですか。事故ですか」
「…………」
 伊吹は唾を飲んだ。
「……事故という可能性もなくはない。だが」
 囁くように呟く。
「小さいだろうね」
「…………」
 言葉をなくす二人の目の前で、伊吹の携帯が着信を告げる。
「私だ」
 それは病院に詰めていた捜査員からの電話だった。声音でいい知らせではないと直感する。
『たった今、冴木百合子が死亡しました』
「……分かった。ありがとう」
 伊吹は手短に言って電話を切る。
 彼の表情をじっと見つめて何かを探ろうとしているかのような草摩と絵音に、伊吹は簡単に告げた。
「被害者、死亡だ」