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プロローグ

 あなたと最後にデートに行った日のことを、わたしはまだしっかりと覚えている。
 小さな喫茶店で、あなたはコーヒーを飲みわたしは紅茶を飲んだ。
 ――いつだってそう。わたしたちは一度も同じものを飲んだことがない。例外はビールだけ……それでもあなたとわたしの好きな銘柄、違っていた。
 あなたのコーヒーの上に白いマーブル模様が描かれるのをぼうっと眺めていると、
「何を考えているの?」
 って聞かれた。
 それ、あなたの口癖なのかしら。一日に一回は必ず聞いていた。わたしが何も考えていなかったというと、あなたは苦笑した。――何も考えないのはそれほどおかしなこと? いつも何かを考えていられるほど丈夫な心を、わたしは持っていない。
「映画はどうだった?」
 見に行った映画は当時流行っていたラブストーリーで、恋人同士が病魔によって引き裂かれるという、まあ古今東西良くある題材を扱っていた。
「主役の男の子の演技が、上手かった」
「……映画見ている最中にそういうこと思う?」
 あなたは何故か眉を顰める。
「じゃあ、あなたは何を考えているの?」
「演技とか考えちゃうと没頭できないし。ストーリーとか心情を追ってる」
「難しいことをするのね」
 わたしは微笑んだけれど、それをあなたに伝染させることはできなかった。あなたは真顔で聞き返す。
「難しいかな」
「難しい。とっても」
「どうして?」
「自分以外の人間に、そう簡単になってしまえるなんて」
「映画とか小説ってそのためのものじゃないの?」
「そうかもしれない。でも」
 わたしは目を細めた。
「わたしは神様を体験するの」
「神様を?」
「そう」
 目の前で繰り広げられている喜劇も悲劇も惨劇も、全ては遠い世界の話。きっと神様は、地上を眺めてこんな思いを味わっているに違いない。
 ――不意に、あなたは私の名前を呼んだ。
「なあに?」
「聞いてほしいことがあるんだ」
「何でも言って」
 今のわたしはあなたの話を聞くモードなのだから。
 わたしの笑みから目をそらし、あなたは言った。
「……別れて欲しい」
「…………」
 わたしは軽く首をかしげた。
「どうして?」
「おれには君を理解できない」
 わたしの唇から笑いが迸った。あなたはぎょっとしたようにわたしを見つめる。
 ――だって、これが笑わずにいられる? あなたはわたしを理解しようとしていたのね。どうして、どうしてそんなこと。
「何がおかしいんだよ」
 あなたの気色ばんだ顔に、さらに笑いが零れる。いつの間にか店員もこちらを凝視していた。何て格好の悪い。それでも笑いが止まらない。
 
 わたしはあなたに理解して欲しくなんてない。そのつもりで付き合っていたんじゃないのよ。
 わたしはあなたが欲しかった。
 あなたにもわたしを欲しがってもらいたかった。
 ただそれだけ。
 理解しあおうとあなたが試みていたなんて、わたし全然知らなかった。
 
「そんなことで別れる必要なんてないわ」
 わたしは笑いながら言う。
「理解しなくたっていいもの」
「おれは」
 あなたは生真面目な表情を崩さない。
「理解できない人を心底好きにはなれない」
「あなたは自分を理解しているの? 親も? 友達も? もし理解していると思っているんだとしたら、傲慢よ」
「……言い方を変えるよ」
 あなたはため息をついた。
「自分を理解させようとしてくれる……そういう人。ポーズでもいいから、そうしておれを受け入れようとしてくれる。そういう」
 あなたは目を伏せ、コーヒーを一口。わたしは笑い声を止めてあなたをじっと見た。
「あなたはわたしを好きになれなかった?」
「……そう」
「わたしのことがわからなくて?」
「わからせようとしてくれなくて、だ」
「…………」
 わたしには彼の言っていることがわからない。
「とにかくもう……、終わりだよ」
「わたしはまだあなたが好きでも?」
「通じ合わない好意には意味なんてないだろ」
 残っていたコーヒーを全て飲み干し、あなたは時計を見た。
「まだ六時だけど……家まで送ろうか?」
 わたしは目の前の紅茶が彼を求めて細かく震えているのに気付いた。カップを握るわたしの指まで揺れている。
 ――そしてまた、彼は私の名前を呼んだ。
「どうした?」
「うるさい」
 まだ少し湯気の立っていた紅茶は彼の顔面に熱いキスの雨を降らせ、わたしは叫び声をあげた彼をそのままにしてその喫茶店を出た。
 
 どうしてうまくいかなかったのかしら。わたしはあなたが好きなのに。
 あなたにはわたしが必要なかったの?
 それでもわたしにはあなたが必要なの。
 
 ――だけど。
 生きていることは、
 必要じゃないかもしれない。