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第四章 黒い迷宮―missing GOD― 5

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「草摩君は東慧一から聞いたかもしれませんが……『オリーブの恵』の教祖は東慧一の甥にあたります」
「甥? いやそんなはずは……」
 困惑する来生を桐生は視線で制し、
「ええ、分かっています。戸籍上は存在していません。まず緋宮響ですが、これは東慧一の異母妹にあたります。いわゆる父親の愛人の子供で、認知もされていなかったようですね。調べてみてください」
「そんな……、知らなかった……」
 ぽつりと友早が呟いた。桐生は話を進めていく。
「それで、その緋宮響のお子さんが今回亡くなった教祖です。名前は僕も知りません。ともかく、その教祖はどうやら出生届すら出されていなかったようですね。父親は誰だか分からないようですが、おそらく北欧系の方でしょうね。プラチナブロンドの髪でしたから」
「それと、父さんが……どうして?」
 桐生は友早をちらりと見た。
「発端は数年前……、戸籍なしで子供を育てるなんて尋常なことじゃありませんから、いろいろなことに困った緋宮が東慧一に助けを求めたそうです。頼れる唯一の肉親だったのでしょう」
「で、それを叔父さんは援助した……」
 草摩の言葉に頷く。
「どういうわけかは知りませんが、その教祖に随分傾倒したようですね。彼らが宗教法人を作る時も随分援助したとか」
 ――彼に教えられたんだ。
 草摩の脳裏に彼の言葉が蘇る。
 ――私が一騎を憎んでいると……。
「一騎さんとの間に亀裂が入り出したのはその頃のようです。経緯は詳しく知りませんが、一騎さんはああいう宗教があまり好きではなかったし、教団の脱会を認めない姿勢に反発していたんです。そうこうしているうちに教団の一部の信徒たちによって脱会した信者を拉致したり、さらには殺害したりということが起き始めました。さすがに社会現象になって警察も放っておけなくなったんですが、なかなか具体的に動き出しませんでした。慧一さんが手を尽くして圧力をかけていたようですね」
「信者の拉致や殺害に、教祖は関わっていたんですか?」
 来生の質問に、桐生は頷いた。
「ええ。来生警部や伊吹警部さんはご存知でしょうが、僕は二週間前――つまり一騎さんが亡くなってすぐ教祖に会っています。本当は一騎さんが会いに行く手はずだったようです。教祖は彼との面会を了承していた。もしかしたらそのことが原因で、慧一さんが一騎さんの殺害を思い立ったのかもしれません。それはともかく、彼に会ったときに聞いたらあっさりと認めましたよ」
 ――僕が専制君主として君臨すること。叔父も母もそれを望んでいる。だから僕はその通り振舞っているのですよ。
 教祖はそう言っていたのだという。草摩は鳥肌が立った。
「じゃあ、父さんの事件は……」
「それは多分、違います。教祖は関わっていないと言っていました。そんなところで嘘をついても仕方ありませんし……でも、勿論証拠はありません」
 桐生はちらりと草摩を見て、
「東慧一が犯行に信者の手を借りたのは事実のようです。教団を守るためだとか何とか言ったんじゃないかと思いますけど」
 佳世は黙って聞いている。――彼女は夫と兄の間で板ばさみになった時期もあったのかもしれない。草摩は思った。叔母さんは今、一体どんな思いの中にいるのだろう……。
「その、東慧一に手を貸した信者の割り出しは、多分警察のほうでも進んでいると思います。そうですね?」
 桐生が確認するように来生に尋ねると、彼は頷いた。
「管轄外のことで詳しくはありませんけど、そのように聞いています。そろそろ任意聴取の段階だと思いますが、今回その件の主犯格である東慧一がこのようなことになって……、多分口を割るのもそう遠いことはないでしょうね」
「さて、そろそろ話を今回の件に進めますね」
 桐生は穏やかな、それでいて決然とした声で言った。
「一騎さんが亡くなってから僕は教団絡みの件でいろいろ動いて……、そのうち教団に東慧一が関係していることがわかりました。彼が教祖に心酔していることも教祖自身の口から聞きましたし」
 そして桐生は草摩に視線を向けた。
「しばらくして、僕は身辺に穏やかならぬものを感じるようになりました。草摩君に類を及ぼすようになってはいけませんから、早く決着をつけたいと思って……、今回東慧一にお招きいただいたときも、ちょっと怪しいなとは思ったんですが、逆に全てにケリをつけるチャンスになるかもしれないとも考えました。それで、それなりの用意はしていったんです」
「それなりの用意とは……?」
 伊吹が尋ねる。桐生は済ました顔で言った。
「勤めている病院からラテックスの手袋を拝借しました。指紋を残さずに、しかも指先を器用に操れます」
「……なるほど」
「それと、ちょっとした薬品。それなりに手に入りやすい立場にありますからね、僕は。それは東慧一も同じだったんでしょうが……」
 桐生は口を切り、軽く首を横に振った。
「いえ、実際東慧一が毒物を使うなら青酸カリか砒素かなと思っていたんですよ。メジャーですし、立場を利用すれば何とかなりそうなものです」
「でも、どうして水差しの中に青酸カリがあるって分かったんだ?」
 草摩の疑問に、桐生は微笑んで見せた。
「青酸カリにはね、独特の匂いがあるんです」
「匂い?」
「ええ。僕の趣味で、そういうのにも結構詳しいので。それに、東慧一が僕を北の部屋に案内したことには気付いていました。佳世さんがヒントを下さいましたよね」
 桐生は言葉を切り、草摩と眞由美、友早を見た。友早がはっとする。
「あの、陰陽五行の話……」
「そう。色と方角の位置関係について話して頂きました。だから、僕はあのトリックに気付けたんだと思います。……それから後は草摩君が話してくれた通りですよ。水の中に青酸が溶けていることに気付いたので、僕はそれを利用することにした。つまり、死んだふりをした訳です」
「何故すぐに警察に通報してくださらなかったのです?」
 問い詰めるような伊吹の言葉に、桐生は淡い苦笑を浮かべた。
「東慧一がやったという証拠がありませんよ」
「でもライトの色のトリックは……?」
「別荘に入ったときスイッチを間違えて点けてしまった、とか酔っていて気付けなかった、とか言えばどうします? 県警本部長である彼を本当に厳しく取調べできましたか?」
「でも……、でも青酸カリは?」
「慧一さんが入れたという証拠はない。そうでしょう? 彼が青酸カリを保持していたという証拠がなければどうしようもありませんし、そんな不手際をしでかす人でもないでしょう。それに、どちらにせよ彼と教団の方の繋がりは見えて来なかったはずです」
「…………」
 伊吹は沈黙して来生を見遣った。来生は桐生を見据えて言う。
「それだけではなかったのではありませんか?」
「どういうことです?」
 桐生の笑みが一瞬、さざなみのように揺れた。
「貴方は……どういう理由でかは知りませんが、七条さんに恩義だか何だか――そのような感情を抱いていた。だから、彼の仇を討とうと思った……」
「…………」
 桐生は肩をすくめる。日本人でこの仕草が似合うものは少ないが、彼は間違いなく少数派に属していた。
「それはあくまでも推測でしょう? 証拠のある話ではありませんね」
「否定しないのですか?」
「今ここでそういう理由をつけて何になります? 僕が一騎さんから教団絡みの調査を引き継いだのは事実ですし、草摩君を引き取ったのも事実です。ですが、それらの行動に今更理由付けしてもどうにもなりません。僕の今回の行動の結果、教祖と東慧一が亡くなられたことは動かしようがありませんし、それをどう意味付けしたところで変わらないでしょう」
 草摩ははっと顔を上げた。桐生の言葉とあの時の慧一の言葉――不思議と似ている気がした。
 伊吹はため息をつく。
「……分かりました。では、昨日の貴方の行動について聞かせてもらいましょうか」
「そうですね」
 桐生は耳と眼の間の輪郭に沿って指を動かしてふとそれを止めた。苦笑が浮かんだのは、つい眼鏡をかけているような気分で眼鏡のつるを押し上げようとしたからだろう。
「部屋を出たのは、東慧一と草摩君がいなくなってすぐです。部屋を出る前に血痕と絆創膏の工作はしましたがね。その後は先ほども言いましたように二階の白の部屋にお邪魔して、佳世さんにマスターキィをお借りしました。そして、辰巳さんが見張っていた北側の正面玄関ではなく、駐車場に面した南玄関から出たんですが、その時にはもう一時を過ぎていましたか……」
 思い出すように目を細め、桐生は言葉を紡ぐ。
「それから、僕はまず車のナンバープレートを偽装することから始めました。ああいうものって割合簡単にインターネットで手に入りますから、一つ用意して行ったんです」
「それは犯罪……」
 伊吹が思わず口を挟みかけるが、
「立件なさるんですか?」
 逆に反問され、伊吹は先ほどよりさらに深いため息をついた。
「いえ、それどころじゃ……」
「それは良かった」
「わざとだろ、お前」
 桐生の足を靴の上から軽く蹴飛ばし、草摩は呟く。桐生は頷くでもなく曖昧に微笑した。
「警察の方が来る前に、えっと、道路沿いの二十四時間営業のコンビニの駐車場に車を止めて。朝までそこで寝てました」
「寝てた?!」
 その場に居た警察官四人が声を揃える。桐生はびっくりしたように一瞬目を見開いたが、やがて微苦笑を浮かべた。
「ええ。……だって、その前の日は長時間車を運転したし、疲れていたんですよ」
「…………」
 桐生と草摩以外の人間は、思わず互いに顔を見合わせた。殺されかけた後でぐっすり睡眠をとる、その神経が良く分からない。
 草摩は思わず額に手を当てた。相変わらず感覚のずれた男だ。
「起きたのが、八時過ぎくらいでした」
「よく寝られたんですね」
 来生が嫌味な口調で言うが、桐生は笑って聞き流した。
「ええ、僕どこでも寝られますから。そのあとこっそりロザリオ館の近くに戻り、屋敷の北側へと荷物を放り出しておきました」
「教団のほうに向かったのはいつ頃です?」
 伊吹が改めて尋ねた。
「まず教祖の携帯電話に電話しました。着信記録を確かめていただければ分かるでしょう」
「ええ」
「東慧一に自分が殺されかけたことを説明しました。僕の殺害に失敗したと聞いた時点で、教祖には全てすぐに分かったようです。彼は一種の天才だったのだと思いますよ」
「…………」
 皆黙って耳を傾けた。
「昨日はたまたま教祖の説話……っていうのかな、よく分かりませんが、そういう行事は午前中にしかなくて、午後からは彼はずっと自室にいると言っていました。それで、僕が少しお話したいと言ったら了解してくださったんです。それで、門のところには信者が見張っていて僕は通れませんから、敷地の周りを囲んでいる金網を上って中に入りました」
「不法侵入……」
 伊吹はぽつりと呟きかけたが、やがて口を閉ざした。言っても無駄だと思ったのかもしれない。
「後は、信者の眼を盗んで教祖の部屋を訪ねたというわけです」
「中ではどんな会話を?」
 桐生は少し思い出すように目を細めて天井を見遣った。
「そうですね……彼は元々自分の生命に執着していなかったようです。病弱だったということもあるでしょうし、とても変わった感覚の持ち主で……」
「青酸カリは貴方が渡したのですか?」
 来生は鋭い声で尋ねた。
 さすがにその行動は自殺幇助罪に問われる。草摩は息を呑んで傍の桐生の表情を窺った。しかし桐生はそんな緊張感とは無縁に、ただ首を横に振っただけだった。
「別に、僕は彼に何の恨みもありませんよ。確かに彼は教団の脱走者の拉致や殺害、リンチを指示したと言っていましたが、それを裁くのは僕の仕事ではありません」
「では一体誰が?」
 追求を緩めない来生に、桐生は微笑を浮かべた。
「さあ……、とにかく、僕は知りません。青酸カリを渡してもいませんし、飲ませてもいない」
「本当ですか?」
「随分僕を疑われているんですね? 来生警部」
 桐生は苦笑してポケットから複数の紙切れを取り出した。
「すみませんが、教祖の死亡推定時刻はいつですか?」
「……午後四時から五時の間と言われています」
「携帯電話の……僕からの着信記録は何時まででした?」
「……午後一時です」
「僕はその後すぐに彼の元を訪れました。訪れる前に近くのスーパーで買い物をしました。それがそのときのレシートです」
「…………」
 来生と伊吹は顔を突き合せるようにそれを覗き込んだ。時刻は十三時三分。買ったのは菓子パンと缶コーヒーだ。
「それが昨日の僕の昼食だったんですよ」
「しかし」
「教祖の講話が終わったのは正午ちょうどで、それは緋宮響がよく知っているはずです。教祖が昼食を取ったのは正午と十二時半の間、それも世話係の信者さんが証言するでしょう。彼女が皿を下げにきたのがその時刻だと、教祖に聞きましたからね」
「…………」
 来生はしぶしぶ頷く。昨日の午後六時までの教団側関係者の行動は既に洗い出し済みだった。
「だから、僕が彼に会いに行ったのはその後です。ちなみにトランプを置いたのもそのときです。教祖は僕が来た形跡を残すことに何も言いませんでした」
「ああ」
「それで彼の元を辞したのがちょうど三時。二時間一緒にいたんですね」
 そう言いながら桐生は次のレシートを出す。
「またお腹が減ったので、今度は喫茶店で軽食を取ったんです。これは少々遠出しましたよ。僕のことを聞き込みに来られている警察の方がいらっしゃっていたら困りますからね。で、これがその時のもので」
「…………」
「オーダーの時刻と、清算の時刻が書いてあるでしょう?」
 来生が頷き、伊吹が読み上げる。
「オーダーが三時四十五分……清算が四時半」
「ちなみに喫茶店の位置ですが、教団本部から四十分ほど車で行ったところです。つまり、物理的に僕が彼を直接殺すのは不可能ですね。確かめたかったら確かめてください」
「確かめますが……」
 来生は苦笑した。
「多分何も出てこないのでしょうね」
「しかし」
 伊吹はじろじろと桐生を眺めた。
「アリバイ作りのためにこんな行動を?」
「まさか、偶然ですよ」
「…………」
 たぶん今、彼は嘘をついている。彼はこんなにもうまく、嘘をつく。そのことが、草摩は少し辛かった。
 伊吹が先を促した。
「それで? 今度深夜十二時頃貴方はここに現れましたが、それまで何をしていたんです?」
「ロザリオ館の近くまで車を走らせて、一度佳世さんを携帯電話で呼び出してお話をしました」
「いつ頃です?」
「佳世さんが夕食の支度をなさっている最中でしたから……」
「六時半頃ですわ」
 佳世がぽつりと呟いた。
「そうそう、その頃です。それでトランプを渡して」
「教祖の死亡が確認されたのもその頃……か」
「ええ。その話は佳世さんから聞きました。だから、草摩君が真相に気付くのも遠くはないなと思っていたんですが」
「俺が?」
 草摩が驚いた声を出した。
「何で俺だって思ったんだ?」
「…………」
 桐生は優しい顔で微笑する。今までで一番飾り気のない透明な、それでいて穏やかな微笑みだった。
「貴方だったらきっと、僕を死んだとは思わず探してくれると思ったんですよ。僕が死んでいないという仮定のもとでだったら、不思議なことなんて何もないでしょう?」
「誰もお前が死んだふりするとは思わなかったからな。でなかったらもうちょっと早く分かっていたかもしれないのに」
 草摩が口を尖らせて文句を言う。
「それから、僕は東慧一が帰ってくるのを待っていました。彼と話をするか、それとも……とにかく彼がどういう行動に出るか分かりませんでしたので……」
「そうか……、彼だけは桐生さんが死んでいないことを知っていたわけだ」
 伊吹が言うと、桐生は頷く。
「そういうことです。ただ、草摩君が真相に気付いて、それを東慧一が知った時が危ないと思ったので、草摩君の部屋が見える位置にはいました。これまたコンビニで調達した夜食を食べ、トイレもないから行きたくなったらコンビニまで車で走って。結構大変だったんですからね」
 最後の台詞は草摩に向けられているようだ。
「それで、東慧一が帰ってきて……、草摩君の窓に人影が映ったのですぐ分かりました。何か言い争うような気配も感じられましたし。車から出てもっとよく見えるところまで移動したら、窓が開いて、草摩君の首を東慧一が締めているじゃありませんか。中に入って二階に上がるにも時間がないし、で飛び下りてもらった訳です」
 一気に喋り終えると、桐生は傍の草摩の肩をそっとさすった。草摩は驚いて尋ねる。
「何?」
「いや……貴方が無事で良かったなって」
「何だよ、今更」
 照れくさくなって草摩は顔を背けた。桐生はその肩から手を外すことなく、警部たちに向き直った。
「さて、何かご質問はありますか?」
「話を蒸し返すようですが、教祖の青酸カリのことです」
「ええ」
 桐生は屈託なく頷いた。
「自殺幇助ではないという証明はできないわけですね?」
「できません」
「…………」
 あまりにはっきりと言われ、来生は沈黙した。かといって、自殺幇助であるという証拠も存在していない。代わって伊吹が口を開く。
「東慧一が七条一騎を殺した、動機は何なんでしょう?」
 思わず草摩は体を固くする。恐らく本人から動機――もしくはその代わりになるものを聞いたのは自分だけだろう。
 桐生は草摩の横顔を見つめていたが、やがて眼をそらした。
「それは僕も知りません。本人が亡くなった以上、確かめようもありませんね。でも方法なら分かります」
「え……?」
「信者の一人にスタンガンを持って一騎さんにぶつからせた。腹部に鈍痛を覚えた一騎さんが蹲ったところへ、東慧一は介抱するふりをしてナイフを刺したんです」
「え?!」
 それはあまりに大胆な手口だ。驚愕に顔を染める一同には構わず、桐生は言う。
「でも、動機は分からないですね」
 ちらりと視線を向けられた佳世もまた、
「私も存じません」
 と言った。
「慧一さんが兄を殺したいと思っていたなんて、私は気付きませんでした。……教祖とのことも知りませんでしたが……」
 佳世は寂しげな表情になった。
「でも、今更知ってどうなるものでも……」
「緋宮に事情聴取することくらいしかできないね」
 来生は肩をすくめて伊吹を見遣った。
「あと彼のパソコンとか、そういったものを押収して」
「……ああ」
 伊吹は頷いた。――何をどうしようと、慧一の心情など理解できないだろうと思った。また、理解できないからこそ、伊吹は殺人を認めることは出来ないのだ。
「じゃあ、私どもはこれで。いったん県警の方に戻ります」
 目を見合わせた来生がそう言って部屋を出ていくのを見送り、遅れて立ち上がった伊吹はもう一度草摩と桐生に視線を向けた。
 草摩は深く俯いたまま。桐生はその背にそっと手を触れさせていた。伊吹は黙って二人に一礼し、さらに佳世に向かっても礼をした。皆何も口を開かない。辰巳と島原もまた立ち上がる。
「…………」
 伊吹は少しためらった後、草摩に声を掛けた。
「草摩君」
「…………」
 草摩は無言で眼を上げた。
「……ありがとう」
 何に対しての礼なのか、自分でも良く分からない。だが、草摩はゆっくりと頷いた。伊吹もまた頷き返し、皆のついているテーブルに背を向けた。
「――ありがとうございました」
 部屋を出る寸前、草摩の声が彼の背に届いた。