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第四章 黒い迷宮―missing GOD― 4

  4

 食卓には九人が座っていた。一昨日の夕食時より一人多い。一人減って二人増えた勘定だ。
 座り方はこの前と変わっていないが、一昨日慧一が座っていた席には伊吹が腰掛け、その横に佳世との間に割り込ませるように置かれた椅子には、草摩の知らない男が座っていた。草摩の視線に気付いたのか、腰を浮かせて一礼する。
「来生です。よろしく」
「彼は『オリーブの恵』教祖の死亡事件を扱っている警部です」
 伊吹が補足した。
 佳世の目は真っ赤になっているが卓上に並ぶ料理に、手は抜かれていなかった。その横に座る友早は下を向いて押し黙っている。
 気まずい雰囲気の中、伊吹が口を開いた。
「まずは少し腹ごしらえをして、その後話をしていただきましょう」
「僕が消えた夜に起こったことなら、きっと草摩君がうまく説明できますよ」
 黙っていた桐生が伊吹にそう告げる。眼鏡を掛けていないせいか、隠れていた昏い眼光が剥き出しになっているように感じられた。
「なんで俺なんだよ」
 草摩は慌ててテーブルの下で桐生の肘をつつく。草摩に向けられるとき、桐生の眼差しが少し柔らかなものに変わることに伊吹は気付いた。
「君が分からないところは僕が補足します。君が分かっていないところなら、きっと警部さんたちも分かっていない部分でしょうから」
「過大評価だって」
「いや、私も桐生さんに同意見だ。しかし、まずは朝食をいただこうか」
 伊吹も頷いて見せ、率先して箸を取った。
「いただきます」
 佳世は軽く頷いて自身も皿を引き寄せる。
 静かな食堂の中、食事は淡々と進み淡々と終わった。皆が食べ終わったのをみてとった佳世が片付けを始めようとするのを、来生が止めた。
「それは後で結構ですよ」
「でも」
「貴方も関係者ですから」
「…………」
 佳世はもう一度座りなおした。
「さて、始めようか」
 伊吹の言葉と共に視線が一斉に草摩と、その横に座る桐生の元に集まる。居心地の悪さを感じて草摩が横目で桐生を窺うと、彼は相変わらずのマイペースで食後の茶を啜っていた。
「…………」
 ため息を漏らし、草摩は気持ちを切り替えた。
「えっと……、じゃああの夜に起こったことだけを説明します」
「ああ」
 伊吹が軽く頷く。草摩は伏せ目がちに、呟くように語り始めた。
「まず――桐生の部屋の水。いえ、正確には桐生の部屋ではなくて黒の廊下の部屋の水ですね。そこには致死量の毒薬が入れられていました。入れたのは叔父さんです。食事後、皆がまだ一階にいて彼だけが二階に上がっていた時がありましたよね。三階のセッティングをしたのは多分そのときでしょう」
「セッティング?」
 来生が尋ねる。草摩は頷いた。
「ライトを切り替えて、北の廊下を青にした。それから東の廊下を……何色にしていたのかは覚えていないですが、とりあえず西の廊下はちゃんと赤にしていたとは思います。眞由美さんの部屋がありますからね」
 眞由美が深い吐息を漏らした。
「それで、三階に泊まるはずの眞由美さんと桐生の案内役を買って出るために待っていたんでしょう」
「階段は四ヶ所あるが、どうしてどれで上ってくるのか分かったのかな?」
「…………」
 草摩は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに口を開いた。
「多分……佳世さんは自分の部屋に近い白の廊下側の階段を使うのが癖だったんじゃないですか?」
「……そうね」
 佳世は力なく同意した。
「友早もそうだっただろうし……。あ、ということは廊下の色は青と黒を入れ替えただけだったんでしょう」
「……ふむ」
「それで、眞由美さんを赤の部屋へ誘導し、桐生を北の部屋に連れて行った」
「そうです」
 桐生は頷いた。
「……気付いていて付いていったんですか?」
 伊吹の問いに桐生は苦笑する。
「それは後でまとめて僕がお話します。ともかく、今は起こったことの確認を」
「…………」
 伊吹は軽く肩をすくめ、草摩が再び口を開いた。
「それが九時半過ぎ。叔父さんは桐生を部屋に連れていった後一階に戻りました。部屋に入ってから二、三時間経つうちには水を口にしている可能性が高い。だから、とにかくそれまでの時間はアリバイを作っておく必要があったわけです」
 草摩は淡々と言葉を紡ぐ。意識的に感情を殺ぎ落としているような声音だった。
「ただし、叔父さんは朝になるまでに誰か証人を作っておかなければなりませんでした」
「証人?」
「桐生が青の、東向きの廊下の部屋で死んでいたということの証人です。そうしたら捜査はもっぱらそちらに目を向けるでしょう。自分がO府警の本部長だから、警察はある程度自分に気を遣うだろうという読みもあったでしょうね。少なくともすぐに北向きの廊下には手が入らない。そのうち毒薬入りの水も処理できるかもしれない。実際、あの部屋が開けられたのは事件後それなりに時間が経ってからでした」
「…………」
 伊吹は苦い表情で頷いた。
 結局捜査の手を全館に拡大したのは事件から半日以上経過した後であったし、そのきっかけを作ったのは草摩だった。三階の黒の部屋に血痕が残っていたのが分かったのも、草摩がその部屋を調べるよう働きかけたからである。
「で、俺に声を掛けたわけですね。多分、俺があの部屋で気を失った時なんですけど……」
 草摩が桐生にちらりと目を向けた。桐生は軽く頷く。
「何かの薬物でしょうね。匂いが少し漂ってきました」
「で、俺を気絶させておいて廊下のライトを元に戻した。それから俺を叔母さんのところに運んだわけです」
「桐生さんは?」
 来生が尋ねたのは桐生にだったが、答えたのは草摩だった。
「……さあ、どさくさに紛れて外に出たってことは確かですけど。その辺は後で本人に」
 草摩はまたちらりと桐生を窺う。
「チェーンをかけておいたのは中に入ってこられないため。死んでいるかどうかを確かめられたら都合が悪いですからね」
「慧一さんも焦ったでしょうね」
 特別感情を見せることもなく桐生はそう言った。
「多分……焦ったと思う。それならそれで失踪に見せかけようと思ったのかもしれません。ほとぼりがさめてから死体を動かそうと思ったのかもしれない。チェーンも切って……あれ、切ろうと思えば切れないことはないですよね。普通じゃ無理でしょうけど、工具でも使えば」
「うーん……」
 伊吹は唸った。
「それから後の動きは皆さんが知っている通り。眞由美さんの部屋の水には、起きてこないように睡眠薬が入れられていたんじゃないかな。辰巳さんや島原さんをここに招待したのも警察官の証言で有効性が高いと思ったのかもしれませんね」
「ちょっと待って。眞由美さんの部屋の水からは何も検出されなかっただろう?」
 伊吹の言葉に、草摩は首を横に振った。
「覚えていますか。伊吹さんと俺がその話をしていて、一体誰が検査を要求しに出かけていったのか」
「……あ」
 伊吹はつぶやく。
「本部長だったか」
 検査に出す水を入れ替えるなど、彼にとっては簡単なことだっただろう。
「ええ。あれで何も出てこなかったから、俺はかえって叔父さんが疑わしいと思った」
「でも結局睡眠薬が入っていたかどうか、決定的な証拠はないだろう?」
「状況的にそうだっただろうなあと想像するだけですよ。もしかしたら今後裏付ける何かが出てくるかもしれないけど」
「そこまでのことは桐生さんから聞かないで分かったのかい?」
 来生に尋ねられ、草摩は頷いた。
「どうやって分かった?」
「…………」
 草摩は少し考えてから口を開いた。
「桐生は死んでない……とは思っていました」
「何故?」
「そう思いたかったから。それだけです」
 静かに微笑んで続きを口にする。
「おかしいなと思ったのは、叔父さんが桐生と眞由美さんと部屋に案内したって聞いた時」
「何がおかしいと?」
「叔父さんが後で俺に言った通りに桐生と話がしたかったら、その時にいくらでも話せたはずです。何も夜遅く、十二時近くになってそんなこと、常識的に考えて変でしょう? 二人が話をするのに俺がどうしても必要だったとは思えないし、もしそうなら桐生に言って俺を呼ばせるか自分で呼ぶかすれば良かったんですよ。その不自然さが気になりました。あと血痕。あの黒の部屋のやつです。絆創膏も、家のものだったからきっと桐生はここに来たんだと分かりました。多分あれはヒントのつもりでこいつがわざと置いて行ったんでしょう」
「ええ。指先を少し切って血を出しておきました。血を吐いたように見せかけたときもそれを使って」
 桐生はそう言って右手を差し出して見せた。彼は左利きだから、右手を切りつけたのだろう。割合大きな絆創膏がべったりと貼ってあった。
「そういうことです。まあ、そのときは気付かなかったけど……」
 草摩は軽く桐生を睨んだ。
「最終的にはトランプですね。廊下のライトの仕組みに気付いてから。それも桐生がやったんでしょう」
「つまり教祖の元を最後に訪れたもの……」
「ええ」
「じゃあ、あのトランプを廊下に置いたのって桐生さん? ここに戻ってきてたのか?」
 友早の疑問に草摩は首を横に振った。
「いや、アイディアはこいつだと思うけど、置いたのは桐生じゃない」
「何?」
 伊吹が驚きの声を上げる。草摩は澄ました顔で言った。
「いくら何でも危険過ぎますよ。目撃される可能性が大きい」
「じゃあ、誰が……」
 来生が呟く。
「考えてください。桐生はどうやってこの館の外に出たんです? 辰巳さんが朝まで玄関にいたのに」
「……確かに」
 草摩はちょうど向かいに座っている佳世をじっと見つめた。
「叔母さんが、桐生の協力者だったんですね」
「…………?!」
 驚愕が場を走り抜ける。友早は椅子から腰を浮かせていた。
「それ……どういう意味だよ?!」
「聞いたままの意味よ」
 佳世は落ち着き払って息子を見つめた。
「慧一さんが死ぬことになるとは思わなかったけれど……、でもね、彼のしたことを見過ごしにはできなかった」
「じゃあマスターキイを……」
 伊吹の質問にも頷いて答える。
「ええ、お貸ししました」
「それはいつの間に……?」
 そういえば彼女のマスターキイはきちんと見せてもらおうとはしなかった。一番犯人であり得ないと思われた人物だったからだ。確かに犯人ではなかった、しかし……。
「俺が倒れて佳世さんの部屋にいたときでしょう。叔父さんが辰巳さんと島原さんを起こしに行っていた時。三十分近くあの部屋には誰も行きませんでしたからね」
「なるほど……」
 草摩の説明を聞いて辰巳は頷く。
「確かにそうだ。僕は一階の玄関の前を見張っていたけど、島原巡査は警察との連絡に忙しかったし」
「ええ。多分その間叔父さんは一度三階に戻ったんだと思いますよ。本来は桐生の死体を何とかするつもりだったんでしょうが」
「僕の体は蒸発していたってわけですね」
 桐生はこの場には似つかわしくないほど、屈託のない笑みを浮かべた。
「草摩君のおっしゃる通り、あの後僕は佳世さんの元を訪れました。簡単にですけど一騎さんの死について説明して、先ほども慧一さんに殺されかけたことを言って協力をお願いしたんです。だから草摩君の部屋の前にトランプを置いたのも佳世さん。草摩君には置くところを気付かれなかったようですから、うまくやってくださったようですね。ああ、それと……」
 桐生は言葉を区切って草摩のほうをちらりと見た。
「草摩君が吸い込んだの、妙な薬品じゃないとは思ったんですけど高濃度だと体に良くないですし、ちょっと心配だったのでね。そういうこともあって、僕は草摩君の運ばれた部屋に行ったんです」
 草摩はあのとき見た夢を思い出す。もしかして、桐生は本当にあの時俺の手を握ったのかもしれない。元はと言えばあの感触があまりにもリアルで、俺は桐生の死が信じられなかった……。
「マスターキイを考慮すれば、その後の桐生氏の行動はわかりやすい」
「ええ。必要最低限以外の荷物を北に放り出しておいたのも、桐生なりのヒントのつもりだったんでしょう。俺たちの目を北に向けさせるため。黒の部屋を探させて、血痕のヒントを見つけさせるためですね」
「逆に撹乱されたような気もしたが、なるほどそういうことだったわけか……」
 伊吹はしみじみとため息をつく。
「俺に話せることはこれだけです。教団絡みのどうこういう事件は俺の知る範囲じゃありません」
 草摩は肩をすくめた。
「後は桐生に聞いてください」
 数多くの視線に促された桐生は軽く頷き、口を開いた。
「分かりました。それでは最初から――」