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第四章 黒い迷宮―missing GOD― 1~3

無事な空虚と深い諦が
心の奥にしみじみと平和を感じさせる或るものが
いかにも晴々とした爽やかさに満ちた清浄さと、
ただそれだけが残ってくれた……

  1

 桐生が草摩を一端玄関に残して階段を上っていくと、駆け下りていく伊吹と擦れ違った。
「桐生さん」
 伊吹は声を掛けて立ち止まった。桐生は顔を上げて伊吹を見遣る。
「東慧一が今死亡しました。自殺です」
「そうですか」
 何の感慨も見せずに桐生は頷く。その表情を窺っていた伊吹はため息をついた。
「こちらにはまだ分からないことが多々あります。貴方にもいろいろとお聞きしたいのですが」
「どこか、使っても良い部屋はありませんか?」
 桐生はそう言って伊吹の声を遮った。
「明日――ではなくて今日の朝、草摩君が目覚めてから皆さんに集まっていただいて話をしましょう。とにかく、今晩は彼を寝かせてあげたい」
「皆さんとは?」
「自分が関係者だと考えている全員です。一騎さんと東慧一には来て頂けませんが、それは仕方ないですね」
「…………」
 伊吹は桐生の顔に探るような視線を向けた。
「貴方は、最初から――」
 言いかけた言葉が耳に入らなかったふりで、桐生は歩み始める。伊吹に目を合わせることなく桐生は言った。
「三階の青の部屋。本来僕に割り当てられていた部屋ですが、そこは使ってもいいですよね。まだ誰も使っていませんし」
「…………」
 伊吹は黙って再び階段を下り始めた。彼の脳裏には一つの疑問があった。――桐生は最初からこうするつもりだったのか、と。
 慧一の殺意を悟りながらそれにかかって死んだふりをして草摩までも欺き、結果的には教祖と慧一を自殺に追い込んだ……。
「恐い男だな」
 伊吹は小さく呟いた。

  2

 一階の食堂。集まった慧一の家族を目の前に、島原は言葉に窮した。
 佳世は着替えたのであろう、スカートとブラウスを着ているが、寝起きのままの友早はジャージ姿である。島原はふと佳世の顔を見た。不安げな友早とは違い、何かを覚悟しているような決然と表情。きつく噛み締められた唇は白い。その唇が開いた。
「私は……」
 まるで睨むかのような、挑みかかるような眼が島原を見つめる。
「私は知っていました」
「…………」
「何を?」
 友早の問いに、佳世は視線をそちらに向けた。
「慧一さんはもう戻ってこない」
「え?」
「そうでしょう? 島原さん」
 島原は黙って頷いた。
「どういうことだよ?!」
 友早が声を荒げた。
「俺……全然分からないよ」
「本部長――いえ、東慧一は、ついさきほど自殺しました」
「…………!」
 友早は息を呑む。
「七条草摩殺害未遂の現行犯でしたが……」
「草摩を?! なんで?!」
「きりがないわ」
 佳世は友早の声を遮った。
「草摩君の眼が覚めたら、桐生さんか誰かが説明してくれるはずよ」
「桐生さん? あの人、無事で……?」
「ええ、無事よ。……だって、あの人に聞いて私は知ったんだもの。私の兄を、誰が殺したのか……私の夫がどういう人だったのか……」
 寂しげな微笑を浮かべる。
 友早は混乱したように眼を戸惑わせながらも口を噤んでいた。島原と息子の顔を順々に眺め、佳世はため息をついた。
「だから……、もうやめましょう。今ここで説明を始めたってきりがないもの。友早ももう寝なさい。朝になったら全部分かるから」
「母さん!」
 友早は強い口調で呼びかけた。
「母さんは、父さんを……!」
「友早!!」
 息子の言葉を最後まで聞かず、佳世は振り向いた。その眼には、涙がいっぱいに溜まっている。
「…………」
 友早は言葉を失う。島原はそっと目を逸らした。佳世はそのまま、二度と振り向くことなく食堂を出た。佳世と入れ違うように眞由美が姿を見せる。
「友早……」
 気遣うように小さな声で名を呼ぶ彼女に、友早は視線を投げた。島原は座っていた椅子から立ち上がり、二人に軽く会釈して部屋を出る。この状況で居座り続けられるほど彼女は無神経ではない。それに彼女自身まだ考えたいことが沢山あった。全ては終わってしまったかのように見えるが、その実何も明らかになっていない。
 誰がどこまでの真実を知っているのかさえも分からず――島原は軽く頭を横に振った。ひどく頭が重い。今は、彼女自身に睡眠が必要だった。

  3
 
 今、何時だろう……?
 草摩は眼を開けないまま体を九十度回転させた。途端に体の節々が痛むことに気付く。そして鼻をつく何かの匂い……。
「あ」
 小さく呟いて身を起こす。不意に、昨日までのことを思い出したのだ。首に手をやると包帯が解け掛けていて、匂いはここからしているらしい。
「桐生……桐生は?」
 慌ててベッドから飛び降りた。確かに昨夜はいたはずなのだが、この眼で見なければ安心できない。彼の存在そのものが夢なのではないかと、漠然とした不安に襲われた。
「桐生!」
「はい?」
 目の前のソファの影からのんびりとした声が聞こえた。身を起こしたのか、桐生の首から上が背もたれの上に覗く。
「おはよう、草摩君」
「お前……そこで寝てたの?」
 呆気に取られて草摩は呟いた。
「ええ、まあ」
 桐生は乱れた髪を無造作に掻き揚げながら軽く伸びをした。
「だってこの部屋、ベッド一つしかないから。セミダブルに男二人は狭いでしょう? 最初は隣で寝ようかと思ったんですけど、草摩君の寝相が悪くって散々蹴られまして、こちらに避難しました」
「そりゃ悪かったな。ていうか隣はやめろ、気持ち悪い」
「あ、やっぱり」
 桐生がいるだけであっという間に日常の感覚だ。一昨日桐生が消えてしまったことも、昨日自分自身が殺されかけたことも、全て意識の彼方へと飛んでしまう。桐生のマイペースさが問題なのだろうか……。
 部屋の扉がノックされた。
「はい」
 桐生が答えると、草摩には聞き覚えのない男の声がした。
「お目覚めですか?」
「ええ、ちょうど今。もう少ししたら階下に行きます」
「分かりました。伊吹に伝えます」
 警察関係者だろう。草摩は洗面所へ向かう。鏡に映った自分を見て、首周りの湿布に改めて気がついた。
「…………」
 桐生が貼ってくれたのだろうか。そっと剥がしてみる。その下には小さく鬱血したような痣が残っていた。ちょうど慧一の手の形に沿う様に……。
 敢えて見ないふりをして、草摩は顔を洗う。痛みはなかった。顔からしたたる滴を拭き終わった頃、桐生が背後に立った。
「首、大丈夫ですか?」
「……うん」
 少し膝をかがめ、桐生は草摩の首筋についた痣の上をそっとなぞった。
「多分すぐ治ると思いますが、後で念のため病院に行っておきましょうか」
 指を添えたまま桐生は呟く。
「本当に……すみませんでした」
「え?」
 聞き返すと、桐生は膝を曲げたまま草摩の顔を見上げた。草摩が滅多に見ないほど、真摯な表情。
「君を危ない目に遭わせてしまって……」
「それはもういいって」
「良くありませんよ」
 桐生はそう言って睫毛の長い眼を伏せた。
「死んでしまった一騎さんに義理立てして、今生きている君がどうにかなってしまうのでは何にもなりません」
 草摩は一つ、不思議に思っていたことを口に出した。
「お前、どうしてあの時死んだふりなんかしてたんだ?」
「…………」
 桐生は視線をあげない。
「それは……後にしましょう、草摩君」
「なんで?」
「どうせ後で聞かれることだからです」
 そう言って桐生は立ち上がった。そのまま、草摩と目を合わせない。
「忘れんなよ」
 草摩は洗面所から出て行きながら、背後の彼に告げた。
「もう二度と俺に嘘つかないって」
「約束しましたね。……忘れませんよ」
 草摩は深くため息をつく。言葉の上だけではいくらでも偽れると既に知っているのに、それでも桐生を信じようとしている、否、信じてしまう自分を草摩は悟っていた。全てに心を閉ざし、疑いながら生きていくことなど自分にはできない。親友に騙されるような形で死んだ一騎でさえも、それは望まないだろう。
「草摩君?」
 顔を洗い終えた桐生が声を掛ける。
「どうかしましたか?」
「いや?」
 草摩は振り向いて微笑んだ。
「腹減ったなって思って」
「ああ、それ僕もです」
 草摩の背中を軽く押して共にドアへ向かわせながら桐生は言う。
「昨日丸一日ほとんど何も食べていませんでしたからね」
「お前はもうちょっと食って肉つけろ」
「……肥れってことですか?」
「肥る……ってなあ」
 草摩は苦笑した。
「お前、長細すぎるんだよ」
 桐生は眉を顰める。
「人をネギか何かのように……」
「なんでネギ?!」
 他愛無い軽口を叩きながら草摩は思う。――これこそが日常なんだと。