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第二章 赤い消失―missing body― 4~5

  4

 佳世と慧一が並んでソファに座っている。二階、東夫婦の部屋。ソファの赤い布地の色が血を思わせて、今の佳世には気持ち悪かった。購入したときは可愛らしいと思ったのに……。
「どういうことですの?」
「分からん。全く分からん」
 慧一は頭を抱えている。
「容疑者が全く考えつかない。そもそも桐生君がここに来ることを知っていた者なんて」
「ほとんどいませんよね?」
「そうだ。今桐生君は有給休暇中だった。ここに来るなんてことは勤め先にも知らせていなかっただろうし」
「しかも、部屋には内鍵がかかっていたんでしょう?」
「ああ。朝になってから調べたが、窓の鍵にはここしばらく誰も触れた形跡がなかった。指紋も新しいものはなかったし……」
「でも、朝には内鍵は外れていた……それなら、誰も廊下にいなくなったのを見計らって出てきたのかもしれませんねわ」
「桐生君をどうにかした犯人が、この館の内部をうろついていたというのかね。まさか」
 慧一はふう、と息を吐いた。
「確かに階段も四ヶ所あるし、エレベータもある。しかし桐生君は長身だ。血を吐いて倒れていたんだから、自力では歩けなかったと考えるべきだろう。意識だってなかったかもしれない。だったら担ぐか引きずるかしなければいけないわけだが、それは一人では無理だし、何らかの痕跡が残るのが自然だ」
「南と東と西と……三つの勝手口には施錠してありましたしね。あれは鍵がないと内側からも開きません。マスターキイは私と貴方しか持っていない……」
「北の玄関には夜通し辰巳君がいた。どこにも行けるはずはない」
「窓からロープや梯子で……?」
「言わなかったか? 窓には鍵が掛かっていたって」
「…………」
 佳世は溜息をついた。
「そもそも、動機が分かりません」
「それは、犯人を捕まえたところできっとわからんよ」
 慧一がぽつりと呟いたのを佳世が聞きとがめる。
「え?」
「一騎がよく言っていた」
 慧一は体を起こし、視線を足元に落とした。
「『動機なんてものは、第三者が後から自分を納得させるために作る言い訳に過ぎない』……って」
「…………」

 ――人を憎むとか、邪魔に思うとか、そういう気持ちは誰の中にでも存在している。それは否定しようがないが、だからといって殺すか、危害を加えるか、どうか。そこには明確な一線があると思う。

 一騎はそう言っていた。
「『それは決して越えられない、理解できない一線』だそうだよ」
「…………」
「だが、我々は常に動機を重視する。犯罪者の動機を理解しようとするのは、一体何故なんだろうね……?」
 慧一は独り言のように呟いた。
「私は長年警察に勤めてきたが……今でもよく分からん。答えは見つからんよ」
「きっと……」
 佳世は静かに言った。
「私たちは理解できないものが嫌いなんです。そうでしょう? 学問はそうやって発達してきたものですもの。分からないもの、不思議なものを排除してきたんです」
「…………」
「他人のことも、理解できないと分かっていても理解しようと努力する。昨晩似たようなことを桐生さんがおっしゃっていたわね」
 慧一も思い出して頷いた。
 コミュニケーション能力を持った人間だけが、他人を理解しようとする。理解できないがゆえに、理解する努力を続けなければ人間社会の秩序と安定は維持できない――逆説的な真実。
「きっと、安心したいのよ。それに……恐いの。罪を犯す人が」
 佳世は目を伏せて淡々と言う。
「恐いものを理解できないって、一番人間が嫌うことよ。そうでしょう?」
「……ああ」
「動機とか理由とか、そういったもので犯行を説明されれば……自分に振りかかるのが防げるんじゃないかって、そう思うのかもしれないわね」
「……そうだな」
 そのとき、慧一の携帯電話が鳴った。
「東だ」
『本部長』
 緊迫した声。
佐藤(さとう)晃平(こうへい)の脱走の手引きをした者のことなんですが、たった今情報が入りました』
「ふむ?」
 佐藤晃平、というのは「オリーブの恵」から脱走し、警察に助けを求めた男である。始めはひどく衰弱しておりしばらく入院していたのだが、最近はかなり回復してきたようだ。
 慧一は何故今頃といぶかしみつつ尋ねた。
「それは誰なんだ?」
『桐生千影……という、あの、そちらで今行方不明になっている……』
「何?!」
 東は言葉を失った。
「慧一さん?」
 問いかける佳世にちらりと視線を向ける。
 これは、この事件と「オリーブの恵」との繋がりを意味するのだろうか――慧一はは深く溜息をついた。

  5

 その報告は、すぐさま伊吹の元にも届いていた。草摩はそれを聞き、眉をひそめる。
「俺、そんな話、あいつから聞いたことなかった」
「君を巻き込みたくなかったんじゃないか?」
 草摩は唇を噛む。
「こんな風に……あいつが一人でいなくなるくらいなら、俺も巻き込まれた方がましでした」
 ――父の時もそうだった。いつだってそうだ。自分の知らないところで事態は動き、そして取り返しのつかないところまで進んでしまう。手を伸ばしてもその後姿は遠く、届かない……。
「それで、あの、伊吹さん」
 草摩が顔を上げた。先ほどまでの傷ついた色は、素早く瞳の奥に仕舞われたようだった。
「何だ?」
「さっき、桐生の鞄が北で見つかったって言ってましたよね」
「ああ」
「その真上にあるのは三階の黒の部屋……。そこ、調べましたか?」
「いや? あそこはずっと開けられていないと聞いたからね。外側から鍵がかかっているのに、誰も入れやしないだろう」
「一応、開けてみて欲しいんですけど」
「……そうだな。本部長に鍵を借りよう」
 捜査をやりやすくするためには慧一か佳世からマスターキイを借りるのが賢明なのだろうが、何となく気が引けて言い出せない。官僚機構の弊害だな。伊吹は足を速めながら舌打ちしたくなった。
「あ、俺も行きます」
 伊吹の後ろを草摩が追う。伊吹は肩越しに話し掛けた。
「七条本部長は、確かに『オリーブの恵』からの脱出の手引きなんかをしていたらしいね」
「そうらしいですね。最近……っていうか、昨日桐生に聞いて初めて知りましたけど」
「それを桐生氏が引き継いでいたとすれば……?」
「で、『オリーブの恵』から信者がここに来て?」
「そう。それで、君が言っていた梯子説……。苦しいか」
「やはり、窓が閉まっていたのが痛いですね。鍵も掛かっていたし。信者の犯行の可能性はあるにしても、梯子じゃないと思います」
「……そうだな」
 鍵は外から掛けられそうにはなかった。それではやはり内部の人間が手引きを……?
 伊吹の溜息を、草摩のつぶやきがかき消した。
「でも、何の為にこんなややこしいことをしたんでしょうか」
「何?」
「『オリーブの恵』ですよ。たとえここで桐生を消したとして……メリットがあるようには思えない」
「彼にこのまま脱走者を手引きされると困るんじゃないか?」
「でも、今は警察とか世間に危険視されている時期なんですよ? それを、わざわざ他県とはいえ県警本部長の別荘で……。不自然すぎませんか?」
「焦っていたとか……。理由はいくらでも考えられると思うが?」
「…………」
 草摩は引っ掛かりを感じているらしく、眉間を指で抑えている。
 ふと、伊吹は不思議に思った。何故自分は初対面のこの少年と、こんなに打ち解けているのだろう。捜査に民間人を参加させることなど普通はしない。確かに草摩はこの件の関係者ではあるが……。
 伊吹は釈然としないまま、慧一の部屋をノックした。部屋の主は、すぐに姿を現す。
「伊吹君、どうかしたのかね?」
「あの、三階の黒の部屋を開けたいのですが」
「ふむ?」
 怪訝そうに慧一は片眉を上げる。
「あそこの鍵はずっと私が持っていたんだが」
「ええ……、ですがこれだけ探して桐生氏が見つからない以上、あらゆる可能性を考えないわけにはいきません」
 それを聞くと、慧一はあっさりと頷いた。
「別に構わないがね。私も行こう」
「恐れ入ります」
 慧一は部屋から出て、草摩を優しく見つめる。
「大丈夫かい、草摩君」
「……はい」
 草摩は眼をそらして頷いた。唇を軽く噛んでいる。慧一は彼のその表情に一騎を重ねて吐息をついた。自らの無力さに苦しんでいたとき、一騎はいつもそんな顔をしていた。――だが、瞳だけは決して絶望しない。それは草摩も同じだった。

 彼らは捜査員一人を連れて三階の黒の廊下の部屋に入る。
「あ……!」
 草摩が小さく叫ぶ。床に点々と落ちた赤い染み。
「血か?!」
 慧一も叫んで屈み込んだ。
「鑑定だ」
 伊吹に言われ、捜査員が頷く。
「桐生氏の血液型はAB型だったな」
「そうです」
「ふむ……」
 伊吹は窓際に歩み寄った。
「鍵は掛かっている……か」
 うっすらと溜まった埃に濃淡はない。
「倒れた桐生をここに運び込んで、それから窓から出したのかと思ったんですけど……」
 草摩が呟いた。
「鞄は邪魔だから、放り投げておいたとか」
「誰かに見られる危険を冒して、わざわざ青の廊下からここまで移動したと?」
 慧一は顎を摘む。
「ええ……そう思ったんですよ。窓の様子から見ると違うみたいですけどね」
「彼を運んだ手法とか、そんなものは犯人を捕まえてから聞けるんじゃないのか」
 慧一は言うが、草摩は首を横に振った。
「犯人を捕まえるためには、手法を考えた方がいいと思います」
「何故だね?」
 草摩はそれに答えて、
「多分、動機が俺たちには理解できないから」
「…………」
 慧一は先ほどの佳世との会話を思い出す。草摩も一騎とあのような話をしたのだろうか。だが、慧一の代わりに口を開いたのは伊吹だった。
「動機が理解できないって?」
「昔の捜査じゃ、交友関係や動機を洗い出していくことが王道だったんだが、最近はそうでもないね」
「通り魔なんかは極端ですが――ようは、動機が複雑化したってことでしょうか」
「それは、違うと思います」
 草摩は部屋をゆっくりと歩いて一周した。
「皆、自己表現が巧くなっただけですよ。人が自分の心情を表現するのに、使う言葉の幅が増えた。だから複雑になった。そういうことでしょう。人間の心情は元々複雑なもので、俺たちには理解できない。ただ、言葉に託されるときに単純化してしまうから、理解できたような錯覚に陥るんです。自分の心の安寧を得るために、自ら錯覚を望む」
「…………」
 伊吹は興味深げに草摩を見遣る。慧一が囁くような小声で尋ねた。
「それは、一騎が言っていたのか?」
「……いいえ」
 草摩は首を横に振った。
「俺がそう思っているんです」
「……そうか」
 草摩の眼がふと部屋の片隅のゴミ箱に止まった。そっと近づき、中のものを拾い上げる。
「あ、触ってはいけないよ」
 伊吹が慌ててそれを取り上げた。
「指紋……、どこからも出ていないんでしたね」
 草摩はなされるがままにそれを渡し、慧一に尋ねた。
「ああ」
 だとすれば、それからも出ないかもな、と思う。
「これ、何だ?」
 伊吹に聞かれて草摩は答えた。
「絆創膏の裏紙です」
「絆創膏……?」
「多分、うちで使っているものですよ。俺も今持っているし」
「では、もしかすると桐生君の?」
「そうかもしれない……。誰が使ったのかは、分からないけど」
「…………」
 沈黙が落ち、誰ともなくドアの前に立つ佳世に気が付いた。
「あの、お昼にしませんか? 正午はとっくに過ぎてますよ」
「……そうだな」
 慧一が頷く。草摩は佳世に言われて、急に空腹を感じ始めた。
 ――桐生も、腹減ってんのかな。敢えて、彼の死の可能性は考えないようにしていた。
 最後に昼食を一緒に食べたとき、桐生はお子様ランチだった。草摩はひどく当惑したものだが……。今なら彼が何を食べようと、そんなことはどうでもいいと思った。ただ、目の前に姿を見せて欲しい。いつものように、喋って笑いたい。
 草摩は泣きたくなって眼を伏せる。その肩を、伊吹が優しく叩いた。