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第二章 赤い消失―missing body― 3

  3

 N県警から派遣された伊吹(いぶき)(かなめ)警部は、被害者と目されている桐生千影の部屋に佇んでいた。開かれた扉からは、青い光が洩れている。
 ――変わった建物だ。伊吹はそう思う。朝なのにどこも薄暗く、光のささない廊下にはそれぞれの色のライトが灯っている。初めてここに来た彼は、相当面食らっていた。
「伊吹君」
 声に振り向くと、慧一が立っていた。
「東本部長。何か?」
 伊吹は心中でため息をついた。彼に気を遣わなければならないせいで、捜査がやりにくい。慧一は、気遣うことはない、早く解決することだけを考えろというが、警察組織のような縦社会ではそうはいかない。それでも他の警察幹部より慧一は随分協力的だと思う。捜査員が自分の別荘に上がり込んで荒らしても、文句一つ言わない。捜査のためなのだから当たり前なのだが、そうはいかないのが現実というものだ。
 慧一は暗い表情で言った。
「草摩君が目を覚ましたようだ。こちらに来ると言っている。話を聞くだろう?」
「はい」
 伊吹が頷くと、慧一は眼をそらして呟く。
「草摩君の名字で、思い出すことはないか」
「…………」
 伊吹は先ほど渡された関係者のリストを思い出した。
「七条……草摩」
 はっと息を呑む。
「もしや、あの……」
「そうだ。あの七条君の息子さんだよ」
「…………」
「もし桐生君がどうかなっていたら……父親に続いて新しい保護者も失ってしまうことになる」
「失礼ですが、お母様は……」
「早くに亡くなっている」
「……そうですか」
 伊吹の表情は変わらない。どんなに残酷な事件を担当しようとも、彼はその眉を少し寄せるだけの反応しか見せない。冷たい男なのかと思えば、そうでもない。遺族と接する時には非常に細やかな気遣いを見せる。本来豊かな感情は、警察官としての自分を保つために押し殺しているのだ。
 かすかな靴音とともに、ドアから草摩が姿を見せた。
「叔父さん」
「草摩君」
 振りかえった慧一が彼を側に呼ぶ。
「彼がこの件の担当の伊吹警部だ」
 無言で伊吹が会釈すると、草摩も黙ったまま頭を下げた。
 伊吹は手早く草摩という少年を観察する。この春から大学生になると聞いていた。年齢相応の外見だと思うが、眼だけが違う。爆発させようと待ち構えて煮えたぎっている火口のような、不思議な色合いだ。
「…………」
 草摩は伊吹に話しかけることなく、窓辺に歩み寄った。
「鍵。かかってますね」
 誰に聞かせるつもりもないように、草摩は呟く。伊吹は彼の方へと歩きながら、
「ああ。鍵に触った形跡もない」
 うっすらと溜まった埃の色に濃淡はなかった。
 伊吹の方を初めて真っ直ぐ見つめ、草摩は口を開いた。
「眞由美さん――須藤さんが一つ仮説を話していたんです。でも……これならあり得ないですね」
「仮説?」
 伊吹が軽く眉をひそめると、草摩は頷いて説明した。
「大きな梯子を使ったんじゃないかって」
「梯子?」
「あ、そうだ叔父さん」
 草摩は黙って彼らを見ていた慧一に声を掛けた。
「何だ?」
「眞由美さんの部屋の水。調べてもらってください。睡眠薬が入っていたかもしれないから」
「なんだって?」
 声をあげたのは伊吹だった。
「何故そんなことを?」
「…………」
 草摩は軽く手を顎に当てた。視線は部屋の隅に置かれた窓際のマントルピースに向けられている。
「昨晩、眞由美さんは途中でシャワーを浴びに行きました。友早と……桐生も一緒に」
 桐生、と口に出した瞬間、草摩の顔が歪む。しかし、口調の冷静さは変わらなかった。
「そのとき、また戻ってくるって俺たちに言っていたんですよ。それに、時間もまだ早かった。眞由美さんは、シャワーを浴びて水を飲んだら、途端に眠くなったと言っていました」
「疲れが出たのかもしれんよ?」
 慧一の声に、草摩は首を横に振る。
「それだけじゃないと思います。……俺、昨日ここで倒れた桐生を見て叫んだのを覚えているんです。それも、かなり大声で。それに壁とかドアとか殴ったし、相当大きな音がしたと思うんですよ。でも、眞由美さんはちっとも気付かなかった。同じ階にいたのに」
「…………」
「あの後、それなりに大騒ぎになったでしょう? でも眞由美さんは朝まで起きてこなかった」
「……しかし」
「お願いします。叔父さん」
 草摩の気迫に押されたように、慧一は伊吹に頷いて見せた。
「分かりました。調べてみましょう」
「ああ。……私が行ってくる。伊吹君はここにいたまえ」
「はい」
 慧一がドアから出るのを見送って、伊吹は再び草摩に尋ねた。慧一がいない方が話しやすい。
「さっきの、梯子を使った仮説……というのは?」
「あ、はい」
 草摩は窓の外に視線を投げる。
「眞由美さんの水差しに薬が入っていたとして……、梯子を使えば窓の外からでも入れられますよね」
「まあ、そうだが……」
「それから、桐生が消えたのも窓から運んだと考えれば……。混乱させるために内鍵を外しておいて」
「む……」
 伊吹はこめかみに指を当てた。
「面白い仮定だとは思うが、やはりこの窓が閉まっていることを考えれば……」
「そうですね」
「それに、誰がどこの部屋に泊まるかなど、外部の人間は知らないはずだろう」
「それをいえば、桐生がここに来ることを知っていた人なんて、部外者にはいないはずなんですよ」
「……内部の人間の犯行か……? しかし……」
 伊吹は溜息をついた。
 確かに、この部屋には東家のものと思われる指紋しかなかった。桐生の指紋がほとんど検出されなかったのはどういうわけだか……彼には良く分からない。
 だが、慧一や佳世は、草摩の親戚であり県警本部長とその妻である。友早は草摩の従兄。さらに、自分の彼女に睡眠薬を盛るとは考えにくい。辰巳や島原は桐生とは初対面で、しかも警察関係者である。警察関係者だからといって罪を犯さないとは思わないが、自分の上司の別荘で実行するだろうか。いや、むしろ桐生という男との接点が全くない。
 草摩は――論外だ。伊吹は確信を持ってそう断定した。
「やはり……外部の犯行と仮定した方が良さそうだな……」
「ええ……疑わしい人がいなさ過ぎます」
 草摩は部屋にかかった時計を眺めながら、
「桐生を部屋に案内したのは……」
「本部長だ。時間は午後九時半くらいだったと言っている」
 それを聞いて少し視線を落とし、考えこむ。
「さっきの……、窓が閉まっていた件ですけど」
「あ? うん」
「眞由美さんの窓から桐生を運んだとすれば……。水に睡眠薬が入っていたら、の話ですが」
「何?」
「俺と叔父さんがここに来た時、まだ犯人は中にいて……、俺たちに中に入られると困るから内鍵をかけておいた。それで、俺が倒れて叔父さんが二階に連れて行く間に」
「部屋を移動した……というわけか?」
「ええ」
「しかし、この桐生という男は随分背が高いんだろう? 一人で運べるか?」
「複数犯と考えれば解決します」
「…………」
「ただ分からないのは……一体どんな奴がそこまでして桐生をどうにかしたいか、ですよね」
「……ああ」
「何もこんなところでやる必要は全くない」
「そうだな」
「自殺に見せかけておくならまだしも、こんな風に本人を消してしまったら怪しまれるだけで失踪とは誰も思わないし」
「…………」
 草摩の言葉に耳を傾けながら、伊吹はふとつぶやいた。
「君は、随分冷静だね」
「え?」
 草摩の表情が一瞬子供めいたものに変化する。やがて――。
「…………」
 草摩は視線を落とした。
「……分かっています」
 うめくような声。
「でも……でも俺には他に何もできない。こうやって探すことしか……できないから」
 はっと伊吹は息を呑んだ。同じ青年なのに、先ほどまでとは別人のように見える。伏せられた睫毛が震え、噛み締めた唇が白くなっていた。
 だが、草摩はすぐに毅然とした態度を取り戻して顔を上げる。
「俺は……あいつを探すだけ。それだけです」
 ――父さんが死んだとき、何もできなかったから。
 草摩はぎゅっと拳を握った。――もう俺は子供じゃない。子供でいてはいけない。ただ桐生の好意に甘えていた、そんな自分でいてはいけない……。
「……そうだな」
 伊吹はほっと息を吐き、視線を逸らした。七条一騎は警視庁でも切れ者で有名だった。その息子、草摩――血は争えないということか。
「あの、伊吹さん」
「何だ?」
 振り向いた彼に、草摩が床を指差して見せた。
「ここに血痕はなかったんですか?」
「そんなものがあったら残っているはずだが」
 現場は昨夜のまま保存されているはずである。
「昨晩俺が見た桐生は、血を吐いてたんです」
「何?」
 伊吹が聞き返す。
「間違いなく、血を吐いていた。でも、痕がない……」
 床はフローリングではなくカーペットである。染みになっていてもおかしくない。
「染み抜きまでやったとしたら、大した余裕だな」
「ええ……」
「君が見たときには彼の唇から血が垂れていた、と?」
「そうです」
「もしかしたら偶然床にはつかなかったのかもしれない」
「そうですね。でも……」
 草摩は不安げに部屋を見まわす。
「伊吹警部」
 そのとき、ドアから辰巳が姿を見せた。
「見つかりました」
「……辰巳さん」
 草摩の声に、辰巳が彼を見て複雑な表情をした。
「草摩君……」
 何か言いかけるのを草摩は制して聞き返す。
「何が見つかったんですか?」
 辰巳の表情から、桐生自身ではないことは分かる。辰巳は手に持っていた鞄らしきものを掲げて見せた。
「あ……ああ。桐生さんの荷物だよ」
「え?」
「どこにあったんだ?」
 伊吹の質問に、辰巳は答える。
「それが……この建物の北。数メートル離れた場所です」
「北……? あの、廊下の暗いところか」
「そうです。地面に落ちていました」
「中身は?」
「草摩君に確認してもらった方が……」
「…………」
 草摩はその黒い鞄を受け取ると、伊吹の差し出す白い手袋をはめて中を見た。
「財布もあるみたいですし……。いつも身につけていた小銭入れと携帯電話はないみたいですけど、服に入っているままなのかも」
「そういえば、倒れていた桐生氏は着替えていなかったようだね?」
「ええ、そうですね」
 草摩は思い出しながら答える。
「朝からずっと同じ服だったと思います」
「どんな?」
「えっと……ダークグレイのジャケットに、白いシャツ。黒いズボンだったかな……あっ」
 草摩は小さく叫んで鞄の中をさらに探った。
「どうした?」
「鍵……。車の鍵がありません。キーケースはあるのに」
 草摩が掌に載せたキーケース。中には自宅のものと思われる鍵や、どこかのロッカーのものだろうか、小さな鍵がいくつか入っていた。
「財布は盗まれていなかったんだよな?」
 伊吹は草摩から受け取った財布を軽くチェックした。カードもあるし、現金も残されている。やはり金銭目的ではないのだろう。
「……分かりませんね」
 辰巳が呟く。
「そういえば、桐生さんの車はなくなっていたんだよな」
「ええ」
 伊吹の言葉に辰巳が頷く。やがて、不審そうな表情で付け加えた。
「あと、昨夜食卓で使われたトランプなんですが」
「トランプ?」
「ええ。そのまま置きっ放しになっていたんですよ」
「あ……そういえば」
 草摩は思い出して大きく頷いた。辰巳は続けた。
「箱の中に全部収めていたはずなんですが……、何故かスペードのカードだけがなくなっていました」
「スペードが全部?」
「ええ、十三枚全部」
「……いよいよ分からん。一体どうなっているんだ?」
「…………」
 草摩は眼を伏せて桐生の鞄を抱える。零れた溜息は音もなく革地に弾かれ、消えた。