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第三章 白い幻惑―missing mind― 4

  4

 伊吹と来生が地上に出てみると、もう完全に空は暗くなっていた。
 来生の手には教祖の携帯電話が握られたままである。何度も桐生の番号に掛けたが繋がらなかった。電源が切られているようだ。
 考えてみれば桐生の携帯電話がなくなっているのは既にわかっていたことで、警察でも場所を探知しようとしていた。この二日間で何度かは電源を入れたようだが、どれも一瞬のことで場所を探り当てるには至っていない。
「ちょっと整理してみよう」
 本部内に教団側が提供した控え室のような小部屋の中、来生と伊吹は椅子に向かい合って腰掛ける。伊吹は手帳を取り出して昨日ロザリオ館で起きた出来事を語り始めた。来生は黙って耳を傾ける。
「皆揃っての夕食が終わったのが八時過ぎ。それから九時半までの間、東本部長は自室にいたそうだ。九時半過ぎにポーカーをやっていた桐生千影が部屋に引き取りたいと申し出て、その直後に須藤眞由美と東友早も自室に向かっている。夫人が二階まで送ったが、そこで本部長に会って三階の桐生と須藤は本部長に案内されたらしい。案内してすぐに本部長は一階に来ている。ちなみに桐生の部屋は三階青の部屋、須藤は同じ階の赤の部屋、友早は二階で白の部屋」
「うん」
 来生は軽く頷く。そういえば、来生には七条元本部長の部下だった時期があったな――と伊吹は思い出した。
「友早は十時半頃に一階に戻っているが、須藤と桐生は戻っていない。結局十一時過ぎに皆それぞれの部屋に引き取った――あ、いや七条草摩と本部長以外だな。警官二人は二階赤の部屋。隣り合っているが別々の客室だ。草摩君は同じ二階の青の部屋に割り当てられていた」
「七条草摩と本部長は、一体何を?」
「七条元本部長と東本部長とは親友だった。本部長は草摩君の保護者になった桐生氏に挨拶したかったんだそうだ」
「なるほどね」
 来生はメモをとっていた手を止めた。
「それで、ふたりはエレベータで二階から三階に行ったんだね?」
「ああ。本部長の提案でつけたエレベータだったんだが、今まで使う機会があまりなかったらしくてな。家族は面倒くさがるから草摩君を誘ったらしい」
「彼らが血を吐いた桐生氏を見たのは十二時頃……だったかな」
「そうだ」
「その後は?」
「その光景にショックを受けたらしい草摩君が倒れて、本部長が夫人のいる自室に彼を運んだ。で、その後友早君や辰巳さん、島原さんにも連絡して警察を呼んだみたいだ。その間二十分足らず」
「で、その後ずっと桐生氏の部屋には誰にも近づかなかったわけ?」
「まあな、内鍵が閉まっていたし、中にまだ犯人がいたら危険だからだろう」
「辰巳警部補が玄関を見張っていたらしいね?」
「そうだ。出入り口は東西南北の四ヶ所だが、内側から鍵なしで出られるのは北側の正門だけらしい」
「他は出るのに鍵が要るってことか」
「そうだな」
「マスターキイみたいなものはないの?」
「本部長と夫人が一つずつ持っているようだ。本部長のは見せてもらったよ。夫人が持っているのも同じものらしい」
「確かめたのか?」
「いや、見てはいないがね。それで、警察が到着したのは午前一時……そのときには既に桐生氏はどこにもいなかった」
「…………」
 来生は指先をこめかみに当てた。
「今までに見つかっているのは関係ないはずの三階の黒の部屋にあったAB型の血痕。あと絆創膏のごみ」
「ごみ?」
「なんていうんだ、絆創膏の裏紙」
「ああ……」
 苦笑して頷く来生に、伊吹はため息で返す。
「それと桐生氏の鞄……か。北側に落ちていた」
「なくなっていたのは携帯と小銭入れと車のキイと言っていたね」
「そうだ」
「で、実はひそかにトランプもなくなっていたわけだ。……やれやれ、何が何だか」
 来生は肩をすくめた。
「今教祖の部屋から通じている地下道の捜索をさせているけど、たいしたことはなさそうだよ。信者が集まる講堂に続いているものと、母親のいる部屋に通じているもの。それだけみたいだ。隠し通路もなさそうだし。それに地下道の突き当たりにあるドアは全部外側から鍵をかけるタイプで、内側からはどうやったって出られない。そこの鍵を持っているのは緋宮だけのようだし、緋宮が教祖をたきつけて自殺させたとは思えないねえ」
「……じゃあ、教祖のほうは」
「自殺。十中八九、それで間違いはなさそうだ」
「そうか……」
「トランプの意味が分からないな。誰が持ち込んだんだろう?」
「目撃者はいないのか?」
「うん。昼食から夕食までの間、教団関係者は誰も教祖の部屋を訪れていないんだ。別に監視がついているわけじゃないしね。本人が外に出たがらなかったそうだから、勝手に出歩く心配もなかったわけで……むしろ彼の部屋があそこだということを知っている人間はごく一部だ。緋宮と本庄さん、あとはほんの二、三人だよ。アリバイの確認は簡単だった」
 その中には医者も含まれていて、教祖を診察していたらしい。彼もやはり信者だったようだ。教祖が病魔におかされていたとすればそれを苦にしての自殺とも考えられる。だがその医者は強く否定した。――それはあり得ません。確かに完治はしにくい持病をお持ちでしたが、それほどの苦痛や死の危険に晒されるような病気ではないのですから。
 彼からはまだ話を聞かなければならないだろう。司法解剖の結果も待たれるところだ。
「しかし、誰かが教祖の部屋に来たことは間違いない。それが桐生をどうにかした犯人だと考えるのが自然だな」
 だが、ロザリオ館に宿泊していて教祖の部屋を訪れることが可能だった人間はいない。
「ということは外部犯か……?」
「いや、複数犯という可能性もある。そのうちの一人がロザリオ館にいたのかも」
「……ううん」
 来生は椅子の背もたれに深く体を埋めた。
「たいしたやつだ、証拠を全然残してない。五里霧中じゃないか」
「ああ……しかしそのくせ自分のいた痕跡は残している」
 伊吹の頭をトランプがぐるぐる回っている。あれは一体何を伝えたかったのか……。
 誰に……何を……。

 ――誰が?

「そういえばさっき、七条草摩……って言っていたよな」
 不意に来生が口を切った。
「…………」
 伊吹は黙って頷く。来生はかすかに笑って言った。
「俺、七条さんから息子さんの話聞いたことあるよ」
「へえ……」
「よくできた息子だって自慢された。普段は私情を挟まない人だったのにな」
「そうか」
「面白い人だった」
 来生は深く息をつく。
「『容疑者の語る動機は戦争時における正義のようなものだ』って言ってたな」
「?」
「つまりね、自分を納得させる方便に過ぎないってこと」
「草摩君も似たようなことを言っていたよ」
「お父さんから聞いたのかな?」
「いや。彼自身の考えだそうだ」
「…………」
「確かに……殺人行為を為すその瞬間には、動機なんて頭から抜け落ちているのかもしれない」
「どうしても動機重視の捜査じゃ行き詰まっちゃうときがあるんだよね。そういう事件は、七条さんのお得意だった――」
「草摩君も大した推理家だよ。血は争えないってことかな」
 来生はメモに目を落とした。
「なあ、伊吹――この館って点対称なんだろう?」
「そうだ」
「ライトの色でしか見分けはつかないんだな?」
「特に三階はな。二階ならまだ、部屋数がふたつと一つの廊下があるから……」
「もしかしてこのライト、切り替えがきくんじゃないのか?」
「何?」
 伊吹は体を起こした。
「しかし……そんな話は」
「聞いていない? じゃあ、そんなスイッチはないのか……」
「いや、考えたこともなかった」
「調べてみる価値はあると思うよ」
 来生の言葉に頷きながらも、
「しかしもしスイッチがあるんだとしたら――なんで本部長も夫人も教えてくれなかったんだ?」
「…………」
 来生は緩く首を横に振った。
「伊吹も考えつかなかったんだ。そこまで思い至らなかったのかもしれないな」
「……そうだな」
 伊吹は頷いて立ち上がる。辰巳に電話して調べさせなければ。
「外で電話してくる」
 懐から携帯電話を取り出してドアへ向かう伊吹の背中を見送り、来生は深く息を吐いた。
 ――七条一騎のことは、よく覚えている。彼が本庁勤めをしていた時の上司だった。キャリア官僚が捜査の一線に出てくることなど皆無に近いのに、七条はそれをやっていた。しかもノンキャリアに睨まれることもなかった。実にうまく人を使う男で、他人に嫌われるということもほとんどなかったように思う。
 それが何故殺されたのか――来生はどうしても犯人を掴まえたいと思う。事件はO府で起こったので管轄外だが、とにかく警察によって犯人を捕まえてほしい。未だにそれは成っていないが……。
「…………」
 軽く来生が眼を閉じたとき、ドアが軽くノックされた。
「どうぞ」
「あの、すみません」
 顔を覗かせたのは第一発見者の本庄だった。
「何か?」
 本庄は扉を閉め、来生の方へと歩んでくる。
「あの、思い出した事があったものですから……」
 俯き加減で、目は変わらず泣き腫らしていた。
「何を、思い出されたんですか?」
「二週間ほど前に、教祖様に会いに来た方がいらっしゃったんです」
「それは信者さんですか?」
 来生の問いに本庄は首を横に振った。
「違います……信者は教祖様に直接お会いできません。この建物の近くに寄ることも禁じられています」
 それで今回の件も目撃証言がないのだろう。教祖の身の安全を守るための決まりだったのかもしれないが、今はそれが裏目に出ているというわけだ――来生は眉を寄せる。
「では一体誰だったんです?」
「いえ……分からないんです。でも」
 本庄は顔を上げた。
「確か、昼食をお届けに行ったとき……地下の教祖様のお部屋のドアの前にその人がいて、ドア越しに何か教祖様と話をされていたみたいでした。私が誰か呼ぼうとしたら、教祖様がそれには及ばないと……その後、教祖様はその人をお部屋の中に入れられたんです」
「ふうん……」
 来生は小さく頷く。
「それはどういう人だったか覚えていますか?」
「あの……とても背の高くって、髪は黒で……サングラスを掛けていたので、顔はよく分からなかったんですが。多分若い人だと」
「…………」
 来生はふと思いついて手帳に挟んでいた桐生の写真を本庄に差し出した。捜索の為に警察内でコピーして配られたもので、勤務先の病院からFAXで取り寄せたものだ。履歴書の写真か何かだろうか、端正な顔が無表情にこちらを見つめている。
「この男ですか?」
「…………」
 掛けているのは眼鏡でサングラスではないが、その整った顔の作りは誤魔化しようがないだろう。本庄はしばらく考えていたが、躊躇いがちに頷いた。
「ええ、この人に……すごく似ていたと思います」
「その後、教祖は?」
「決して誰にも言うな、特に緋宮様には、と言われて」
「それで言わなかったんですか?」
「……はい」
 本庄は頷いた。
「教祖様のお言葉は絶対ですから」
「そうですか」
 ――彼女の盲信ゆえに教祖は命を落としたのかもしれない……だが彼女はそれに気付きもしないのだろう。
「どうもありがとうございます。参考にさせていただきますよ」
 本庄は礼をして去りかけたがふと足を止めた。
「あの、もしかして教祖様を殺したのはその……?」
 強張った声が問いかける。来生は首を横に振った。
「違います。恐らく、教祖は自殺でしょう」
「……そんな」
 呟いた声が小さく続ける。
「どうして……どうして自殺なんか……」
 震える音は涙に掻き消えて、
「私たち信者をを置いて……逝ってしまうなんて……」
「…………」
「今がどんなに不幸でも、皆でならしあわせになれるって……教祖様そうおっしゃっていたのに……。『僕はしあわせになれなくても、皆はきっとしあわせになれるから』って……」
 本庄の声が小さくくぐもった。手を口元に当てていた。
「教祖様が一番ふしあわせそうで……私、教祖様にしあわせになっていただきたくて……誰かにしあわせになって欲しいってこんなに思ったの、初めてで……」
「…………」
 掛ける言葉が見当たらず躊躇しているうちに、本庄は足早に部屋を出て行った。