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第三章 白い幻惑―missing mind― 3

  3

 草摩は部屋のベッドの上でトランプのカードを弄びながら、ぼんやりと考えに耽っていた。
 体中から力を抜いていても、思考だけは自由に跳ね回る。昨夜の出来事を反芻しては筋の通る説明を考えようとするのだが、どうもうまくいかない。
 ――結局「オリーブの恵」と関係があるのか、ないのか。桐生はどこに行ったのか。殺されているのか、いないのか。そして……。
「一体誰が……?」
 呟いて眼を閉じる。
 今のところ、彼の中で説明のつくと思われた答えは一つだけだ。だが、それを肯定するだけの勇気が彼にはまだなかった。考えるだけで苦しい。――だが、それでも……。
 草摩は寝返りを打って歯をぎりと噛み締めた。まだ桐生の居場所も分からない。トランプが置かれていた謎も解けない。まるで草摩にヒントを与えようとするかのように置かれていたトランプ。あのとき、ロザリオ館にいる全員が食卓に集っていた。捜査員達は別だが、そもそもあり得ないだろう。それでは草摩が階下に下りた後で食卓に来た者が……?
 自分が階下に下りたのは呼びに来た佳世と一緒で、比較的早かった。
「友早と島原さん……辰巳さんに、眞由美さん?」
 友早は一人で来たが、後の三人は連れ立ってやってきた。いくらなんでも彼ら三人が真相を知っていて、ということはありそうにない。犯人ならばヒントを与えるような真似はしないだろうし、真実を知っているのなら警察官である島原や辰巳が黙っているのはおかしい。
「じゃあ、友早……?」
 それも分からない。友早が謎を解いているという風には見えないし、説いているのなら父親にでも言えばよい……いや、それは――。
 ふう、と息をついて枕に顔を埋めたとき、扉がノックされた。
「はい?」
 答えを返すと、
「俺だ。友早だ」
 その声を聞いて、草摩はベッドから跳ね起きてドアへ向かった。鍵を開けて友早を内側に入れる。
「どうしたんだ? もう深夜だろ?」
 草摩が問うと、友早は苦笑した。
「お前だって、しんどいなら早く寝ろよ」
「…………」
 ため息をつき、草摩は部屋の内側へ歩みを進める。
「もしかして寝てたか?」
 気遣うような友早の声に、草摩は首を横に振って答える。
「……ならいいけど」
「なあ、友早」
 草摩はベッドに腰掛けて口を開いた。
「なんだ?」
「ここの廊下のライトさ。切り替わるんだな」
「え? あ、ああ。まあな」
「俺、知らなかった」
「大抵知らないだろ。知ってるのは俺と母さんと……父さんくらいじゃないのか?」
「警察の人は知ってる?」
「さあ? 俺は言ってないけど、母さんか父さんが言ったんじゃないかな?」
 屈託なく言う友早から、草摩は眼をそらす。
「それはそうと、お前、なんで気付いたんだ?」
 草摩はベッドに放り出してあったトランプのカードを友早に見せた。
「これがさ。廊下の、スイッチのある柱の前に落ちてたんだ」
「トランプ?」
「ああ。桐生の、なくなってたスペード」
「…………?」
 友早は眉を寄せた。
「どういうことだ?」
「俺が聞きたい……」
 草摩は背中からベッドに倒れこんだ。友早はその隣に腰掛け、小さく呟いた。
「お前さ……変わったよな」
「え?」
 草摩は顔を上げて聞き返す。
「変わった?」
「ああ。お前がな」
 腹筋の要領で起き上がり、草摩は友早の顔を見つめる。
「どう変わった?」
「いや、うまく言えないけど」
 口篭もって友早は顔を逸らした。かつての草摩は、もっと屈託のない少年だったように思う。昔から頭の回転は速かったが、それが今のように鋭さとなって表れてはいなかった。目に見えるものをそのまま受け入れることを拒むような、陰りと光を共に帯びた瞳。世界に対する無条件の信頼は、もう失われてしまったのだろう。
「……そうだな。変わったかもな」
 草摩は呟いて少し微笑した。
「でも、仕方ないだろ。父さんがあんなことになったし」
「……ああ」
 友早は頷く。
 葬式の時、限界まで張り詰めた糸のように、不自然なまでに毅然としていた草摩を思い出す。その背後に佇み、彼の肩にそっと触れていたのが桐生だった。声を掛けるわけでもなく、支えてやっているわけでもない。それでも草摩は桐生の手を振り払おうとはしなかったし、彼から離れようともしなかった。むしろ桐生がそこにいることによって、草摩は安心していたのではないかと思う。まだあの時、彼らは出会って間もないはずなのだが。
「友早は桐生のこと、なんか警戒してたよな」
 草摩は苦笑した。
「……警戒ってわけじゃないんだけどな」
 何を考えているのか読めないところがある。時折彼の瞳の中に見える底冷えのする光は何だろう。
「ま、気持ちは分かる」
「分かるのか?」
「うん……。まあ、な」
 自分が気付いていたことに敏感な草摩が気付かないはずはない。友早はそう思って納得した。
「あいつと父さんの間にどういう親交があったのかも知らないしさ。親戚なのに会ったこともなかったし、名前さえ聞いたことなかったんだぜ? でも、俺が知らないような父さんと『オリーブの恵』とのゴタゴタのこともあいつは知ってた。なんかおかしいと思って当たり前だろ?」
「……そうだな」
「でも――」
 草摩はふと表情を改めた。
「俺は桐生を信頼してる。あいつは、俺のことをきっと理解しようとしてくれてるんだと思うから」
「なんで、そう思うんだ?」
「…………」
 少し口をつぐんだ後で小さく笑い、草摩は口を開いた。
「父さんが死んだ日な……夕食の当番、俺だったんだ」
 母が幼い頃に死んでから、ずっと父子家庭だった。草摩が小さいの頃は父方の祖母が良く家事を手伝ってくれていたが、その祖母も彼が高校生のころに亡くなった。
「その日の朝、親父は『今日の夕飯はカレーがいい』って言ってた」
「…………」
 友早は声もなく聞き入る。
「それから数時間も経たないうちに親父の死体を見て――その時は何が何だかわかんなかった。もう、脳が麻痺してる状態だよ。悲しいも何にも、感じているんだかいないんだか」
 草摩は大きく深呼吸した。
「本当にショックが襲ってきたのは家に帰って――作りかけのカレーを見たとき。ああ、親父はこれ食えないんだって……もう二度とここには帰ってこないんだって……」
 大きく見開かれた草摩の眼は、涙を零すことを拒んでいるようだった。
「アイロンがけしてないワイシャツとか……穴開いたままの靴下とか……読みかけの本の栞とか……。そういうのが、すげえ辛かった」
「…………」
 続いていくことを信じて疑いもしなかった日常が、突然無理矢理に終わらせられた。その無念が草摩の胸を襲った。ここで終わり。もう続きはない――父親と過ごす時間は、もう存在しない。
「何もする気がしなくなって……ぼうっと何時間も座り込んで……思い出したみたいに泣いて……またぼうっとして……そのまま何時間か経って」
 草摩は言葉を切って静かに微笑んだ。
「それで、桐生が家に来た」
「桐生さんが……?」
「うん。父さんが弁護士に遺書を託しててさ。それで桐生に連絡がいったんだって」
「…………」
「インターフォンが鳴っても出る気力も起きなくて。そしたら父さんが合鍵を渡してたのか何なのか分かんないけど、鍵開けて入ってきて」
 草摩はくすくすと笑った。やや空虚さを残してはいたが、無理をした笑みではなかった。
「廊下を俺のほうに駆け寄ってきたのはいいんだけど、リビングの手前の、鴨居っていうの? そこでゴン、て頭打ったんだよ。そりゃあもうすごい勢いで」
「は?」
 友早は呆気に取られたように呟く。
「そうそう、そんな感じで俺も『は?』って言った」
「そりゃ驚くよな」
 頭をしたたか打ちつけた桐生は声もなく床に蹲った。その光景を思い出すだけで笑えてくる。
「でも、後で思ったんだ。あれって実はわざとじゃないかって」
「わざと?」
「そう。俺を……何て言うのかな、目の前の父親の死を一瞬でも忘れさせてくれたっていうか」
「…………」
 草摩はふと笑いを消した。
「うん……それだけのことなんだけど、でもそれだけのことで結構……救われたような気がして」
 友早の顔から眼をそらし、俯く。草摩の方を見ないようにしながら、友早は呟いた。
「宗教にのめりこむのってそういうときなのかもしれないな」
「え?」
「いや……、何ていうのかさ。お前には桐生さんがいてくれたわけじゃん? 救いになる人が」
「うん。まあ、一応」
 救いというのも気恥ずかしいが、そういうものかもしれない。
「けど、皆が皆そうとは限らないだろ?」
 大切なものを失った時、その痛みを癒してくれるものが側にあるとは限らない。
「別に信者全員がそういう過程を辿るわけじゃないとは思うけど、でも」
 心の拠り所になる何かを求めて、その時たまたまその宗教に巡り合ったら。優しい言葉を掛けられて……似たような境遇の人たちと語り合って。
「信じちゃうのかもしんないよな」
「…………」
 草摩は膝に手を置いてしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「そうかもしれないな……」
 父親の死に際して何も出来なかった自分――それでも桐生が居てくれたから、「草摩君は何も悪くないんですよ」と、そう繰り返し言ってくれたから、思いきり悲しむことができたし、立ち直れた。自分を責め続けていたら、歪な悲しみに心を食い破られていたかもしれない。。
 友早が言う。
「噂じゃあ、その教祖って人の心を読む天才だったらしいぜ」
「噂?」
「親父から聞いたんだけどな。親父は信者から聞いたのかな?」
 信者の話を姿は見せずに聞き、巫女である緋宮に言葉を託す。その言葉によって信者は癒されるのだという。――まるで神様のようだと、信者は語るらしい。胸につかえていたものが音もなく溶け、自分は生きていけると思える……。
「結局辛い時に人が求めるのって、誰かに自分の思いを聞いてもらうことだろ? それで、真実はどうあれ、君のせいじゃない、君は悪くないって言って欲しいんだと思う。それじゃ前進はできないけどな」
「そうだな……」
 草摩の場合には、桐生との新しい生活への適応に努力することが一役かった。草摩の日常はまだ終わっていない。父親の生は終わっても、彼自身は生きていかなければならないのだから。
 友早の体重でベッドが軋む。
「あと、脱会に異様に厳しいってのはどこでもそうだけど、あそこは強烈だよ。追っかけてきて殺すんだもんな」
「……けど」
 草摩は軽く髪を掻いた。
「どっちにしろ教祖は死んだわけだろ? そんなワンマン教団なら自然消滅じゃないの?」
「それはどうだろうな……ああいうのって一度信じ込んじゃうとなかなか醒められないらしいし」
「ん……そうか」
 草摩は息をついてもう一度寝転んだ。天井を見上げ、独り言のように呟く。
「本当……、どこ行きやがったんだよ、桐生……」
「…………」
 友早は黙って草摩を見つめる。――何故、桐生が生きていると信じられるのか。そう尋ねることは、彼にはできなかった。