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第三章 白い幻惑―missing mind― 1~2

あの過去が美しかるべき僕らの未来を
食い荒らすことがあったら、一体どうなるだろう?
あの頃の狂気の沙汰が今また
攻め寄せてくるような事があったら、一体どうなるだろう?
あの思い出の数々は、何度殺しても殺したりないのだろうか?

  1

 伊吹が「オリーブの恵」教団本部を訪れるのは初めてだった。
 廃校になった中学校を買い上げたという敷地は広いが、意外に施設群は簡素な作りである。一刻ごとに濃さを増す夕闇の中、白い壁の建物はひっそりと静まりかえって人の気配を感じさせない。信者は皆、見たこともない教祖の死を悼んでいるのだろうか。
 ここで現場指揮を取っているのは、伊吹の同期の警部の来生(きすぎ)駿(しゅん)である。正門前でパトカーを降りた伊吹の元に、来生は足早に歩み寄ってきた。
「どうした?」
「いや……緋宮がね」
 来生は眉を顰めて声を落とす。茶色がかった柔らかな髪を掻きながら、
「死んだものはどうしたって死んだんだから、捜査の必要なんてないって言い張るんだ」
「は?」
「まあ、そういうわけにもいかないって言って捜査はしているけど……ね」
 伊吹は口を噤んだ。確かに死因を調べて殺人ならその犯人を拘束したところで、死人はかえってこない。だが、捜査は死人を呼び戻すためにしているのではない。では一体、何のために……? 妙な思考に陥りかけた伊吹は首を軽く振った。
「で、お前はここで何をしている?」
「伊吹を待っていたんだ。そっちのヤマとも関係あるかもしれないって言っていただろう?」
「……そうだな」
 頷く伊吹に、来生は尋ねた。
「通報してきた信者がここにいるけど、話でも聞いてみる?」
 伊吹は頷き、彼の後ろをついて歩いた。
本庄(ほんじょう)さん」
 パトカーの中で膝を握り締めている女性に、来生は声を掛けた。
「本庄さん」
 何度か呼びかけられて、女性はようやく気付いたように顔を上げた。青ざめた表情は強張っているが、長い髪の、まだ二十代であろうと思われる女性だ。化粧気はなく、質素なジャージのようなものを着ている。
「県警の伊吹です。今一度お話を伺いたいのですが」
「そのことなら、もう……」
 絶え入りそうな声で呟き、来生の方を縋るように見上げる。
「いえ、僕ももう一度お伺いしたいところです。思い出せない部分はそのままで構いませんし、言える範囲で結構ですから」
 柔らかい来生の声に、本庄は軽く頷いた。そんな様子を見ながら、昔から来生は女性に人気があったな、などと伊吹はぼんやり思う。本庄の左隣に来生が座り、そのさらに隣に伊吹が座った。
「あの……、私は教祖様の身のまわりの世話を申し付かっていたのですけれど」
 本庄は躊躇いがちに口を開いた。
「教祖様は本館から少し遠い……信者には近づくことを許されていない離れにお住まいでした。昔、体育倉庫があった場所だとうかがっています」
 過剰なまでの敬語が耳につくが、伊吹は黙って耳を傾けた。
「そこから出られることはなかったのですね?」
 来生の問いに本庄は頷く。
「離れといっても地上ではなくて、地下にお部屋があったんです」
「地下に?」
 伊吹は怪訝そうな顔で聞き返した。
「教祖はずっと地下にいたのか?」
「本部内に教祖様用の地下通路があると聞いたことがありますが、よくは存じません」
「ふむ――」
「病弱で、日光には当たられないとお聞きしましたが……」
 困ったように言葉を濁す本庄に、来生は促した。
「結構ですよ、続けてください」
「はい」
 頷き、本庄は再び話し始めた。
「私がしていたのはお食事をお運びする役目と、一週間に一回ほどお部屋のお掃除で」
「掃除ね。どれくらい前から?」
「三ヶ月ほど前です」
「その、教祖の部屋の様子というのは?」
「多分、三LDKくらいになるのかな……。そんな、特別大きお部屋というわけではありません……ご本は、沢山ありましたけど」
「教祖と話を交わすことや会うことは?」
「私は寝室には立ち入りませんでした。私が掃除をしている時には、教祖様はいつもその寝室に」
「なるほど。で、教祖が亡くなっていることに気付いたのが」
「今晩のお食事を届けに来たときです」
「えっと、六時でしたっけ?」
「はい」
 来生と本庄のやりとりを聞きながら伊吹は手帳に鉛筆を走らせる。
「ノックをしてもお返事がなくて、気になってノブを回したら開いていて……。驚いてドアを引いたら内鍵だけ閉まっていたんです。あの、チェーンの内鍵が」
「内鍵だけ?」
 伊吹は思わず聞き返した。ロザリオ館で桐生が失踪した時の状況と酷似している――。
「中は電気がついていたのでよく見えたのですが……教祖様が倒れていらっしゃって……」
 本庄は体を震わせながら黙り込んだ。伊吹が軽く覗き見ると、泣いている。それが狂信ゆえの涙なのか、教祖の人柄ゆえのものなのか、伊吹には判断できなかった。
 彼女が話せる状況ではないのを見て取り、来生がその続きを引きとって口を開いた。
「彼女が緋宮に連絡したらしい。その後チェーンは緋宮と彼女が協力して切って」
「切れたのか?」
「割合細いチェーンだよ。工具を使ったそうだ」
「それで?」
「それで――まあ、本庄さんが警察に連絡をくれたんだね」
「教祖というのはどういった人物だ? 年とか外見とか」
 伊吹は来生と本庄に交互に目をやりながら尋ねる。
「それは――」
 来生が答えようとしたところで捜査員が彼らのいるパトカーの側へ駆け寄ってきた。
「何だ?」
 伊吹がドアを開けて尋ねると、
「緋宮が司法解剖を拒んでいまして」
「やれやれ」
 来生は肩をすくめて伊吹に視線で促した。
「まずは緋宮の説得が先だな」
「そうだな」
 彼らは並んでパトカーから降り立って緋宮の待つ現場へと向かった。

  2

 本庄が言った通り、本館から距離のある離れの地下。チェーンの壊れた扉の前に緋宮はいた。捜査員たちは困り顔であるが、ひとまず指紋の採取などに動いているようだ。
 緋宮は三十代半ばを少し過ぎた程度の女性で、切れ長の眼が印象的な美人であった。しかし蒼白な顔には涙の痕がくっきりと残り、眼差しはどこかうつろである。
「その司法解剖とやらをしたところでどうなりますの? 教祖様が帰ってくるとでも?」
 細い体を震わせて緋宮は言う。
「そうは言いますが、緋宮さん、司法解剖はご遺族の意思とは関係なく行われるもので――」
 来生が穏やかに宥めているのを聞きながら、伊吹は部屋の中に入った。これもまた本庄が言った通り、ごくごく普通のマンションの一室のような作りである。廊下の端に置かれた担架には白いシーツを被せられた遺体がある。伊吹は軽くシーツをめくった。
「――?!」
 息を呑む。
 シーツの下にあったのは、まだ十代前半と思われる少年の体だった。きらきらと長く零れている髪は白銀色。生前の顔立ちはきっと美しかっただろう。もしかすると北欧系の血が混じっているのかもしれない。
「名前は?」
 側にいた捜査員に尋ねると、歯切れの悪い答えが返ってきた。
「それが……戸籍に登録されていないようなんです」
「何?」
「どうやら緋宮が母親らしく、それは彼女も認めているのですが」
 言われてみれば彼女に似た面影はある。伊吹は続けて尋ねた。
「父親は?」
「分かりません。ですが、日本人ではないでしょうね……」
「そうだな」
 ため息をつき、伊吹はシーツを元に戻した。
「部屋に何か、変わったものはあったか?」
「あ、はい」
 捜査員は伊吹をリビングルームに案内した。テーブルの上に置かれた二つのマグカップ。
「一つは教祖が飲んだものらしいですが、もう一つに関しては指紋も口をつけた痕も、完全に拭われています」
「ということは、誰かがいた可能性があるわけだな? 少なくとも、彼が死ぬ前には」
「ええ。ですから他殺の可能性もあるかと」
「……ああ」
 頷いた伊吹は、教祖のものでない方のカップの側に置かれた二枚の紙片に気付いた。
「これは?」
 捜査員が手袋をはめた手で持って伊吹に掲げて見せた。
「トランプです。スペードの十と三」
「トランプ?」
 見覚えがある――と伊吹は顔を近づけて、あっと小さく叫んだ。桐生の持ち物で、何故かスペードの十三枚だけなくなっていたトランプと同じ柄だった。あんな古いアニメ柄のトランプがそうあるとも思えない。
「伊吹警部?」
「あ、いや……」
 伊吹は首を横に振った。今ここで捜査員に説明しても仕方がない。
「死因は窒息で、おそらく青酸カリを用いたものと思われます」
「コーヒーに混ぜて?」
 それなら他殺かもしれない――と思う伊吹の目の前で、捜査員は首を横に振る。
「コーヒーからは検出されていません。どうやらコーヒーの後に水で飲んだのではないかと」
「水で?」
「死体の側にグラスが落ちていました」
 伊吹は苛立ったようにかかとを軽く鳴らした。
「……ここに教祖と一緒にいたのは誰なんだ? 目撃者は?」
「いえ、今のところはまだ」
 捜査員がふと視線を伊吹の横へ逸らす。伊吹が振り向くと、背後に来生が立っていた。
「何とか彼女、引っ込んだよ」
 やれやれ、といった表情で来生は肩をすくめて伊吹を見る。
「何ていって説得したんだ?」
「大したことは言っていないよ。向こうがさ、『司法解剖に何の意味があるんだ』みたいなことを言ってたんだけど、こちらはそれが仕事だからって突っぱねて。情に訴えたって仕方がないしね」
「ふむ」
「まあ、彼女の言うことも一理あるとは思ったんだけど」
「一理あるって?」
「大切なものの体を壊されるのは、確かに辛いことだと思う」
「…………」
 伊吹は黙る。
「それでも……やらないわけにはいかないだろう? 僕らの仕事だ」
 来生はそう片付けて伊吹に向き直った。
「それで、どう? 関連はありそう?」
「トランプ」
「え?」
 聞き返す来生に、伊吹はもう一度繰り返した。
「トランプだな」
「カップに置いてあった、あれ?」
「そう。あれは、ロザリオ館で紛失したものと同じだと思う」
「それがなんでこんなところに? しかも二枚だけ?」
「分からん」
 伊吹は首を左右に振ってから、来生を見つめた。
「とにかく……最後に教祖に会った人間を探さなければな」
「それなんだけどね。指紋も残していないし、唾液すら残さない徹底ぶりだから……」
 マグカップの底まで拭われていたことに対する言葉だろう。伊吹は嘆息した。
「何はともあれ、やはりこっちのヤマとも関係ありそうだ」
 口を開こうとした来生の側に、先ほどとは別の捜査員が駆け寄る。
「教祖のものと思われる携帯電話が発見されました」
「携帯電話?」
 来生は鸚鵡返しに聞き返し、手袋をはめて受けとった。
「……なんでこんなものが? 外との交渉はほとんどなかったんだろう?」
「母親との連絡用じゃないか?」
 来生は着信履歴と電話帳を確認する。その携帯電話に登録されていた番号は二つのみ。一つは伊吹の言ったとおり母親、緋宮の名が記されていた。頻繁に連絡をとりあっていたのだろう、発着歴のほとんどをこの番号が埋めていた。
 そしてもう一つはこの一日だけ使われていた番号で――。
「……『桐生千影』?!」
 来生と伊吹は異口同音に叫んだ。