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第一章 青い邂逅―missing you― 1~3

暗く果てなき死のねむり、われの生命に落ち来たる。

  1

 車もまばらな、山あいを縫う高速道路。そのゆるい曲線の上を、シルバーの車体がかなりの勢いで走り抜けていく。スピードメーターは百キロ毎時を大きく超えた所を指していた。
 助手席に座っているのは、二十歳前後の若い青年。彼は口を開くと同時に、窓から吹き込む風に喉を圧迫されてむせ返った。彼の名を七条草摩という。
「あのさ、桐生」
「何です?」
 声をかけられたドライバーは桐生千影。ダークグレイのジャケットを着込み、細い銀縁の眼鏡を掛けている、三十代前半の男だ。もう見慣れたはずの草摩が気後れしてしまうほどに整った、端正な横顔。レンズの奥の眼は髪と同じ、深い闇色だった。
 草摩の親戚にあたる割に、彼とは似ても似つかない。草摩の活気に満ちたブラウンの瞳は時折金色にも見えて、夜を纏う桐生の瞳とは対照的に眩しいほどの生気に溢れている。だが今、草摩はその瞳を翳らせていた。
「もうちょっとスピードダウンできないのか?」
「草摩君、怖いですか?」
 草摩に見えている方の横顔で彼を気遣うように微笑んでみせるが、それは草摩の声を荒げさせただけだった。
「怖い怖くないの問題じゃないだろ。俺はまだ親父のところには行きたくないんだって」
「…………」
 父親のことを口にした草摩に、驚いたように眼を大きくした桐生は、少し首を傾げてくすっと笑った。
「分かりました。少し下げます」
 メーターの角度を徐々に狭め……、だが九十度を大きく越えたところで止める。ちょうど百キロ。
「下げたうちに入らないぞ!」
 風に乱される明るい色の髪を手で抑えつけて叫ぶが、
「大丈夫です、僕今まで無事故ですから」
 桐生はのほほんとした笑顔で言うだけだ。草摩はさらに眉を寄せた。
「今までがそうだったからって、これからはどうなるか分からないだろ?!」
「じゃあ、言い直します」
 桐生はちらりと草摩のほうを見遣った。
「これからも無事故」
「……断定?」
 胡散臭そうに草摩が尋ねると、桐生は表情を変えずに続けた。
「だったらいいなあ、なんちゃって」
「お前は……」
 草摩は唸り、会話を諦めたのか、ぷいと顔を窓の外に向けた。この男――桐生と話しているといつもこんな調子だ。
 七条草摩、十九歳。今更ながらに父親の死を恨めしく思う今日この頃だった。
 
 
  2

 それから間もなく、彼らはサーヴィスエリアに車を止め、少し遅めの昼食を取ることにした。
「何食べます?」
「カレー」
 機嫌の悪い草摩はできる限りぶっきらぼうに答え、まだ店の前に置かれたディスプレイを眺めている桐生を放って店に入った。
「あ、草摩君」
 桐生が追いついて来るのを背中で感じながら、ウェイトレスに指を立てて「二人」であることを示す。
「草摩君、カレーライスっていってもカツカレーとチキンカレーと茄子と野菜のカレーと……、それからあともう一種類くらいありましたよ? どれにします?」
「どれでもいいって、そんなもん……」
 吐息と共に呟くと、草摩は席についた。腹を立てる甲斐がなさ過ぎて、草摩の怒気はみるみるうちにしぼんでいく。実際、桐生の運転は危なげないし、そう心配する必要もないのかもしれない……。
「僕はお子様ランチがいいな」
「やめとけ。変人だと思われ――いや、バレるぞ」
「バレる?」
「いや、それはともかく。量が少な過ぎるだろ。やめとけって。それに、ふつうお子様ランチって小学生低学年までを対象にしてるものだし。断られるんじゃないのか?」
 桐生は細身であまり良く食べる方ではないが、それでも限度というものがあるだろう。背も高いし、れっきとした三十過ぎの成人男性なのだから。
「まあ、言うだけ言ってみましょう」
 桐生は軽くそう請け合うと、片手を挙げた。
 草摩はちらりと周りを観察した。こちらに――というより桐生に視線を向けている女性客が何人か。さらに一人で十分事足りるものを、三人ものウェイトレスが競いあうようにしてこちらに向かってくる。草摩はやれやれとため息をついた。いつものことだが、桐生は向けられる女性の熱視線に気付いているのかいないのか、飄々と眼鏡を外して拭いている。
「えっと、草摩君は結局何カレー? カツカレーか、それとも……」
 一番先に来たウェイトレスに、桐生は眼鏡を掛け直してオーダーを始めた。草摩は軽く頷く。
「あ、それでいい」
「じゃあ、僕はお子様ランチで。構いませんか?」
「…………」
 ――言いやがったよ、こいつは。マジで。
 桐生の台詞なのに、草摩の方が顔を赤くしてしまう。ウェイトレスは眼を瞬かせていたが、敢えて聞き返しはしなかった。それだけが救いだ。
「それと、食後にコーヒーを」
 桐生だけが何事も無かったような顔でそう締めくくり、メニューをはい、とウェイトレスに手渡した。
「かしこまりました」
 桐生がさりげなく見せた笑みに頬を染めて、ウェイトレスが立ち去る。興味津々で見守っていた仕事仲間が、戻ってきた彼女を取り囲んで華やいでいた。
「お前さあ……」
「何です?」
「それ、伊達だろ? だったらいっそサングラスにすれば?」
 ――こんな変人に熱を上げる女性たちが可哀相だ……とまでは言わない。
「ふだんからサングラスをかけるのはちょっと……。それに、視力はそれほど悪くないんですけど、伊達眼鏡ではないんです」
 桐生は眼鏡をもう一度外し、自分の人差し指で右眼を指して見せた。
「乱視が酷いんです、こちらだけ。だから矯正しないと……」
「え、そうなの?」
 草摩は驚いた。そんなこととは知らなかった。家では裸眼でも何食わぬ顔をしているから、てっきり伊達眼鏡なのだと思っていたが……。
 桐生に引き取られてからまだ一ヶ月も経たないのだから、彼のことを何も知らなくとも無理はない。草摩は父親が死ぬまで「桐生」の「き」の字も聞いたことがなかった。桐生は草摩の生後すぐに亡くなった母親の、従姉妹の息子にあたるのだという。
 東京で梅の咲く頃に父の葬式があって……、今は桜が刻々と蕾を膨らませている。長い時間が経ったような、まださほど経っていないような。
 珍しく沈んだ面持ちで黙り込んだ草摩から視線を外し、桐生は眼鏡を掛けなおした。こういったとき、桐生は草摩に何も言葉を掛けない。むしろ彼の世界からできるだけ遠ざかろうとするかのように、気配を引く。いつもは傍若無人で常識のない振る舞いをするのに、変なところで気を回す男だ。草摩が、父親の遺言にあったというだけで見ず知らずの桐生の元に身を寄せたのは、そういう桐生の気遣いを感じ取ったからだった。誰にせよ、他人の側で生きるのなら、それ相応の気遣いが必要になる。それが桐生なら、楽に生きられそうな気がした。
「あの、お客様」
 先ほどとは違うウェイトレスの声がした。桐生が見上げると、彼女はおずおずと手にしたバスケットを差し出してくる。草摩が覗き込んだところ、いかにもちゃちなおもちゃが幾つか並んでいた。
「これは?」
 桐生が問うと、草摩と同い年くらいであろうウェイトレスはなぜか顔を赤らめた。
「その……おまけです」
「……ああ」
 桐生は破顔した。お子様ランチによくある、おまけのおもちゃというやつだろう。
「草摩君、どれがいいですか?」
「……いらねえよ。断っとけ」
「うーん、でもせっかくですから……」
 形の良い眉をよせて考え込む。真剣に悩んでいるらしい。こいつは本当に三十を超えた男なのか、と草摩は眩暈がしそうだった。
「あ、そうだ、これにしましょう」
 桐生が指差したのは、紙ケースに入ったトランプ一揃え。今はもう放映されていないのではないかと思われるくらいに古いアニメの絵柄だった。
「これなら皆さんで遊べるでしょうし……」
「トランプくらい叔父さんのところにあるんじゃねえの?」
「まあまあ」
 桐生はそう言うとそれを鞄に入れた。おりしも運ばれてきた皿の、それぞれ一口サイズに盛り付けられたパスタや国旗の立ったオムライスを食べ始める。草摩は一つため息をついて、自分もカレーに手をつけた。
 ――気がつくと、随分と空腹だった。

  3

 彼らが今向かっているのは、N県内山麓にある別荘地である。草摩の父、七条一騎の親友であり妹婿でもある東慧一の所有する別荘があって、彼らはそこに招かれている。
 一騎は警視庁のいわゆるキャリア組で、H県警本部長に就任して一年後に殺害された。――犯人はまだ捕まっていない。
「叔父さんはと父さんと同期で、今はO府警の本部長なんだ」
「そうですか」
「父さんが殺されたときも叔父さんが側にいて……」
 再び車に乗り込み、桐生は強引なハンドルさばきで高速道路を飛ばしている。そのスピードとはそぐわぬ穏やかな声が、草摩に語り掛ける。
「O府警も今なかなか大変だそうですね?」
「ああ、『オリーブの恵』だろ?」
 草摩は苦笑を浮かべた。
 「オリーブの恵」とはN県内に本拠地を持つ宗教団体で、さほど信者数が多いわけではないのだが、最近何かと世間を騒がしている。O府にはその国内最大級の支部があり、山中の本拠地よりもむしろ都会にあるその支部の活動が活発であるという。
「教祖が殺される、って騒いで警察に信者が押し寄せてきて。脅迫があったのか、っていうとそれも定かじゃないみたいだったし」
 草摩は連日のように流れているニュースの内容を思い出した。そもそも実際の教祖の名前すら定かではないという。法人に登録される際には、どうやら教祖の御言葉を告げる役職の巫女を教祖としたらしいが、実は教祖は別にいるらしいとか何とか……。
「教祖のこと、誰も知らないなんておかしいよな。なんでそんな怪しさ全開の奴の言うこととか信じるわけ?」
「その教団の教義は何なんです?」
「そもそも『オリーブ』っていうのは、旧約聖書に出てくる『ノアの方舟』の話で、ノアが方舟に乗って洪水を乗り切った後、水が引いて陸地が現れたかどうかを確かめるために放した鳩が咥えて戻ってきたのがオリーブだった、っていうところからとってるらしい」
「ほう?」
「それ以上のことは知らない。俺、信者じゃないし」
「新新興宗教の教義は大体曖昧ですよね」
 桐生は意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「『世界で一番不幸な私を、誰か幸せにしてください』っていうニーズはいつだってありふれていて、それにこたえるのが教祖なのではないでしょうか。そして、その教祖を信じるものだけが救われるんだそうですね。その辺りは大体どの教団にも共通して言えるような気がします」
「うーん」
 草摩は唸った。
「その教祖が幸せにしてくれるってか? 俺は信じないなー」
「信じてもらっては困ります」
「あ、そりゃそうか」
 草摩は笑って桐生を眺めやった。やがて、その笑いを引っ込める。真剣な眼差しを軽い口調に誤魔化して、尋ねた。
「なあ、もし……、俺が怪しげな宗教とか、そういうのに入信して家出しちゃったら、どうする?」
「…………」
 桐生は眼を瞬かせた。真っ直ぐに前を向いたまま、くすっと口元をゆるめる。
「連れ戻しにいかないといけませんねえ」
「来るの?」
 意外だなあ、と呟く草摩に、桐生は一瞬だけ視線を流した。
「ええ……勿論ですよ」
「……そっか」
 草摩は口を噤んだ。――何となく、嬉しい。
「さっきの『オリーブの恵』の話ですが……、そもそもどうして教祖が殺される、なんて信者が騒ぎ出したんでしょうねえ」
 桐生が話題を変え、草摩はほっとしながら口を開いた。
「うーん、それはよくわかんないけど……。ひょっとしたら教祖のところには犯行予告でもあったのかなあ」
「教祖が誰なのかも皆知らないのに?」
「知らないのは信者たちで、一部の人間は知ってるんじゃねえの? ほら、そいつの家族とかは知ってるだろうしさ」
「なるほど」
「そこから情報が漏れて……って、そもそも誰に殺されるんだ?」
「さあ。誰なんでしょうね」
 草摩は助手席に深く身を埋めるようにして眼を細めた。
「『オリーブの恵』って、結構前々から悪い噂には付きまとわれてるらしいんだよ」
「どんな?」
「良くあるやつだけど、脱会しようとした信者を拉致した、とか。あと、逃げ出した信者を自殺に偽装して殺したんじゃないか、とか。金銭絡みよりは、教団を抜け出そうとする人たちとのトラブルが多いらしい」
 殺人事件では容疑者として逮捕された人間がいるが、黙秘していて教団との繋がりは見えてこないのだという。
「良くご存知ですね」
「叔父さんにこの前電話した時、言ってた。警察も動きたいらしいんだけど、どうも上がゴーサインを出さないんだって」
「上って?」
「さあ……本部長の叔父さんが言うんだから……余程……。でも、その辺はよく分からない」
「実際、家宅捜索や強制捜査は裁判所の認めた令状などがないとできませんからね」
「任意捜査、じゃ何も出てくるはずないし」
「上が動かないというのは、意味ありげですね」
 桐生はそう言うと、まさしく意味ありげな笑みを浮かべた。
「もしかすると、その教祖というのは……」
「……つまり、政治家とか、そういう奴の肉親かもしれないってこと?」
「政治家、それも与党の大物政治家。もしくは警察関係者、とか」
「それはさすがにでき過ぎだろう」
 草摩は苦笑を浮かべた。
「単に証拠が足りてないのかもしれないだろ」
「まあ、そうですが……。そうだったら面白いかなって話ですよ」
「面白い……かなあ」
 自分がその信者の家族ならやりきれないな、と思って顔を翳らせた彼に、桐生は微笑みかけた。
「さ、あと三十分ほどで着きますよ」
「やっとか」
 疲れを見せて呟く。桐生はさりげなく付け加えた。
「もう少しとばせば時間を短縮できますけど……」
「いい。このままで」
 相変わらずスピードメーターの針の触れ幅は大きい。
「そういえば、東さんの別荘には確か面白い名前がついていましたね」
「なんだっけ。えーと……」
 草摩は少し考え込んだが、やがて手をポン、と打った。
「ロザリオ館」