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第一章 青い邂逅―missing you― 8~10

  8

 桐生はシャワールームから出て、改めて部屋を見渡した。三階の客室はすべてほぼ同じ作りなのだと慧一が言っていた。古風なマントルピースに小作りなテーブルセット、そしてシングルベッド。水道はシャワールーム内にしかないようだったが、飲料用としては窓際のマントルピースの上に水差しがあった。ボヘミアングラスだろうか。こういったものに桐生はあまり詳しくないが、中身は井戸水を汲み上げた、特別美味しい水なのだそうだ。
 水差しに、そっと手を触れてみる。
 不意に、草摩の顔が脳裏に浮かんだ。生前の一騎に似た、真っ直ぐな眼差し。利発そうな整った顔は七条一騎――草摩の父親の面影を宿している。
 一騎の葬式の日、草摩は痛々しいほどに毅然としていた。青ざめた顔も、白く噛み締められた唇も、同情や哀れみをきつく拒絶していた。
 ――あれは自分だ。
 桐生はそう思って彼を見つめた。そして今の自分の位置に立って彼を見守っていたのは一騎だった。過去の記憶に流されるように、桐生は草摩の肩にそっと手を置いた。同じくして、彼の肩に一騎の手の感触を思い出して……。
 けれど、草摩と自分は違う。自分が家族を失った経緯と彼のそれも違う。
 ――草摩君が、いつか全ての事情を知ったら……。思考を振り払うように、グラスを傾ける。一瞬、桐生の眉がきつく寄せられた。
「草摩……君」
 呟いた舌の上、鉄錆びに似た味がした。

  9

 友早はしばらくして降りてきたが、眞由美と桐生はいくら待っても戻ってこなかった。結局、彼らは皆十二時を待たずに部屋にひきとることになった。
 佳世が部屋割の説明をする。
「草摩君は、二階の青の廊下の部屋。それから、辰巳さんと島原さんは、同じ階の赤の廊下。そこは部屋を二つに区切ってあって、ドアもちゃんと二つあるわ。ちょっと手狭なのは許してね」
「はい」
 頷いて、それぞれキーを受けとる。
「黒の廊下にも客室はあるんだけど、暗くてあまりいい雰囲気ではないから使っていないの」
「我々と友早の部屋は二階の白の廊下にある。何かあったらいつでも呼んでくれ」
 慧一はさらに言葉を続け、
「部屋の内側からチェーンキーもかけられるが、まあ必要はないと思うよ」
「お部屋には水差しがあるから、そこから水を飲んでちょうだいね。井戸水だから美味しいわよ」
「分かりました」
「それじゃあ、お先に」
 辰巳と島原が並んで階段のほうへと歩き出す。階段は東西南北のそれぞれ端に一つずつ、計四ヶ所にあった。友早も挨拶して自室に向かう。草摩もそれに倣おうとしたところで、慧一が声を掛けた。
「草摩君、少しいいかな」
「私、先に休ませてもらいますわね」
 佳世に頷いて見せ、慧一は草摩に向き直る。
「桐生さんは、もう休まれただろうか」
「あいつ、いつも夜は結構遅くまで起きているみたいですよ」
 医者という職業柄、体力はあるのだろう。医学書やら医学雑誌を読んでいたり、もしくはパソコンに向かっていたり、という姿を夜遅くまで見かける。
「だったらちょうどいい、少し挨拶をしたいんだがね」
「挨拶?」
 聞き返す草摩に、慧一は頷く。
「ほら、私は君の叔父だし……。一騎の親友でもあったわけだから。実際、私も桐生君が一騎とどういう関係だったのか、よく知らないんだよ。少し聞いておきたい」
「ああ……、そうですか」
 叔父は草摩の保護者ではないのに、どうしてそんなに自分に干渉しようとするのか――そんな自分の思考に気付き、申し訳なくなった。叔父の好意は分かっているはずなのに、それをどこかわずらわしいと感じる自分がいた。父の死後、叔父に世話にならなかったといえば嘘になる。しかし、実際のところ実務のほとんどをこなしてくれたのは桐生だった。そんなことより何より――今の彼にとっては桐生が新しい家族なのだ。多分、そのことを叔父は理解していない。
 だが、草摩は黙って叔父に頷いた。慧一は草摩に問う。
「草摩君も一緒に来てくれないか?」
「俺が同席していいんですか?」
 草摩は怪訝そうに慧一を見上げる。慧一は苦笑した。
「むしろしてもらいたいね。桐生君のキャラクタが、私はまだ今一つつかめない。緊張するよ」
「つかめてないのは俺も同じですけどね」
 ぼやきながらも草摩は頷いた。どうせ、眠る前にもう一度桐生のところに喋りに行こうかな、と思っていたところだ。何となく今日は疲れた。
 ――桐生といるより、友早たちといる方が疲れる。桐生もまた別の意味で疲れる相手だが、こんな風に気疲れすることはない。桐生には本音で話せるが、ここではそうもいかない。しかし、彼が草摩の家族になってからたった一ヶ月の間しか経っていないのに、こんなに気を許している。きっと、彼は自分とうまくやれるようにと努力してくれたのだろう。では、自分はそんな努力をしてきただろうか……。
「草摩君?」
 はっと気が付くと、慧一が不思議そうに草摩を見ていた。
「どうしたんだい? ぼうっとして」
「いえ……ちょっと、疲れたみたいで」
「そうだな、ここまで遠かったんだろう」
「そうですね」
「そうだ」
 慧一が不意に手をぽん、と叩いた。
「エレベータを使ってもいいかな」
「……え?」
「いや、三階には普段なかなか行かないし、家族にも不評でね。全然使ってもらっていないんだよ」
 慧一は子供っぽい不満顔を作る。
「せっかくお金をかけたんだから、もったいないだろう?」
「まあ、そうですね」
 二階まで階段で上り、そこからエレベータのある中央ホールまで戻る。確かに面倒くさい。
「でも、なんでエレベータをつけようと思ったんです?」
「いや……昔からエレベータのある家が憧れだったんだ。友達で大金持ちのやつがいて、そいつの自宅にはエレベータがあった。それが羨ましくってねえ」
 慧一はそう言って笑う。
「自宅にはつけられないから、せめて別荘にはと思ったんだ。業者に見積もってもらったら、意外とそれほど高くなかった。結構凝った造りのエレベータなんだがね。ほら、見てごらん」
「……?」
「東西南北全面にドアがあるんだ」
「……本当に凝ってますね」
「せっかくの対称性を壊したくないからね」
 銀色に光る円筒形の北側が口を開け、二人はエレベータ内部へと入った。
「安物だから、少し気分悪くなるかもしれないが……」
 慧一が言う通り、動き始める時思わず草摩はよろけた。慌てて慧一が支える。
「古いエレベータはみんなこうだったんだが」
「…………」
 確かにあんまり使いたくないかもな、と草摩は思う。
 だが、慧一の表情は明るい。新しく買った玩具を初めて使う子供のようだ。意外に慧一には子供っぽいところがあるのかもしれない。
「桐生君、起きていてくれるといいんだがね……」
「ええ……そうですね」
 あの、独特の不快感――浮遊感のような、それを伴って三階に着く。
「叔父さん、やっぱりこれあんまり……」
 草摩は眉をしかめて思わずそう呟いた。
「……やはり、そうか」
 慧一はため息をついて宙を見上げた。

  10

 三本の廊下は青・赤・白にライトアップされている。そういえばフランスの国旗の色も青・赤・白だ。自由と博愛と……平等だったかな……。
「桐生君の部屋は青だ」
「じゃ、俺のちょうど上なんですね」
 草摩は手荷物を持ったまま慧一の後に従う。エレベータを出たところから右に曲がり、ドアの前に立って慧一は控えめにノックした。
「…………」
「寝てるのかな?」
「さあ……、でもいつもはこの時間は寝ていないですよ」
 草摩はそう答え、ドンドンと激しくドアを叩いた。
「……乱暴だね」
「いつもこんなもんです」
 だが、返事はなかった。
「桐生!」
 声を掛けてみるが、何の音も返ってこない。
「やはり、寝ているのかな?」
「…………」
 草摩はドアノブを回してみた。意外にも鍵はかかっていない。
「…………?」
 二人は顔を見合わせると、そうっとドアを開けようとした。
「うわ!」
 途中までは開いたものの、ガクンと引っ張られる。内側からチェーンが掛けられていた。
「……内鍵だけかけてある……のか?」
 慧一の指摘に、草摩はますます怪訝そうな顔になる。
「中、見えるか?」
 どうやら中は電気がついたままになっているらしい。几帳面な桐生らしくないことだ。草摩は部屋の内部を覗き込み、絶句した。
「き――」
 声が喉から出てこない。
「草摩君、どうした?!」
 草摩の見開かれた眼に映った光景。それは、こちら向きに血を吐いて倒れている桐生の姿――。
 いや――。
「あ……」
 草摩の頭を激痛が走り抜け、悪寒に体が震える。

 ――あれは――。

 ぬるりとした血の感触。
 虚ろな眼窩。
 微動だにしない弛緩した筋肉。
 冷えていく躯。
 青ざめた肌。
 
 ――父さん――。

 悪夢のような記憶が脳裏に蘇る。草摩はドアの隙間に飛びついて叫んだ。
「桐生! 桐生!」

 ――父さん! 父さん!

 草摩の頭上から覗き込んだ慧一が絶句している。
「こら馬鹿、起きろって、桐生!」

 ――起きろよ、父さん! なんでこんな……!!

「草摩君、これは警察を呼ばないと――」
 慧一の声も耳に入らない。彼の腕を押さえつけようとした慧一の手を振り払い、草摩は叫び続けた。
「桐生!」
「…………」
 背後に立つ慧一は強張った顔で草摩を見つめる。草摩の眼は異様な光を放ちながら、熱い涙を滾らせては零していた。青い光源の中、その二つの瞳だけが金色の輝きを放っている。
「桐生!」
 桐生の身体はぴくりとも動かない。草摩は喘ぐ息を思い切り吸い込んだ。
「きりゅ――」
 不意に喉が締め付けられ、呼吸が一瞬止まる。鼻孔を突き抜けるような刺激を感じたと思った途端、草摩は気を失っていた。