プロローグ
――その事件が、出会いと別れのきっかけだった。
一年前に赴任したばかりのH県警本部長、七条一騎は、同時にO府本部長に昇進した同期のキャリア、東慧一と共にU駅前の歩道橋を歩いていた。今春からK大に通う一人息子の下宿を探しに行くつもりで、駅で慧一と別れることになっている。
昼下がり。春のうららかな日差しの降り注ぐ、人通りの多い時間帯だ。
一瞬ぼうっとしていた隙に、一騎は正面から人にぶつかった。ニット帽をかぶった、特にこれといった特徴のない男。一騎よりは若いだろうが、彼の息子の草摩よりは随分年上だろう。したたか腹の辺りを男の体とぶつけて彼はよろける。打ち所がよほど悪かったのか、体中がしびれたような気がした。
「痛っ」
と呟くと、隣を歩いていた慧一が驚くほどの大声を上げた。
「一騎! どうしたんだ、その腹は!」
「え……?」
聞き返すと同時に慧一が彼の腹に手を当て、ほどなく激痛が彼を襲った。
「さっきの男だ! さっきの奴が刺したんだ!」
慧一は血だらけの手で一騎を抱きとめ、辺りを見回し叫んだ。
「誰か! 救急車を! それから犯人がそっちに逃げたぞ!!」
歩道橋の上は突如大混乱となり、騒然とした。携帯電話を取り出す者、野次馬のように彼ら二人を取り囲んで騒ぐ者、悲鳴をあげて逃げるもの――何故か他人事のように、一騎はぼうっとそれを眺めていた。歩道橋の地面が暖かい。いや、それに横たわっている自分の体が冷えていっているのかもしれない。
――腹にナイフが刺さって、血が溢れている。それを自覚してから、痛みはいっそう強くなっていた。だが、どうすることもできなかった。
――死ぬのか。
一騎の視界が曇り始める。
――草摩を一人にして、死ぬのか。
母親は草摩が生まれてすぐに他界している。草摩は自分以外に頼れる身内を持たない。
「そ……うま」
小さく呟いたが、慧一には聞こえなかったようだ。慧一は辺りの人々に様々な指示を飛ばし、腹の傷を止血しようと懸命である。しかし……。
――そうか。
不意に一騎は悟った。悟ると同時に、彼の唇から乾いた笑いが漏れる。
「一騎?」
慧一が眉を寄せて一騎に顔を近づけた。
「どうした?」
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。聞き慣れたパトカーの音がそれに重なった。
「……ロザリオ」
一騎は呟いた。
「……ロザリオ、……」
せき込んだ彼は、下腹部からの感覚が全くなくなっていることに気付いた。
これはもう――駄目だ。
言葉を選びなおし、告げる。
「……お前が」
サイレンの音がけたたましく鳴り響き、一騎の言葉を覆い隠す。
「……殉教……か」
――七条一騎は、このまま意識を回復することもなく死亡した。
犯人と思しき男の行方は杳として知れず、凶器からも一騎と慧一の指紋しか発見されなかった。
通り魔なのか、それとも怨恨か。
警察の捜査は行き詰まり、そのまま一ヶ月ほどが経った。
彼の最期の言葉はそのまま誰にも伝わることなく消えてしまった。しかし結果的に、事件は一騎の意図を超えて人々を巻き込んでいく。
そしてその中核をなしたのが、一騎の息子である七条草摩。そしてもう一人――桐生千影。
この二人が、物語の主人公である。