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開かずの扉

 その中学校には、開かずの扉があるという噂があった。
 生徒の立ち入りが禁止されている屋上へと通じる階段を登ったところに、小さな扉が取り付けられているのだ。屋上へ通じる扉と、ちょうど対面する位置である。
「懐かしいですね」
 七条草摩は目を細めて笑った。近くを通りかかったため立ち寄ったのだが、草摩の在学当時から勤めている教師がまだ何人かいた。犬飼もそのうちの一人である。
 彼らは英語準備室という小さな部屋にいた。この中学にはそれぞれの教科ごとに準備室という部屋があり、その教科を担当する教師たちの控え室として使われている。
「君を担任したのは、もうどれくらい前になる?」
「一年生のときですから……六年くらい前かな」
「あの頃から君は変わっていたね」
「そうですか?」
「頭の良い子だと思ったよ」
 ――K大に入学したと聞いて、とても嬉しかった。
 そう言うと、犬飼は優しく微笑んだ。
 草摩は少し照れたように笑って、やがて小さく声を上げた。
「そういえば、あれがあったのは先生に担任されていたときでしたか」
「あれ?」
「ええ。一度、開かずの扉に人が入って出てこれなくなったことがあったでしょう」
「ああ」
 犬飼は頷いた。
「そうそう。内側から鍵もかけないのに扉が開かなくなったって、大騒ぎになったね。しかもあそこの鍵は紛失していて……」
「そうです」
 草摩も頷き返す。
「俺、実はあの事件の真相を知ってるんですよ」
「真相だって?」
「そうです」
 もうそろそろ時効かな、と草摩は呟いた。
「まず、当時のことを思い出してください――」
 
  ◇
 
 六年前、開かずの扉の内部に迷い込んだのは寺沼洋平という少年で、草摩のクラスメイトだった。
 開かずの扉の噂は当時から有名で、草摩の友人たちは一様に興味を引かれていた。
「そんなこと、あり得るのかなあ」
「ないだろ、普通」
「何で断言できるんだよ。あるかもしれないじゃん、なあ?」
 そして友人たちの一人が草摩に意見を求めた。
「七条はどう思う?」
 思えばあの頃から友人たちは草摩に一目置いていたらしい。あいつは頭が良くキレる、そんな印象があったのだろう。
「扉が開かないことに不思議はないんだけど、開いたり開かなかったりするのなら不思議だな」
 多分、そのとき草摩はそう答えたと思う。
 ――友人たちはそれもそうだと言い、それからどういう話題の変遷があったのか忘れたが、最終下校時刻を過ぎた後、こっそり確かめてみようという結論に達した。
 
 午後六時を過ぎた頃。無論本来この時間まで校舎に残るのは禁止である。
 しかも立入り禁止区域を侵すのだから、総勢六人もの生徒がぞろぞろうろつくわけにはいかない。
 そこでまた話し合いが行われ、結果、洋平が実験台として行ってみることになった。
「気をつけろよ」
「ちゃんと戻ってこいよな」
 無責任な掛け声に見送られながら、洋平の背中は一歩一歩遠ざかっていく。
 踊り場を曲がり、そして彼の姿は視界から消えた。
 四階に残された五人は固唾を呑んで耳を澄ます。
 階段を上っていく足音に続き、ノブを回す音が聞こえた。
「開いたぞ」
 洋平の声が階下に届く。
「入ってみろよ」
 誰かがそう言った。
「やめた方がいいんじゃないか?」
 諌める声もあったものの、
「了解、行ってみる。なんか物置みたいな……」
 洋平は中へと入っていった。
 ――そして十五分。
「なあ」
 草摩は声を上げた。
「いくらなんでも戻ってくるのが遅くないか?」
「あ? まあ、確かに」
「中で居眠りでもしてんじゃねーの」
「扉が開くことは分かったんだし、帰ろうぜ」
 草摩は首を横に振った。
「一応誰か見に行った方がいいと思う」
「あ、俺行ってくるわ」
 一人が身軽に階段を駆け上り、扉のノブをガチャガチャと回した。
「あれ? おかしいな……」
「開かないのか?」
 階下から草摩が呼びかけると、
「開かない。鍵でもかかってんのかな? おい、寺沼! 寺沼ってば!」
「おーい」
 洋平の声が響き、皆は口を閉じた。
「開かないんだよ。俺もさっきから出ようとしてるんだけどさあ」
「何だって?」
 草摩は呟き、眉根を寄せた。
 ――そんなまさか。あり得ない。
「お前、間違えて鍵かけたんじゃねーのかよ」
「かけてないよ」
「じゃあどうして……くそ」
「おい、これやばいんじゃないか?」
「先生呼んでこようぜ」
「ちょっと待って。俺も見てくる」
 草摩は友人たちを制し、階段を上った。
 ドアの前で今もガチャガチャとノブを回したり扉を押したり引いたりしている友人に場所を譲ってもらい、草摩はノブを注意深く確認した。
「おかしいな……」
「おい、七条」
「なあ松本」
 草摩は隣に立つ友人に向き直った。
「下に行って、ちょっと待っててくれよ。先生呼んで来ないとまずいかもしれない」
「お、おう」
 松本は急いで階段を駆け下りた。
「なあ、どうなってんだよ」
「わかんねえよ」
 しばらく上ではノブを回す音や草摩のものと思しき声などが続いていたが、やがてしん、と静まり返った。
 そのまま過ぎること数分、耐え切れなくなった一人が声を上げた。
「おい七条! 大丈夫か?」
「……俺は大丈夫だ」
 ぱたぱたと階段を下りる音、そして踊り場に草摩が姿を現した。皆一様にほっと胸をなでおろす。
 だがしかし。
「けど、寺沼は分からん。さっき扉が開いて中を見たんだけど、誰もいなかったんだ」
「……何だって?」
「先生を呼んできてくれよ。これはもう、俺たちじゃどうしようもない」
 草摩の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

  ◇

「それから先は先生も覚えていますよね」
「ああ」
 犬飼は頷いた。
「私が行ってみたがやはり扉は開かなかった。残っていた数人の先生で色々やっても――」
「そう。扉はびくともしなかった。しかも鍵のかかっている様子さえなかった」
「寺沼君の声もしたりやんだりで、気が気ではなかったよ」
 犬飼は当時を思い出したように眉間に皺を寄せる。
 結局、学校から寺沼の親に連絡が入り――帰宅しているかどうかを確認したのだが、当然帰宅しているわけもなく、勤め先から父親が飛んでくるという事態にまで発展した。
「で、お父さんが洋平に呼びかけていろいろしているうちに、扉が開いたんだったな」
「そうですね」
 草摩は頷いた。
「で、真相というのは? どういうことなんだい?」
「あれ」
 草摩は困ったように首をかしげる。
「今の話で明らかだと思うんですけど」
「……分からないねえ」
「ええとですね」
 草摩は軽く握った拳から人差し指だけをぴんと立てた。
「軽く整理してみますね。はじめ、寺沼は鍵のかかっていない部屋に入った」
 次に中指を立て、人差し指と約二十度の角度を保つ。
「それから、松本が様子を見に行くと扉が開かなくなっていた」
 そして薬指。
「で、俺が見に行ったんですよね。松本が下に降りた後、俺は中に入ることができたけど無人だった」
「……そうだね」
 何が何だか、という様子で首を振りながら犬飼は口を開いた。
「その後我々が行ったときには再び扉が開かなくなっていた。そのとき鍵がかかっていなかったのは確認済みだ。寺沼君はいたりいなかったり、という感じだったね」
「はい」
 草摩は済ました顔で口をつぐんだ。犬飼はやや焦れた様子で彼を促す。
「七条君、そろそろ種明かしをしてもらいたいのだが」
「……分かりました。でもその前に」
 草摩は微笑んだ。
「俺が何を言っても怒らないって、約束してくださいね。俺、ずっとこの話は秘密にしていたので」
 犬飼は深いため息をついた。
「分かった。今更六年前のことを怒っても仕方ない」
「それから、同僚の先生とか当時の教え子とかにも話さないで下さい」
「……了解した」
「それでは、話します」
 草摩はゆっくりと自分の胸に右手を当てた。

「一言でいうと、俺と寺沼が嘘をついたんです」

「何?」
 犬飼は眉を寄せた。
「最初、寺沼はあの部屋に入って自分で鍵を掛けた。松本が見に行ったときは、開かないところを装ったんですよ」
「な、なんだってそんなことを……」
「動機については後でお話します。で、俺は松本の横からドアの様子を見て、内側から鍵が掛けられていることに気付きました」
「気付いたなら、何故――」
「寺沼にも事情があるのかな、と思ったんです。だから松本を先に降ろして、事情を話すように寺沼に言いました」
「事情を話してくれたのかね」
「話してくれましたよ。で、俺たちは考えた。このままじゃ内側から鍵を掛けていることなんて一発で見破られる。特に大人たちはすぐ気付くだろう。だから、一端は扉が開いて俺が無人の部屋を見たことにしたんです。実際は寺沼はその場にいましたよ」
「……君ってやつは」
 犬飼は怒りを通り越した呆れ声を出す。草摩は肩をすくめた。
「内側から鍵を掛けるのはまずいから、彼にはバリケードを築かせることにしました。幸いあそこは物置だから、いろんな物が放置してあった。机とか、ボールらしきものが詰まったドラム缶とかを並べておけば扉は開かない」
「……声を出したり出さなかったりしたのも」
「ええ。それはただ怪奇性を高めてみただけですけどね」
 犬飼は草摩をじっと見つめた。
「約束だから怒りはしないが、君たちは大変に手の込んだ悪戯をして我々に非常な心配を掛けたという訳だね。六年前のこととはいえ、少しは責任を自覚しなさい。済まないとは思わないのかね」
「心配を掛けることが目的だったんですよ」
 草摩は犬飼の目を真っ直ぐに見返した。
「正確には、寺沼のお父さんを心配させることが目的だったんです。だから先生たちには申し訳ないことをしました」
「……寺沼のお父さんを? 何故?」
「先生、覚えていらっしゃいませんか」
 草摩は軽く目を伏せた。
「寺沼のお母さんは、彼が小学五年生の冬に亡くなりました。彼には父親しかいなかった」
「……覚えているよ」
「あの開かずの扉を挟んで対面したとき、寺沼は言ったんです」

 ――俺がここから出て行かなくても、親父は気付かないかもしれない。
 
「何を馬鹿な……」
「俺もそう思いました。でも……」
 ――少し、その気持ちが判るような気がした。
「俺もずっと父子家庭で、しかも父は警察官でした。忙しくて、一週間くらい顔を合わせないこともざらで……だから」

 ――少し、親父を試させてくれ。
 
 そう言った寺沼に協力することにした。
「本当に家出したりするよりはましだと思ったので……」
「まあ、そりゃましだけれども」
 犬飼はこの日何度目かのため息をついた。
「実際、寺沼の親父さんは大慌てで飛んで来られた」
「ええ。だから彼は外に出たんです」

 ――七条、ありがとな。
 
 父親に羽交い絞めに抱きしめられて照れくさそうにしながら、寺沼はそう言った。
「俺自身、親父を疑ったことはありませんでした。ずっと二人で生きてきたし、親父もそういうのには良く気がつく方で、出張先から電話もしょっちゅうくれたから。でも……」
 草摩の頭が徐々に垂れていく。
 犬飼は彼の様子を心配げに見守った。
「俺、今更試したいんです……」
 草摩は呻くように呟く。
「父がもういなくなった今になって……試したいんです」

 ――もし彼を心配してあの世から飛んできてくれるなら、
 
「それでもいいから……もう一度会いたいんです……」

「…………」
 犬飼は優しい表情で草摩を見守っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「君のお父さんは君をとても心配しておられた。保護者会のときにも、個人懇談のときにも感じたよ。それにね」
 草摩の明るい色の髪を強い力で撫でる。
「お父さんは君を良く理解していらっしゃるだろうから、きっと騙されてくれないと思う」
 ――何しろ敏腕の警察官だったのだからね。
 犬飼の言葉を聞きながら、草摩は小さく吹き出した。
「確かにそうですね」
 顔を上げ、笑みを見せる。
「俺なんかじゃ歯が立たないや」
「そう言われると騙されていた私の立場がないわけだが」
「……あ、すみません」
 教え子の笑顔を見ながら犬飼は思う。
 
 これからどんな運命が彼に待ち受けようとも、
 彼の心が開かずの扉に閉ざされるようなことがありませんように……と。