朧に滲む月のように
その夜、一人の大学生が死んだ。
彼の運転していた車が電柱にぶつかって大破――交通事故死である。
血中アルコール濃度が約0.2%と測定されたことから、警察は飲酒運転による事故死と判断した。
巻き込まれた者がいなかったことが不幸中の幸い。
そう結論付けて早々に捜査は打ち切られた。
――ただ一つの謎を残して。
その男、盛野 利樹は飲酒を極端に嫌っていたのである。
その日、彼は部のコンパに出席した後自宅へと帰る途中だったが、いつもどおり彼はアルコールを一滴も口にしていないとのことだった。複数の友人たちがそれを証言している。
『すぐに酔ってしまう上に好きではない』
彼は酒を勧められるたびにそう言って断っていた。
それなのに何故彼は死んだのか――。
「ふむ」
「一騎さんはどう思われますか?」
目の前で穏やかな微笑を浮かべている青年を見つめ、一騎は顎の前で組んだ手の内側に細く長くため息を洩らした。気付かれないようにしたつもりだったが、彼は僅かに反応する。
「どうかされました?」
「いや……」
一騎は苦笑する。勢いに任せてコーヒーショップの名前がプリントされた紙コップを掴むと、それは音も立てずに軽くへこんだ。
「俺は警察官だろ? 普通は立場が逆なんだものでね」
これではまるで自分が尋問を受けているようではないか――一騎はやれやれ、というように肩をすくめた。
青年はにこにこと笑みを崩さない。
「でも一騎さんはこの件には関わっていないでしょう?」
「そりゃあそうだけど」
一騎は元々東京の本庁に勤務しているキャリアである。
妻の実家があるために時折京都に来ることがあり、今回はたまたま時間が取れたので彼に会うことにしたのだった。
彼は澄ました顔で目の前のコーヒーを一口啜った。
「その彼、僕の知り合いだったんですよ」
「……え?」
一騎は一瞬動きを止めた。
青年は表情も口調も全く変わらない。
「盛野利樹は――高校時代の同級生でした」
「…………」
一騎は唖然として口をあけてしまう。
「?」
青年は――桐生千影は、どうして一騎が動揺するのか分からない、というように軽く首を傾げてみせた。
柔らかそうな黒髪がさらりと揺れ、日本人離れした、形の良い鼻が白い頬の上に作る陰影が僅かに動く。
長い睫毛が何度か瞬いて、闇色の瞳がそのたびに揺らめいた。
一騎は彼を少年の頃から知っている。
正確には八年前――彼が十三歳だった頃から、だ。
綺麗な子供だった。
実際、テレビに出ているアイドルグループの少年たちよりも、ずっと整った顔立ちをしていたと思う。
だが何が彼の魅力に華を添えていたかといえば、それは――
(当時は何としてでも認めたくなかったがな)
一騎は胸の中で舌打ちする。
それは今も昔も変わらない。
桐生は常に昏い陰を纏っていた。
神秘的なのだ、とは一騎は言いたくない。
――言ってはならない、と思った。
「一騎さん?」
再び呼びかけられ、一騎ははっと顔を上げた。
記憶の中の少年の顔は、今はずっと成長して目の前にある。
身長も随分伸びて、もうとっくに追い抜かれてしまった。
中学生だった彼が今ではこのK大医学部の大学生である。
――そういえば、何故彼は医者になろうと思ったのだろう……。
「いや、何でもない」
一騎はそう言って首を横に振った。
「友人が死んだって言うのに随分平然としているからな。驚いたんだ」
正直に言って彼の反応を見る。
桐生はそのほっそりとした手を磨かれたテーブルの上に載せていた。人差し指がかすかに動いて早いリズムを刻んでいる。
「友人、というほどではありませんでしたよ」
桐生は首を振りながら微笑んだ。
「高校時代、一度だけクラスが一緒になったことがあったんです。ほとんど話したこともありませんでしたけど」
「…………」
それでも、――と口をついて出そうになった言葉を一騎は飲み込んだ。
「そうか」
とだけ答える。
桐生は言葉を継いだ。
「彼はこの近くのR大学に通っていて、司法解剖はうちの大学の教授が行ったらしいんですよ」
「ほう」
「それで、どうやらあれは単なる事故死ではなかったようなんです」
またしても平然とした声。
一騎は今一度言葉を失った。
「そ……それは一体」
「ある教授が名前を伏せて授業中に言ってたんですけど、僕は知り合いだったんですぐに誰のことだか分かってしまったんですよ」
「そ、それで」
「久々に一騎さんに会うのだから」
桐生は再びコーヒーを啜った。
「お土産代わりに一つ、クイズを用意したんです」
「クイズ?」
「結構難しいですよ? これは」
桐生は笑顔を深め、一騎は今度こそしかめっつらになって彼を睨んだ。
「人の生き死にをクイズにするなんて……」
「学問的な好奇心なんて皆そんなものですよ」
桐生は冷たく言い放った。
「僕の使っていた解剖学のテキストの著者は、自分の父親の遺体を解剖したそうです」
「?!」
一騎は目を剥く。
「それを非難できますか?」
桐生の瞳は、まるで月の出ない夜のような色だった。
飲み込まれてしまいそうなくらい、深い。
「……非難はしない。だが」
一騎は唾を飲み込んだ。
「理解はできない」
「まあ、そんなところでしょうね」
桐生は頷く。
「盛野利樹の場合も同じです。彼の体内では非常に興味深い現象が起こっていたんです。医学的見地から見て、ですけど」
「だったら俺にはわからないんじゃないか?」
「そうかもしれませんが……高校生物はご存知でしょう?」
「ああ。俺は文系だったからな」
「だったらヒントは十分だと思うのですが……」
「ヒント?」
桐生は紙ナプキンの上にボールペンで箇条書きに文章を書いた。
1、血中アルコール濃度は明らかに彼の飲酒を示していた。
2、証言により彼の飲酒は否定された。
3、彼に飲酒癖はないとされている。
「明らかに矛盾していますよね」
「ああ……」
一騎は項目の二番目をじっと見つめていた。
桐生はそれに気付いたのか、わずかに笑みを深める。
「一騎さんは証言を疑っている?」
「それはそうだろう」
一騎は顔を上げて桐生を見つめた。
「血中アルコール濃度の測定が誤るよりは、そちらの可能性の方が高い」
「ではコンパ会場にいた人皆がグルですか?」
「…………」
一騎は眉を顰めた。
「それは……確かにおかしいな」
「でしょう?」
桐生はしたり顔で頷く。
「でもあり得なくはない」
一騎はいつの間にか真剣な表情になっていた。
「そう……可能な選択肢が一つしかなければ――いくらそれが現実にはあり得ないように見えたとしても、それが事実だと考えるしかない」
「一つしかなければ、ですね」
桐生は頷いた。
「しかし、何のためにそんな偽証をしたのでしょう?」
「!」
一騎は一瞬息を止め、やがてふう、と大きく息をついた。
「その通りだな」
軽く目を閉じる。
もし――仲間たちが悪意を持って彼にアルコールを飲ませたのだとしたら、「彼はアルコールを飲まなかった」などと証言する必要はない。むしろ「飲んだ」と証言するのが普通である。
「わざわざ証拠に相反するようなことを偽証する、そのメリットは何でしょう?」
「ふだん飲まなかったのは動かしようのない事実だから……?」
「それを裏づけした所で矛盾は強められるだけですよね」
「……そうだな」
一騎は認めて頷いた。桐生は面白がるように片目を細める。
「種明かしをしましょうか?」
「……ああ」
「全ては逆なんですよ」
桐生はきっぱりと言う。
「つまり、彼は飲酒などしていなかった――」
一騎は訝しげに桐生を見つめた。
「しかし……血中アルコール濃度は」
「ああ、それは正確な数値ですよ? でもね、一騎さん」
桐生はひどく落ち着き払っている。
「それは彼の血中にアルコールが含まれていたことを示している。彼がアルコールを経口摂取したとは限らない」
「では静脈注射でもしたと?」
彼はかすかに苦笑を浮かべる。
「居酒屋でそんなことをしていたら目立ちます」
「だろうな……」
――やはり部員皆がぐるだったのだろうか。
「それに、静脈注射なんて素人ができますか? 誰か薬物濫用者でもいたのなら別ですけど」
「俺は無理だ」
「僕だって無理ですよ……数年後ならともかくね。ですから」
桐生は穏やかに微笑んだ。
「アルコールは彼の体外からもたらされたんじゃないんです」
「え?」
「彼の体内で――生成されてしまったんですよ」
「…………?」
一騎の頭上には既に両手で抱えきれないほど沢山のクエッションマークが浮かんでいた。
「やっぱりちょっと専門的過ぎましたかねえ」
桐生が苦笑しながら語ったのは以下の通りである。
カンジダ菌、という菌がある。HIVで日和見感染の原因となることからその名を耳にしたことのある人も多いかもしれないが、もともとこの菌はカビの一種で空気中や動物の体内――口、喉、消化管、皮膚などに常在しているのである。
カンジタ・アルビカンスという菌もその一種で、
「まあいわばコイツが犯人、というわけですよ」
桐生はそう言った。
胃や小腸の一部が何らかの原因で狭窄すると、そこに食物塊が溜まる。さらにそれを養分としたカンジタ・アルビカンスが異常に繁殖してアルコール発酵を行うのである。
「――ああ!」
一騎は軽く手を打った。
錆びついていた知識が不意に甦る。
「グルコースを代謝してエネルギーを取り出す際、最終代謝産物をアルコールという形にする細菌がいるのは、ご存知ですよね?」
「知っている。日本酒やワインはそれを利用して作られているんだよな」
「ええ。乳酸菌は、アルコールではなくて乳酸にしてしまうんですけど」
「我々人間や一般的な動物は皆、二酸化炭素と水にまでしてしまうが……」
「ええ。好気的な――つまり酸素を好む細菌は我々と同じような代謝を行うんですけどね」
「そうか。それで彼の体内では……」
「アルコールが生成されたんです」
一騎はぐったりと椅子にに背を預けた。
「そういうことか……」
事故が起こるまでにも発症は起こっていたのかもしれないが、たまたま誰も気がつかなかった。おそらく本人すらも無自覚だったのだろう。
しかし――コンパでたらふく炭水化物を食べた後、それらのうちのある部分はアルコールへと分解されてしまった。
「彼はアルコールに弱かったようですし、酔いが回るのは早かったでしょうね。また、炭水化物を取れば取るほど生成アルコール量は増えますから、コンパは格好の場だったのかもしれません」
「それにしても恐ろしい病気だが……」
「酩酊症というようですが、まあ今までに見つかったのはニ三十件だそうですよ。滅多にありません」
「……そうか……」
「……彼は運が悪かったんですね」
ちらり、と彼の瞳に悼むような色が見えて、一騎はおや、と思った。
「誰をも恨みようがない。ただただ、運が悪かった……」
こうして彼の本当の死因を誰かに知ってもらうこと。
それが桐生なりの、彼への追悼だったのかもしれない。
闇色の彼の瞳に、朧月のような光が灯っている。
一騎は何故か穏やかな気持ちになって、桐生をじっと見つめていた。