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散る花、光

 季節はずれにも程があるよなあ、と草摩は独りごちた。この十日足らずの間に、日の落ちるのも随分と早くなった。吹き抜ける風に、既に夏の匂いはない。
「綺麗ですねえ」
「……まあ、な」
 それでも同居人が楽しそうなら中秋の花火も悪くないな、と思える程度には、草摩は彼のことを気に入っている。――それに、もうひとり。
「私、線香花火好きなの」
 どうせなら真夏に浴衣姿を見たかったな――という本心は仕舞い込み、草摩は隣にしゃがむ彼女を見遣った。絵音は優しい眼差しで、その繊細な輝きを見守っている。
「草摩くんはどの花火が好きですか。ロケット花火ですか」
「お前な、マンションの屋上でそんなもん打ちあげたら怒られるに決まってるだろ」
 追い出されたらどうするんだ――口をとがらせる草摩に、絵音はくすくすと笑った。
「相変わらず仲良しね」
「そうかあ?」
 草摩は照れ隠しのようにつぶやいて、次の花火に火を点けた。
「そもそも、なんだって九月も末になってから花火買いこんでくるんだよ。いくら安売りしてたからって」
 しゅう、と音を立てて鮮やかな赤い火花が直線的に飛ぶ。
「ああ、僕初めてなんですよねえ、花火」
 桐生は火の付いていない花火を片手にしゃがみこみながら、へら、と笑った。
「初めて?」
 草摩は聞き返す。
「はい」
 草摩自身は、幼い頃の夏休みに庭で父とこうやって何度か花火をやった。大学に入ってからも、友人たちと騒いだこともある。桐生にはそういう経験が全くないというのだろうか。桐生の家庭環境や辿ってきた過去を思い返すと、確かにそうなのかもしれないな、とは思えるのだが。
「花火大会には行ったことあるのか?」
 以前、絵音と行ったそれを思い出して、草摩は尋ねた。桐生は首を横に振る。
「テレビや写真以外で、花火を見たことはありません」
「……いっそ珍しいな、そこまでいくと」
「苦手だったんです」
 桐生は火の付かないままの花火に視線を落とし、ぽつりと言った。
「僕は……、火があまり好きではなかったから」
「…………」
 そういうことか。草摩は静かに納得した。桐生が大切なものを失ったあの事件――少年の日の彼は、自ら火でもって全てを葬り去った。彼にとって、火は喪失の象徴だったのだろう。
「あはは、何だか暗くなってしまいましたね。すみません」
 笑い声をあげて、桐生はライターを取り出した。彼も、もちろん草摩もたばこを吸わないから、これは花火のために買ったものだ。
 秋の日は、既に落ちた。お互いの表情は良く見えない。だが、その方がいいのかもしれない。特に草摩にとっては。きっと、今も桐生はいつも通りの笑顔を浮かべているだろう。それを、今は見たくなかった。
 彼は桐生の過去を――彼を蝕み続けていた痛みの原因を知った。自分を救えるのか。かつてそう尋ねた桐生は、確かに救いを求めていたのだろう。
 けれど、自分はそれを必要ないといった。その気持ちに嘘偽りはない。桐生を責めていたのは誰でもない彼自身。己から己を救うなど、不可能だ。だからこそ草摩は言った――「お前に必要なのは――ただ、許すこと」だと。
 桐生は許せたのだろうか。父を。母を。祖母を。そして何よりも――自分自身を。
 敢えて尋ねたことはないが、あれ以来少しずつ桐生は変わった気がする。草摩と出会った当初は仕事以外の人間関係を一切持たないようにしている様子だったが、今はそうでもないようだ。彼は、前進しようとしている。だからこそ今、彼はライターを手に取って……。
「桐生」
 彼が点火する前に、草摩は声を掛けた。
「火。点けてやる」
「え?」
 きょとんとした彼に、草摩は言う。
「花火、こっちに出して」
 桐生の隣に並んで、草摩は己の花火を彼の持つその先端に近付けた。
 草摩の花火から放たれる赤い火花が、彼のものに移り、そしてその色を変えた。緑の光線。勢いよく放たれるそれに桐生は一瞬身を引いたが、やがて穏やかな笑みを浮かべた
「炎色反応でしたっけ。懐かしいですね」
「そうだな」
 草摩は笑う。中学の理科で習ったのだったか。ガスバーナーの炎に金属等を入れると炎の色が変わる。花火に応用されているのだ、と聞いた彼らは昼休みに花火を買って放課後に屋上で花火大会をやり、教師にひどく怒られた。ちなみに買いに行ったのは自分だった。それを聞いた桐生は、くすくすと笑った。絵音も呆れ顔で笑っている。
「結構やんちゃだったんですね、草摩君は。お父さん譲りでしょうか」
「うん、まあ……でも、あれは親父にも死ぬほど怒られた。ちゃんと消火の準備をしないと駄目だろって。火事になったらどうするんだって」
「……草摩のお父さん、学校で花火をすること自体は構わないのね」
 肩をすくめる絵音は、新しい線香花火を手に取った。
「桐生さん」
 桐生に近寄り、彼の花火の先端に彼女のそれを寄せる。触れるか触れないかの距離まで近付いたところで、火がうつった。
「あ」
 草摩の花火が消える。
「次どれにしようかなー鼠花火は駄目かな」
「あれって飛び跳ねるんじゃないの? 危ないわよ」
「そうかー、じゃあ俺も線香花火にしようかな」
「…………」
 笑い合う二人を見つめ、桐生は己の手元に視線を落とした。徐々に勢いを落としていく花火。その炎を、純粋に美しいと思った。怖いとは、思わなかった。――当たり前だ、こんな小さな火を怖がる理由などない。
 桐生はつぶやく。
「僕はもう、怖くない」
 忘れたわけではない。あの日の記憶は、あれから二十年以上が経つ今もひどく鮮明だ。心が、体が覚えている。底なしの絶望。怒り。悲しみ。孤独。爪先から凍りつくような感覚。自分はあれを決して忘れることはないだろう。忘れるつもりもない。
 だが忘れてはならないもうひとつのことがある――あの事件があったために、自分は七条一騎と出逢い、そして七条草摩と出会った。雪村絵音とも知己になった。過去を変えることを願えば、現在も変わる。そして今、三人でこうしている現実は消える。
 それは嫌だ。桐生は強く思った。僕は、「今」を大切に思っている。こうしていられる日々がかけがえのないものなのだと知っている。僕は僕の側にいる人たちを、心の奥底から愛している。――家族を失ったと同時に一度は手放してしまった感情が、ここにある。何も知らなかった子供の頃よりもきっと、今の方が深くて――強い。
「桐生さんも線香花火しましょうよ、ね?」
 桐生の消えてしまった花火を受け取って水を張ったバケツに突っ込み、絵音は言った。
「派手な花火もいいんですけど、こういうシンプルなのが一番夜に映える気がするんです」
「花火大会でも、色とりどりなやつより普通のやつの方が絵音は好きなんだよな?」
「そう。来年は、桐生さんも花火大会行きましょうね」
「え……でも、お邪魔では」
 若い二人のデートを邪魔するなんて、と手を振る桐生に草摩は笑った。
「それはそれ。これはこれ」
 ――それに桐生を邪魔者扱いするわけないだろ、絵音が。
「…………」
 絵音を見ると、彼女は柔らかく笑って手元の線香花火を見つめていた。
 ちりちりと散る小さな火花。小さな小さな太陽のような黄金の玉から、細い光の糸が弾けては消えていく。
 その光が、桐生の手にも宿った。
「…………」
 彼は息を呑んでそれを見つめる。――繊細な光。儚い光。それでいてそれはひどく優しく、あたたかく、こうやって実際に見るのは初めてなのにも関わらず、なぜか懐かしく感じられる。
「桐生」
 草摩が静かに声を掛ける。はっ、と桐生は眼鏡の奥の目をこすった。頬が濡れている。いつの間にか、自分はひとすじ涙をこぼしていたらしい。
 煙が目に染みたのだ、と言い訳をしようとしてやめた。この二人に、その必要はない。
「綺麗ですね」
 出てくる言葉は、ひどく単純で。けれど、きっと彼らは理解してくれるだろう。
「綺麗だな」
 草摩は頷く。
「……そうね」
 肌寒くなってきたせいか、絵音は草摩のパーカーを借りて羽織っていた。そのことに気付き、桐生は口を開く。
「そろそろやめにしますか? 風邪をひいてはいけませんし」
「そうだな。秋の夜は結構冷えるから」
 花火の束はまだ少し残っているが、大分少なくなった。もったいないが、残りは棄てるしかないだろう。
「最後にもう一回、やろうぜ」
 草摩が手にしているのは、やはり――。
「線香花火、ですね」
 桐生は微笑む。
 草摩の花火にライターで火を。それを絵音に。桐生に分けて。
「…………」
 最後の光が消えるまで、誰も言葉を発しなかった。何も言うことはない。じりじりと闇の焦げる音――やがてそれが、消える。
 瞼の裏に焼きついた残像を頭に焼きつけるように、桐生は目を閉じる――忘れられない景色が、忘れたくない思い出が、またひとつ増えた。