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夏の終わり

 青い空に雲が流れていく。薄い帯状のそれを見上げ、草摩は目を細めた。ついこの間まで空を覆っていたのは、灼熱の地面から立ち上る立体感のある雲だった。入道雲から鱗雲へ。こうやって、季節は移り変わっていく。時は流れていく。
「今年も少し遅くなってしまいましたね」
 隣に立ち仏花を捧げ持つのは、彼の同居人である桐生だ。
「仕方ねえだろ、お盆休みがないんだから」
 桐生が外科医として勤めている大学病院には、盆休みはない。そもそも休み自体が極端に少ない。草摩は大学生としてあと二年のモラトリアムが残されているが、彼も卒業すれば桐生と立場は同じである。体が持つかな、と時に不安になる草摩であった。
 それはともかく――。
「親父もその辺のことはわかってるだろ」
 草摩はつぶやき、七条家の墓石にとん、と手を触れさせた。陽を浴びていたその表面は、じんわりと熱い。そこに手桶の水を掛け、磨く。なんだか背中を流しているみたいだな、と草摩は思った。実際のところ、父親の背中を流した経験などそう多くはない。数えるほどもあったかどうか。どちらかといえば、それは未来の光景だったかもしれない。父親がリタイアした、その後のこと。草摩が大人になって、一緒に温泉にでも行って、背中を流してやって、そうして酒を呑み交わして――。
 草摩は不意に桐生の方を振り向いた。彼は眼鏡の奥の大きな瞳を瞬いてみせる。
「何ですか?」
「……いや」
 草摩は笑った。額に浮かんだ汗を腕で拭う。
「なんかさ、これって風呂で背中流してやってるみたいじゃん? でも俺、親父と風呂入ってたのなんて子供の頃だけだし、そういう経験ないなと思って」
「はあ」
「だから、今度はお前の背中でも――」
「お気持ちは嬉しいですけど」
 桐生は笑った。
「僕と君じゃ、年齢が近過ぎます。親子じゃなくてカップルに見えてしまうので、やめておきましょう」
「カ、カッ……?」
 思っても見なかった単語に、草摩は目を丸くする。桐生は澄ました顔で花を手向けていた。その横顔は、相変わらず嫌味なほどに整っている。
 ――そういえば、桐生は自分の父親のことはどう思っているのだろう。かつてどう思っていたか、は知っている。それがどんな悲劇を生んだかも。草摩はしゃがむ桐生を見下ろした。彼は、墓参りには行っているのだろうか……。
「陽射しはまだ強いですけれど、風は涼しくなってきましたね」
 桐生はぽつりと言い、立ち上がった。
「そうだな」
 草摩は目を細める。
 父を失った年から、もう四年。あれから、いろんなことがあった。父の死の真相に触れ、恋をした相手と奇妙な事件に巻き込まれ、桐生の過去を知り――本当に、いろんなことが。
 常に、隣には桐生がいた。
 四年前まで、存在も知らなかった男が、今や彼のたった一人の家族だ。不思議なものだ、と草摩は思う。決して望ましい状況の中で知り合ったわけではないのに、彼のいない人生が既に想像できない。桐生にとっての自分もきっとそうだろう、と草摩は思った。これはきっと、自惚れではない。
「あれ」
 不意に、桐生が声を上げた。その視線は、少し離れた墓地に向いている。
 ひとりの女が立っていた。つばの広いベージュの帽子に、シンプルな紺のロングスカート。手には仏花。さほど年配とは思えない。特に目立つところもないその女性に、何故桐生が目を留めたのか。知り合いなのか、と尋ねようとしたところで草摩は自分の目を疑った。
 女が墓前の花を手に掴み、足下のバケツに投げ入れたのである。花だけではない、他にも何かしら供えられていたものを次々と、バケツの中へ。叩き込む、といってもいいような手つきの荒さだった。花は萎れていたわけではない。まだ、新しい花だった。
 女は手早く水を変え、自分の持っていた仏花を活け直している。
「なんか、訳ありっぽいなあ」
 草摩はぽつりとつぶやく。桐生はその口元に苦笑を湛えていた。
「ええ」
 墓地に入ってきた時から、ふらふらとして奇妙な足取りだと思ったのですよ――と付け加える。
 女は、自分を見ている二人連れの男に気付いたらしい。ぎょっとした様子で顔を背けた。バケツを持ち上げ、早々に身を翻す。――はじめに手向けられていた花は持ち去られ、新しい花だけがそこに残った。
 草摩と桐生とは顔を見合わせ、そしてどちらともなく件の墓前へと歩み寄った。別になんの変哲もない、普通の墓である。そこに飾られている花も、どこにでも売られているような、普通の……。
「ん?」
 草摩はふと、眉を寄せた。普通、ではない。菊、キンギョソウ、ヒャクニチソウなどに混じって、あまり見覚えのない花が飾られていた。小さな青い花が連なり、高く筒状に伸びている。
「綺麗な花だけど、あんまり見ないな」
「そうですね」
 桐生はあまり気のない様子でつぶやいた。基本的に物腰は柔らかいが、時に彼は非情な一面を見せることがある。冷たく、突き放すような。草摩に対しては、決してそのような態度はとらないのだけれど。
「墓前の花で自己主張しても、ねえ」
「確かに」
 草摩は苦笑する。
「相手は死んでるんだもんな……もうどうしようもねえよな」
 草摩はその見慣れない花をぱちり、と携帯電話におさめた。桐生は意外そうに目を瞬く。
「気になるんですか?」
「いや、まあ」
 草摩は歯切れ悪く口ごもった。
「なんかさ、置いてあったお供えを捨てるなんて……ちょっと普通じゃないじゃん」
「ええ」
 桐生は頷いた。
「誰かが故人を想って用意したものを……それを、あんなふうに」
 草摩は唇を噛む。
「別に、俺も信心深い方じゃないし、昔ながらの風習とかにも疎い方ではあるんだけど」
 それでも、何となく――許せない気がしたのだ。
「墓に眠ってる人も、元々お供えしていた人も、誰もあの女の人に手が出せないだろ。なんか、卑怯だ。そういうの」
 どんな事情があろうとも、こういうやり方は好きになれない。
「だからせめて、何を想ってそんなことをするのか、知りたいと思って」
 余計なお世話だとは思うけど。草摩はそう言うと、口をつぐんだ。
 
 ――草摩の険しい横顔を見ながら、桐生はふ、と微笑んだ。草摩らしい、と思う。真っ直ぐで、曇りのないその眼差し。先程彼らが手を合わせた墓に眠る男と、良く似ている。
 彼らの持つ光が、自分の過去を覆っていた闇を照らしてくれたのだ。

「あ」
 草摩が声を上げた。
 鳥が――見慣れない鳥だった。雀でも、鳩でもない。無論、烏でもない。鮮やかな青い羽根を煌めかせた、小さな鳥。それが素早く彼らの目の前を横切り、
 ――ごと、
 と墓前の花瓶を倒した。
「…………」
 体当たりのように勢い良くぶつかられた花瓶は倒れ、花が散らばった。鳥はすぐに飛び立ち、青空へと溶け込んでいく。
 全ては一瞬の出来事。
 草摩は唖然とその光景を眺めている。
「……偶然、かな?」
「さあ」
 ふたりは再び、顔を見合わせた。何かしらの女の情念が込められていたのであろう、花。それが、今は無残に散らばっている。その想いが受け入れらることはないのだ、ということを見せしめるかのように。
 桐生は肩をすくめた。
「勝手に片付けるのも何ですし、ここはお寺の方に任せましょう」
 桐生はそう結論付け、草摩に向き直る。
「帰りましょうか、草摩君」
「……そうだな」
 草摩は頷いた。淡白な物言いが桐生らしい、と草摩は思う。
 そうして二人は七条家の墓に戻り、最後にもう一度、手を合わせた。
 陽が少しずつ傾いている。昼は徐々に短くなり、その分夜が長くなる季節がやってくる。
「アイスクリームが食べたいですねえ、草摩君」
 桐生はのんびりと言った。
「駐車場の近くにコンビニあったぞ」
「あ、寄っていきましょう」
「……おう」
 ふたりの間で交わされる、いつも通りのやりとり。
 草摩は振り返る。花は地面に墜ち、鳥の姿はない。勿論、あの女の姿も。

 デルフィニウム。
 帰宅した後、例の花を検索した草摩はその名に行き当たった。
 花言葉は、変わりやすい心。あるいは、移り気。
「ありきたりだけどさ」
 風呂上がり、今日二本目のアイスを頬張っている桐生に向かい、草摩は言った。
「多分、あの女の人って愛人だか何だか、そういうのだったんじゃないかな。時期を外して、しかも独りでお墓参りに来ていて。お盆の頃に供えられたものっぽいものを捨てていた。ちゃんと花を持ってきているところを見ると故人には恨みはなさそうなのに、お供えにはあの仕打ちだろ? 遺族とは確執がありそうだから」
「……なるほど、筋は通りますね」
 桐生はスウェットを履いてアイスバーをくわえ、タオルで髪を拭いている。こうしていると、三十も半ばを超えているようには見えない。草摩はやれやれと首を振った。
「まあ、本当のところはわからないけどな。――さっさと上着ろ、もう夏も終わるんだから。風邪ひくぞ」
「はいはい」
 桐生は軽い調子で返事をすると、少しだけ真顔になった。
「やっぱり、幽霊より生身の人間のほうが怖いですね」

 草摩の脳裏に、今日の墓参りで見た光景が鮮やかに蘇る。
 真っ青な空。薄い鱗雲。熱い墓石。手向けた花。
 そして、奇妙な女。捨てられたお供え物。花。鳥。花。
「もうそろそろ、怪談の季節も終わりにして欲しいよな」
 草摩はぽつりとつぶやくと、自分もアイスバーを取りにキッチンへと向かうのだった。