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分裂マリオネット

 奈落の底。
 その表現を思いついた自分に、彼女は微笑を浮かべた。――そうだ、この先は奈落。だけど、今が地獄だとするなら、たいして差はない。炎が燃え盛る地獄よりも、ただ闇に塗りつぶされている奈落の方がかえって気が楽かもしれない。
 枕木という名の平行線。彼女は足の幅をそれに合わせるようにして、じっと覗き込んだ。長い黒髪が頬の横を滑り落ちる。それは、枕木に垂直に。
 折りしも、新幹線の到着を知らせるアナウンスが流れてきた。もうすぐだ。彼女の体はゆっくりと前傾していき――。
「何をしているんですか?」
「ぐえっ」
 彼女を襲ったのは覚悟していたような激痛ではなく、首周りの圧迫感だった。息が苦しい。
「な、何?!」
 まるで仔猫でもつまみあげるように首根っこをとらえられたのだと気付いたときには、新幹線はホームに滑り込み終わっていた。彼女はがっくりと肩を落とし、その肩越しに背後を振り返る。
「あ、貴方、誰ですか?!」
 逆光で良く見えない――ただ、その男がやたらと長身だということはわかった。彼の表情のほとんどは眼鏡に遮られてしまっている。
「貴方がここに飛び込むと、僕の同僚が苦労するかもしれませんのでね。救急対応も結構負担なんですから」
「……はあ?」
「死ぬつもりだったんでしょう?」
 ――不意に、日が翳った。彼女はごくりと息を飲む。彼女の首を捕まえている男……とんでもなく整った顔をしたその男は、静かに微笑んでいた。年齢は彼女よりひと周りほど上だろうか。
「でもね、僕人身事故による電車の遅れって大嫌いなんです」
「…………」
「僕はもう帰るだけなので、放っておいても良かったんですけど。それにしたって救急がねえ」
「な……、何で」
 彼女はかろうじて声を絞り出した。
「何で止めたんですか! せっかく……せっかくうまくいくところだったのに」
「うーん」
 男は暢気に唸った。
「僕が誰かの自殺を見逃して帰ったなんてことがばれたら、草摩(そうま)君にぶっ殺されてしまいます」
「そうまくん?」
「僕の同居人ですよ?」
「あの……意味が、わかんないんですけど」
 毒気を抜かれたようにつぶやく彼女に、男は彼女を見下ろしたまま、
「そろそろ下ろしてもいいですか? 重くて腕がだるいです」
「お、重くて悪かったですねっ!」
 彼女は声を荒げる。――何となく、死ぬ気は失せてしまっていた。
 
    * * *

 男は桐生(きりゅう)千影(ちかげ)と名乗り、駅近くのコーヒーショップで彼女にラテを買った。自分用にはキャラメルマキアートを購入している。
「うわ、甘そう」
 つぶやく彼女に、桐生はのほほんとした視線を向けた。
「出張帰りで疲れているんです」
「……そうですか」
 彼女はストローを勢い良くすすった。桐生はスプーンで生クリームをすくいとっている。
「ところで、君のお名前は?」
「名乗らなくちゃ、駄目ですか?」
「名乗らないならタマって呼びますけど」
「タマ?!」
「ポチが良ければそちらでも」
「ポチ?!」
 彼女は目を白黒させた後、やがて大きくため息をついた。――三途の川の渡し守は、変人らしい。しかも彼女を通す気もないようだ。
春日井(かすがい)律香(りつか)
「律香さん、ですか」
 不意に桐生の手が伸びた。
「失礼」
 素早く彼の指先が彼女の下瞼をめくる。反射的に目を閉じようとするが、彼の指が一瞬の間だけそれを阻んだ。
「……気分は大丈夫ですか? 体調は?」
「体調……」
 彼女――律香は苦笑を浮かべた。
「体調は、いつだって悪いです」
「え?」
 桐生の手は移動し、カップを持つ彼女の手首をとらえていた。脈を測っているのだな、ということは彼女にもわかる。たぶん、この男は医療関係者なのだろう。先ほどもそのようなことを言っていた。
――医者は、嫌いだ。
「私の体。あちこちだめだめなんです。だから――この体、捨てようと思って」
「…………」
 桐生は眉を寄せて彼女を見つめる。その瞳は、真剣だった。
「どこか、かかりつけの病院があるんですか?」
「私の叔父が医者で、ずっと面倒見てもらっています。……叔父が、唯一の肉親ですから」
「失礼ですが、ご両親は?」
「事故で早く亡くしました」
「なるほど、失礼しました」
 桐生はその長い睫毛を伏せて何事か考えているようだったが、やがて視線を上げた。
「すみませんが、ちょっと僕の職場まで一緒に来てくれませんか」
「え?」
「ちょっと、気になることがあるんです」
「はあ……、でも……」
 律香は当惑した。桐生の職場――つまり、病院だろう。彼女は叔父以外の医者に掛かったことがない。「律香ちゃんの体は難しいから、ずっと診ている僕でないとね」……それが叔父の口癖のようなものだ。
「では今その叔父さんに連絡しましょうか? 自殺未遂現場に居合わせた、と」
「そ、それはやめて下さい!!」
 律香の大声に、店内がしんと静まり返った。桐生は衆目にさらされながらも、平然とクリームをなめている。
「だったら、一緒に行きましょう。いいですね?」
「……脅すなんて、最低です」
「別に脅しているつもりはありませんよ? 貴方が勝手にそう感じているだけです。それに、貴方が死んでしまえば、貴方に最低と言われることもないでしょう。それなら僕は、貴方に最低と言われる方を選びます」
「…………」
 律香は目を伏せた。膝の上で握り締めた拳。二三日前から力の入らなくなったそれが、小さく震えている。
「ごめんなさい。……言い過ぎました」
「いいえ」
 桐生は穏やかに微笑した。
「僕の方も、お節介なのは自覚しています。でも、最近お節介がマイブームなんですよ」
「そんなブームって……」
 律香は小さく噴き出した。
「そう、その火付け役がさっき言った草摩君って子で」
「……そうなんですか」
 律香は目を細める。そのひとに会ってみたい――不意に、彼女はそう思った。
 
* * *

「……何これ……」
 救急部にいた研修医のつぶやきに、桐生は背後からパソコンを覗き込んだ。電子カルテウィンドウには、先ほど作った春日井律香のカルテが開き、検査データが並んでいる。
「カリウムが二、八……肝酵素軒並み上昇……好酸球二十パーセント……」
「これはひどいですね」
 桐生は眉を寄せる。研修医は彼を見上げ、口を開いた。
「身体所見上、さほど問題があるようには見受けられませんでしたが、少々脱力はありました。カリが少ないせいかもしれません」
「慢性的な低カリウム血症なのでしょうかね……それにしてもちょっと、不自然な病態ではあります」
 十七歳女性にしては明らかに異常が多過ぎる。研修医は病歴聴取結果をカルテに打ち込みつつ、首を傾げた。
「一週間ほど前まで呼吸器症状が強かったらしいですが、このデータを見ると好酸球性肺炎だったのかもしれませんね」
「今のレントゲンは綺麗なものですがね」
 彼女が十年近く苦しんできたという症状は、あまりにも非定型的だった。全身性でありながら局所症状が短期間現れ、やがて収まってしまう。若年女性の全身疾患ということで膠原病も疑ったが、症状そのものは全く当てはまらなかった。
「しょっちゅう熱を出して、あちこちに異常が出て……つらかったでしょうねえ」
 研修医がしみじみ呟くのを聴きながら、桐生は眉を顰めた。――だからあのとき、彼女は死のうとしたのだろうか。体を捨ててしまいたいと、そう思ったのだろうか……。
「桐生先生」
 研修医の声に、彼ははっとした。
「何ですか?」
「もうしばらく彼女には処置室で休んでもらうってことでいいですか? 自殺企図があったようですし」
「ええ、そうですね」
 桐生は頷く。
「突然無理なお願いをして、すみませんでした」
「いえ、最近救急暇でしたし」
 研修医はにこりと微笑んだ。
「ところで桐生先生。今度ご飯でも食べに行きませんか?」
「ええ、構いませんよ」
 桐生はあっさりと承諾した。――まさか彼がその場に草摩を連れて行こうとしていることなど、彼女は予想だにしていないだろう。
「少し出てきます。何かあったらPHSに連絡下さいね」
「はい」
 桐生は医局を出る。――これは草摩の力を借りる必要があるかもしれない。そう思った。

     * * *

 何が何だかわからないまま、律香はただじっとベッドに横たわり、病室の天井を見つめていた。優しそうな、若い女の研修医。採血をしようとした彼女は、律香の腕を見て一瞬ぎくりとしたようだった。それもそのはず、彼女の腕は注射の跡だらけで、ところどころ黒く痣になってしまっている。
 二時間ほどして再びやってきた研修医は、穏やかな口調で彼女に告げた。
「もう少し休んでいてくれますか? 長い間お待たせしてすみません」
「いいえ……。あの、桐生先生は?」
「席を外しておりますけれども。呼びましょうか?」
「いえ」
 律香は首を横に振る。――何故、桐生の名前を出してしまったのか、自分でも良くわからなかった。
「また来ますね」
 ――そして一時間が経ち、今に至る。
 叔父はどうしているだろう。彼女を探しているだろうか。いや、まだ学校の終わっていない時間だから、帰宅しなくても不審に思われてはいないだろう。
 律香が未成年にも関わらず叔父に連絡されずに済んだのは、桐生が彼女の頼みを聞き届けてくれたお陰だ。理由を聞かなかった彼に、感謝している。
 
 ベッドを囲むカーテンがゆらりと揺れたと思うと、端からにょきりと首が突き出てきた。
「君が、春日井さん?」
「あ……貴方は?」
 自分より少し年上の青年で、根は真面目そうだが受ける印象は明るい。
「俺は七条(しちじょう)草摩。あの、桐生の」
「ああ!」
 律香は手を打つ。
「お節介ブームの火付け役ね?」
「あいつどういう紹介してんだそもそもお節介ブームって何だよ」
 半眼で呟きながらもカーテンの内側に滑り込み、パイプ椅子を広げ腰掛けた。律香は慌てて体を起こす。
「無理しなくていいぜ?」
「ううん、大丈夫。別にどこが悪い訳じゃないから」
「……そっか」
「…………」
 数分の沈黙。それに促されるように、
「私……、両親が亡くなるまではすごく元気だったの」
 彼女はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「八歳のときに家族旅行に行って、現地でヘリに乗ったんだけど……それが墜ちて……、私だけが奇跡的に生き残った」
 握りしめた拳の下、シーツがくしゃりと皺になる。
「唯一の肉親が叔父さんしかいなくて、それ以来ずっと面倒見てもらっているんだけど……私の体、おかしくなっちゃった」
 強い力を込めていたはずの両手が、だらりと開いていた。
「叔父さんは心理的な後遺症じゃないかって。死にかけるほどじゃないけど、叔父さんが医師じゃなかったら大変だったと思う……」
「叔父さん、お医者さんなのか?」
「ええ。私の主治医でもあるわ」
「…………」
 草摩は何かを考え込むように、視線を斜め前に落とす。
「他の病院に掛かったことは?」
「ない」
「……君が、嫌がったから?」
「女の子だし、家族の方が気楽だろうって、叔父さんが」
「叔父さんって、独身?」
「ええ。叔父さんと母は母親が違って、一回りくらい年も離れていたの。今三十四歳で、私も『(きょう)さん』って呼んでいるくらい」
「じゃ、桐生と同い年だな」
「……桐生先生、年が分からないわ」
「うーん、確かになあ」
 草摩はわずかに苦笑を浮かべたが、やがてそれは跡形もなく引っ込んだ。代わりに浮かび上がるのは鋭く輝く眼光──朝日のようだ、と思う。
「春日井さんは、叔父さんが好き?」
 律香は小さく息を飲む。
「……感謝してる。でも」
 深く深く俯いた。彼の瞳の中の太陽に照らし出されるのが、怖い。
「私たち、お互いに自由になった方がいいと思う……」
「だから」
 草摩は呟く。
「あんなことを……?」
 律香は頷く。

「私は、叔父さんの人形じゃない……」

「……なあ」
 草摩の声に、律香は顔を上げた。彼は真剣な顔で彼女を見つめている──。
「ひとつ、頼みがあるんだ」
「たのみ……?」
 草摩は彼女にハンドタオルを差し出した。律香はいつの間にか濡れていた頬をごしごしと拭う。
「ああ。──君、叔父さん以外に肉親いないんだよな?」
「うん」
「行くあてもない?」
「うん」
「叔父さんから離れるために、死のうとしたんだよな?」
「…………」
 律香は無言で頷いた。
「だったら、生きることだってできるはずだ」
「…………」
「だって、ヘリが墜ちても生き残ったんだぜ。新幹線に轢かれても生きてるかも」
「まさか!」
 律香はくすりと笑った。その彼女の髪を、草摩は優しく撫でる。
「でも君は今生きてる。あのとき桐生に止められたのも、やっぱり奇跡なんだとしたら──」
「…………」
「君が生きることを、誰かが望んでいるんだ」
「誰が……? 神様?」
「いや、多分──」
 草摩の手が、離れていく。
「君自身が」

* * *

 「瀬野上(せのうえ)医院」――U警察署長、伊吹(いぶき)がその医院を訪れたのは夕刻前だった。午後の診療は午後五時から開始とあるが、まだそれには数十分ほど時間がある。
「あのふたり、俺を何か便利屋と勘違いしてないかな」
 つぶやきながら、伊吹は空を振り仰いだ。――七条草摩から連絡があったのは、一時間ほど前。瀬野上医院の医師、瀬野上京に虐待疑惑があると通報したいという。通報人名は「桐生千影」。K大病院医師としての通報なのだという。それなら何故草摩を通させたのか……やはり、伊吹に対する心象を考えてのことなのだろうか。
「別に、俺はあの男が嫌いだという訳ではないのだがな」
 やがて、見覚えのある一台の車が近付いてきた。以前のN県の事件では本人とともに消えてしまっていた、桐生の車だ。
「お待たせしました」
 中から降りてきたのは、果たして桐生と草摩、そしてもうひとり――華奢な少女だった。
「お久しぶりです、伊吹さん。いつもすみません」
 駆け寄ってきた草摩がぺこりと頭を下げる。伊吹は軽くかぶりを振ってみせた。
「いや、公僕としては当然の務めだから……。で、診療録の開示を求めたいというのは、そこのお嬢さんか?」
 少女の方を視線で指すと、彼女は桐生の広い背中に隠れるようにあとずさる。今時の女子高校生には珍しいくらいきちんとした身なりの、黒い直線的な髪が印象的な少女だった。
「お名前は?」
「…………」
 桐生を見上げる瞳は、怯えている。彼は穏やかに頷いてみせた。少女は小さな声で答える。
「春日井……律香」
「春日井さん、ね」
 伊吹は微笑む。
「勇気を出してくれたんだね。ありがとう」
「…………」
 大きな目が見開かれ、やがてそれがじわりと滲む。
「ありがとうございます!」
 開院三十分前――瀬野上医院に、電気が灯る。伊吹はそれを見遣り、言った。
「さて、行こうか」

     * * *

 診察室にいた瀬野上京は伊吹らを見て驚いたようだったが、律香を見たときにその驚きは最高潮に達したようだった。
「律香ちゃん? また具合が悪くなったの?!」
「いえ、違うんですよ」
 桐生が一歩、進み出た。
「久しぶりですね、瀬野上君」
「桐生……?」
 瀬野上が唖然と桐生を見上げた。草摩が声を上げる。
「同い年……え、まさか?」
「ええ、そのまさかで」
 一同が唖然としている中、桐生だけは悠然と微笑んでいた。
「瀬野上京君とは、大学時代の同級生なんですよ」
「桐生……、桐生か」
 瀬野上はほっとしたように笑った。
「何だ、やっぱり律香ちゃんが具合悪くなってお前が面倒みてくれたんだな? ありがとう。じゃああとは俺が見ておくから――」
「診療録を」
 不意に、律香が口を開く。震えてはいる――だが、毅然とした声だった。
「診療録を、開示して下さい」
「律香ちゃん?」
「カルテを、見せて欲しいんです。私の、カルテ。本人なら、見せてもらえるはずですよね……?」
「律香ちゃん、何言ってるんだい? 君は未成年だし、僕は君の保護者だろ?」
「見せて下さい!!」
 律香の叫び声に、草摩ははっと彼女を見つめた。彼女は――泣いていない。ただ、真っ直ぐに瀬野上を見据えてる。
「どうして私の体はいつまで経っても良くならないんですか。どうして大きい病院に連れて行ってくれないんですか。どうして、小学校も中学校も修学旅行に行ってはいけないなんて言ったんですか。友達と遊ぶ約束が入ってる日に限って体調を崩すのは、どうしてですか」
「律香ちゃん……?」
「私は、貴方の何なんですか?!」
 律香は耐え切れなくなったように絶叫すると、桐生の腰にしがみついた。桐生は一瞬戸惑ったように身を引き掛けたものの、草摩の手に留められておそるおそるその肩を受け止めた。
「桐生」
 瀬野上が低く唸った。
「律香ちゃんから離れろ」
「いや、別に僕は何もしてませんけど」
「瀬野上さん」
 伊吹は低い声で割って入った。
「実は、律香さんはK大病院で診察を受けられましてね。どうも腑に落ちないことがある、とそこの先生が警察に通報なさったんですよ」
「……何……を」
 瀬野上の顔が歪んだ。
「診療録の開示をご本人が求めておられる。どうぞ、お見せ下さい」
「し、しかし彼女は家族だから……わざわざ診療録など」
「医師法第二十四条一項――医師は患者を診療したら遅滞なく経過を記録すること。二項、記録後最低五年間は保存すること」
 桐生はすらすらと諳んじてみせた。
「医師法違反の疑いがある」
 伊吹は淡々と言った。
「少し、署までご同行願いましょうか」
「何で……そんな、律香ちゃん……」
 瀬野上は唖然と口を開け、律香を見つめる。律香はまだ、桐生から離れない。瀬野上の表情が苛立った。
「律香ちゃん! 君をここまで育てたのが、一体誰だと思っているんだい。八歳の君を引き取って九年間――僕は、ずっと君を……!!」
「瀬野上君」
 桐生は静かに口を開いた。
「君がいくら彼女を手元に置こうと努力したところで――彼女と君とは叔父姪の関係です。それ以上でも、それ以下でもない」
「桐生、何を言って……!!」

「彼女は、君の人形じゃない」

 律香ははっと顔を上げた。桐生の顔――口元は優しく微笑んではいたものの、その視線は厳しい。
「あと三年すれば、彼女は成人。自由です。でもまあ、他人でも後見人にはなれますし――貴方が罪に問われて後見人に相応しくないということになれば」
「なれば?」
 何故か、草摩が尋ねる。桐生はやんわりと微笑んだ。
「力及ばずながら――僕がなってもいいですよ?」
「お前……お前、何を勝手な!!」
「勝手なのはどちらですか」
 桐生は静かに告げた。
「選ぶのは律香ちゃんだ。君じゃない」
「律香ちゃんはまだ子供だ」
「子供は人間ではないとでも? 子供も人間ですよ」
「お前、何の下心があって……!」
「心外ですね。君と僕とを一緒にしないで下さい」
 桐生は悠然と笑みを浮かべる。
「少なくとも、僕は僕のために草摩君を引き取ったんじゃない。確かに、彼は僕を助けてくれたし、僕は彼と一緒にいられてしあわせです。でも、それは彼がしあわせでなければ意味がないことだ。彼を苦しめるくらいなら、僕はいつだって彼を手放すでしょう」
「桐生……」
 草摩は茫然とつぶやいた。桐生の眼差し、それが草摩の上で和らぐ。
「草摩さんも、ご両親がいないんですか……?」
 尋ねる律香に、草摩は頷いた。
「ああ。母は幼い頃亡くなって――父は一年前、叔父に殺された」
「…………」
 律香は息を飲んだ。
「それ以来、俺の家族は桐生だ。こいつは、俺の家族なんだ」
「……かぞく……」
 律香はつぶやいた。
「私は、京さんの家族じゃ、なかったかもしれない……」
「何を言っているんだい? 律香ちゃんは僕の家族だよ?」
「私、京さんを叔父さんって呼びたかった。叔父さんで、いて欲しかった……」
 律香は静かに涙を零す。
「私、叔父さんのこと好きだったよ。優しいのも知ってた。だけど……だけど、叔父さんにとって私は家族じゃなかった……」
「律香、ちゃん」
「おかしいとは思ってたの。私の体がおかしくなるのは、叔父さんが診察してくれる前後からだったから……熱っぽいとか何とか言って、薬を飲まされたり注射されたりして、それからおかしくなるから。でも――私、今日の今日まで……信じていたの……!」
 瀬野上は言葉を失った。――その蒼白な表情から、草摩は目を逸らす。
「話はその辺でいいかな」
 伊吹は割って入った。
「もう一度言う。診療録は?」
「――ない……」
 瀬野上はゆらゆらと立ち上がった。
「わかりました。一緒に行きます。――それから」
 瀬野上は桐生を見遣り、複雑な苦笑を浮かべた。
「桐生。お前、変わったな……」
「叔父さん」
 律香の声に、瀬野上は一瞬だけ動きを止めた。
「今まで、ありがとう」
 瀬野上は、振り向かない。伊吹に連れられ、彼は診察室を後にした。

* * *

 ――数カ月後。
「律香ちゃん、転校先でもうまくやっているようですよ」
 可愛らしいレターセットを手に、桐生は相好を崩した。草摩はくすりと笑って彼を見遣る。
「そうか。良かったな」
 春日井律香の後見人には、東京に住む篠原素(しのはらはじめ)が名乗りを上げた。夫妻には子供もいないし、律香も東京への転居を嫌がらなかった。環境を変えるにはちょうどいいかもしれない。少しだけ、寂しそうな瞳で桐生を見ていたような気がしていたけれど……。
「結局、あいつがあの子に妙な薬を投与していたのか? 独占欲……だったのかなあ」
「さあ、何なんでしょうねえ」
 桐生は軽い調子で言った。
「どちらにせよ、彼に律香ちゃんを愛する資格はないと思いますよ。相手を傷つける愛なんて、不毛です」
「……そうだな」
 草摩はふと思い出し、桐生に向き直った。
「お前、あの時あの子の後見人になってもいいって言ったよな」
「あー、まあその場の勢いですけど」
 桐生は珍しく気まずげに目を逸らした。
「お前の理屈で言うと、お前はあの時あの子をあい――」
「まさか」
 桐生は小さく噴き出した。
「僕を瀬野上と一緒にしては困ります」
「それもそうか」
「僕はあしながおじさんってことで」
「……確かに足は長いが……」
 十七歳と文通して喜んでいる三十四歳。それも相当まずいのではないかと思いながら、それでも桐生のしあわせに一役買うのならそれでもいいと――。
「なあ」
 草摩はふと真顔になった。
「あしながおじさんって確か……」
 その先は、言わなかった。それが桐生のためなのか、律香のためなのか。草摩にも良くわからなかった。