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フェアリテイル・ホリック

「ようせいさんは、お花のみつをすうのよね」
 白い手は初夏の陽光に透けてしまいそうなくらい細かった。
「そうなんですか?」
 彼女の体温計の目盛りを読んでメモしていた研修医が眼を上げる。黒曜石のような目は深く夜を宿していた。
「だって絵本にのっていたもの。あれ、先生がもってきてくれたんじゃない」
「ああ、そうでしたね」
 新しい研修医、桐生千影が担当になって一週間。彼らは驚くほど仲良くなった。
「それでね」
 彼女は嬉しそうに微笑む。
「その話をママにしたら、毎日こんなお花を持ってきてくれるようになった」
「へえ」
 枕元に飾られているのは黄色い切花だった。アサガオに似ているが少し花の先が尖っている。
「綺麗ですね」
「うん」
 彼女は嬉しそうに笑った。
「わたし、時々ようせいになるの」
 幼い少女特有の夢見がちな瞳で、
「ほかの、小さなようせいさんだって見えるんだから……」
 桐生は内心苦笑しながら、それでも表情には出さずに微笑んだ。
「じゃあ香緒里さん、そろそろ昼食をですから出来るだけ頑張って食べてくださいね」
「……はあい」
 香緒里――高梨香緒里は長い睫毛の下から桐生を見つめる。
「ねえ、先生」
「何ですか?」
「パパがいなくなったのって、わたしのせい?」
「……違いますよ」
 桐生は穏やかに、しかしきっぱりと否定した。
「どうしてそんなことを言うんです?」
「……だって、誰かが」
 口の中で呟きかけて黙り込む。桐生は訝しげに眉を寄せ、彼女の次の言葉を待った。
「誰かが……」
 ――ちょうどそのとき、病室の扉が開いて看護師が昼食のトレイを置いた。
 桐生はそれを機に彼女の病室から出て行った。
 
 
 高梨香緒里は先天性の心臓病を患っている。
 原因は分からない。ただ、彼女の心臓壁には生まれつき穴が開いていた。
 手術は既に施術されているのだが、彼女の疾患が重いものであったために来年に小学校入学を控えた今もチアノーゼや不整脈が起こり、入退院を繰り返している。
 ――桐生はカルテを眺めながらため息をついた。
 香緒里の母、沙代を思い出す。
 整った顔立ちにはいつも疲労の色が濃く、伴侶と別れるに至るまでの苦悩が彼女の顔には刻み込まれていた。
 何故香緒里の両親が離婚したのか、桐生は知らない。
 だが風の噂に聞いたところによると――無論それを鵜呑みにするわけではないが――手術を終えた香緒里が再び入退院を繰り返すようになった頃から、どうやら少しずつ父母の距離は遠ざかっていったらしい。
 結局父親は既に再婚していると聞く。
 桐生はふとクラウスの「親と子のきずな」の一節を思い出した。

 こどもは障害を持っていても生きるのを学ぶことはできる。しかしこどもは、両親が彼を口に出して可愛いと言える者だと認めていることを確信できなければ、満足に生きることは出来ない。もし両親が今、自分のこどもの欠陥を知りつつも、愛していてくれるなら、こどもは将来、他の人々も自分を愛してくれると信じることができる。この確信によって、こどもは今日を満足に生きることができ、将来についても信頼を抱くことができるのである。

 ――香緒里さんは少し、昔の僕と似ているな。
 過去を思い出してももう胸は痛まない。
 それは桐生が古傷を克服したからなのか、それともその疼きにすら麻痺するようになってしまったのか……。
「桐生センセ」
「あ、はい」
 ぼんやりしていた彼は看護師に呼ばれて慌てて振り向いた。
 彼の整った顔に正面から見つめられたその若い女性の看護師は、かすかに頬を染める。
「お電話ですよ」
「誰からですか?」
「ええと」
 彼女はメモに眼を落とし、
「七条――」
「あ、分かりました」
 桐生は席を立ち、彼女からコードレスフォンを受け取った。
「もしもし、変わりました桐生です」
『やあ、桐生君。元気かい』
 壮年の男性の声。桐生は穏やかに微笑む。
「はい」
『K大病院で研修中だそうだね』
「ええ、そうです」
『かつて妻が入院していたところだな』
「……そうなんですか」
 桐生は少し口ごもった。
 電話の主、七条一騎とは遠縁の親戚にあたる。さらに、一騎は桐生の恩人だった。
 ――彼がいなければ、今頃自分はここにいない。
 一騎の妻は既にこの世にないが、息子が今小学生のはずだ。
『今仕事で京都に来ていてね。もし良ければ顔でも見たいと思ったんだが……』
「そうですね……」
 桐生は少し考えたが、
「明日でしたら時間が取れるのですが」
『そうか、じゃあ明日の昼ご飯を一緒しよう』
「お任せします」
『では臨時の呼び出しがかからない限り、そういうことにしよう』
 一騎は本庁勤めのキャリア警察官僚である。キャリアには珍しく彼は現場に立つのが好きで、それでいてノンキャリアには憎まれないという不思議な仁徳を持っていた。
「それでは――」
 電話を切ろうとしたところに、
「桐生先生!」
 別の看護師が飛び込んできた。
「487号室の高梨さんの容態が急変です!」
「え?」
 桐生は間の抜けた声を上げた。彼女は明後日退院予定で、体調には全く問題なかったはずなのだが……。
 看護師も彼の疑問を察したのか、何度も頷いて見せた。
「灰原先生はいつもの発作とは違う、何が何だか分からないって……」
 灰原は桐生の指導医である。
「一騎さん、ちょっと後で連絡します」
『……分かった』
「それでは」
 手短に切り、桐生は脱いでいた白衣を羽織って控え室を飛び出した。
 どうしようもなく嫌な予感が、彼のこめかみを汗で濡らす。
 ――わたし、ようせいになるの。
 香緒里の笑顔がふと脳裏をよぎった。
 
 
「患者、意識レベル低下」
「体温三十九度二分」
 病室は既に慌しい空気に包まれていた。
 桐生は看護師らの間を縫って灰原に近付く。
「これは一体……」
 香緒里は紅潮した顔で人工呼吸器に繋がれていた。
「桐生君」
 灰原は険しい顔で言った。
「いつもの発作とは明らかに違う」
 確かにチアノーゼに見られるような手足の指の変色は見られない。
「看護師が十分程前に見に来たら既に昏睡状態になっていたようだ」
「激しい嘔吐を繰り返していたので気導を確保しました」
「恐らく中毒だ。胃洗浄はさせたが、しかし……」
 灰原は香緒里の瞳孔を確認し、
「瞳孔が散大している」
 有機リン系の中毒なら瞳孔は縮小する。しかし、今の香緒里の瞳孔は、灰原が今まで見たことがないほど散大していた。
 灰原は処置を続けながら桐生に尋ねた。
「この症状で考えられるのは?」
「アルカロイド中毒です」
 即答する。
 灰原は頷いた。桐生は眉を顰める。
「しかし一体どうして……」
「…………」
 それは灰原にも分からないのだろう。彼は黙って心拍数を見つめた。
 桐生はふと病室内に目を走らせた。
 様々な器具が急遽運ばれた病室は随分手狭になっている。
 香緒里が喜んでいたあの黄色い花も今ここにはない。
 しかし桐生の与えた妖精の絵本だけは、窓に立てかけられたままになっていた。
 
 ◇
 
「それで、その患者さんはどうなったんだい?」
 翌日の昼。一騎に尋ねられて桐生は唇の端を小さく歪めた。
「亡くなりましたよ」
「…………」
 一騎は沈痛な面持ちで視線を俯ける。
「小さな子供のそういう話は、辛いな」
「今の僕の関心事は」
 桐生は無感情に言った。
「彼女の死因です。何故、彼女はアルカロイド中毒で死んだのか」
「…………」
「むしろ」
 桐生の瞳の闇が深くなった。
「誰が彼女を殺したのか」
「……!!」
 一騎は顔をあげた。
「殺した? 殺人事件だというのか?」
 そう言う彼の顔は既に警察のそれである。だが、桐生は顔を緩く左右に振った。
「アルカロイドは確かに鎮痛剤として病院で用いられています。でも彼女の服用していた薬には処方されていなかったし、そのとき点滴も打っていなかった。よって、医療ミスという可能性は限りなくゼロに近い。彼女が自殺をする理由も考えられません。最後に残る可能性は」
「他殺……か」
「でも何の根拠もないですよ」
「警察は介入しているのか?」
「いいえ。病院側は自然死で済ませようとするでしょうし、親もあまり病院を追求する気はなさそうでした」
 元々体の弱い子だという諦めもあったのだろう。しかし――。
「……ではどうしようもないわけか」
「ええ。だからこれはただの僕の好奇心です。でも」
 桐生は頷きながら、食後のコーヒーカップを口元に当てて一騎を見つめた。
「一つだけ。可能性を考えているんです」
「……なんだ?」
「それを確かめに行くつもりなので、少し付き合ってもらえませんか」
「どこに?」
「彼女の実家です」
「分かった」
 一騎は残っていた紅茶を一思いに飲み干し、桐生を促した。
「行こう」
「はい」
 冷え切った色を湛えた桐生の瞳が変に熱っぽい。一騎はそれにデジャビュを感じてため息をついた。

 高梨香緒里の実家は左京区の北部にあった。彼女はここで祖父母、そして母沙代と共に暮らしていたのである。
 桐生の運転する車の助手席でカーナビの画面を見ていた一騎だが、車の止まる気配にふと目を外に向けた。
「ここか?」
「ええ」
 桐生の薄い唇がきゅっと引き締められ、やがて小さく呟きを洩らす。
「……やはり……」
「?」
 一騎を残して桐生は車を降り、一軒の家の裏口に佇んだ。庭にガーデニングが施され、白やピンク、黄色などの花が色とりどりに咲き誇っている。恐らく今日は彼女の葬式を行っているのだろう。ひっそりと静まり返っていた。
 彼はその長い腕を伸ばして軒先に咲く花を一輪折り取り、車に戻った。
「僕はこれに見覚えがあります」
「……どこで?」
「彼女の病室で」
「その花の名は?」
 桐生は一瞬口を閉ざし、やがてぽつりと呟いた。
「チョウセンアサガオ。毒性のある花です」
「?!」
 一騎はもう一度窓からその家の庭を見た。
 そこに咲き誇るのは全て――毒の花だというのか。
「知らずに栽培している人も多いようですが、種であれ根であれ口に入れればアルカロイド中毒になります。そう、たとえば――」

 ――わたし、ようせいになるの。
 
「蜜を吸うとか」
 桐生はその花を窓から投げ捨て、車を発進させた。
 
 ◇
 
「高梨香緒里は妖精に憧れていた。自分も花の蜜を吸ってみたい、とそう言っていました。母親はおそらくそれを聞いたのでしょう。花を持ってきた。だがそれは猛毒だった。そうと知らない娘は喜んで毒の花の蜜を吸った」
「……悲劇だな」
「…………」
 桐生は黙ったままだった。
「これは殺人とはいえない。母親も自分が娘を殺してしまったなど、知らない方が幸せだ」
「…………」
 一騎は何故か饒舌だった。
「いわば事故なのだからな。そう、これは事故だ」
「……一騎さん」
「――言うな」
 不意に一騎は声のトーンを落とした。
「お前の言いたいことは分かっている。だが」
 ――言うな。
「考えたくないんだ」
 ぼそぼそと一騎は言う。桐生は黙って運転を続けた。
「そんなこと。考えたくない」
 警察などという職業についていれば人の醜い姿など見慣れているはずなのに、一騎はそれでもそれを悼む心を忘れていない。
「仕事なら、追及するさ。それが俺たちの義務だから。でも」
 一騎は首を横に振った。
「今その可能性を追及したところで、傷つくのはその、香緒里さんだけじゃないかという気がするんだ」
「立件するには証拠不十分でしょうからね」
 桐生は頷く。
 あの部屋にチョウセンアサガオがあったと証明することはもう出来ない。
 一騎は呻くように呟いた。
「事故かもしれないじゃないか。そうだろ?」
「そうですね」
「そう思っていたい」
「僕は」
 一騎が俯いたまま桐生を見遣る。
「そこに明確な誰かの意志のある死の方が安心する。事故などよりも、ずっと」
「……何故?」
 桐生は怜悧な、それでいて艶麗な笑みを浮かべた。
「何故でしょうね……」
 ――誰よりも一番近い位置にいる一騎でさえ、桐生の持つ闇を晴らすことはできない。いや、踏み入れることすらできない。
 一騎はため息をつき、顔をあげた。
「でも、彼女は……」
 ぼんやりと呟く。
「きっと妖精にはなれたんだろうな」
「…………」

 ――わたし、ようせいになるの。
 
 ――ほかの小さなようせいさんだって見えるんだから。
 
 あれはアルカロイド中毒特有の幻覚症状のなせるわざだったのだろう。今なら分かる。
 だが、一騎の優しさを打ち砕く気にはなれなかった。
「きっとそうですね……」

 あの絵本の行方を、桐生は知らない。