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それはまるで雪融けのような

 慣れないスーツの着心地に、草摩は軽く肩を揺らして、何とか体を慣らそうとした。
「眠いですか? 今朝は早起きしてもらいましたからね」
 隣で微笑む連れ――桐生には、その長身に紺のスーツが嫌味なほどよく映えている。草摩は首を横に振った。
「そんなことない」
「コーヒーでも飲みませんか。あちらのブースで配ってましたよ」
「ん……」
「僕はもらってきますけど?」
「じゃあ、俺も行く」
 きっと俺のためにそう言ってくれたんだろうな、と草摩は思った。桐生というのは、そういう男だ。
 並んで歩きながら、辺りに目をやる。当たり前だが、周りの人々は自分より皆年上に見えた。ここは学会会場。昨日から、草摩は桐生の出張に同行している。――「勉強になると思いますし、近くに温泉地もあるんですよ。旅行気分でどうですか?」いつになく強く提案する桐生に押し切られるような形だった。しかし正直なところ、学会で扱われている内容など学生の草摩にはちんぷんかんぷんだ。退屈とは言わないまでも、何故桐生がわざわざ草摩を連れてきたのか、彼には桐生の真意を掴みかねていた。
 桐生の発表は午後である。どうせ内容はわからないだろうが、それを見るのは心から楽しみだ。ここ最近、桐生が日々の仕事の隙間を縫って準備をしていたことを、草摩は誰より知っている。
「すみません」
「へ?」
 突然桐生に謝られ、草摩は目を白黒させた。桐生は紙コップに入ったコーヒーを手に持ちながら、草摩を気遣わしげに見ている。
「退屈ですよね?」
「…………」
「何なら、終わるまで駅前にでもいていただくか、それともタクシーで先に旅館まで……」
「別に、」
 草摩は桐生を遮った。
「退屈してない」
「そうですか? でも……」
「確かに中身はわからないけど、雰囲気を味わえるだけでもいい経験させてもらってるって思うよ」
 草摩が真っ直ぐに桐生を見上げて言うと、彼は少し目を瞬いたあとでやわらかく笑った。
「それならいいのですけど」
 草摩は桐生から受け取ったコーヒーをすする。少し苦いその味が、今の彼には心地よかった。
「桐生?」
 突然呼びかけられた声に、桐生が振り返った。遅れて、草摩も首を巡らせる。視線の先にいたのは、やはりスーツ姿の男だった。
馬渕(まぶち)先生」
 桐生は目を細め、つぶやく。草摩には、二つ上の先輩です、と短く説明した。
「久しぶりだな。抄録にお前の名前があったから、いるんだろうとは思っていたけど」
 馬渕は懐かしげに桐生を眺めた。
「元気そうだな」
「おかげさまで」
 桐生は苦笑にも似た笑みを浮かべて頷く。
 馬淵の視線が、ふと草摩に落ちた。
「そちらは……研修医か?」
「いいえ」
 草摩が口を開くより先に、桐生が言った。
「学生さんで、僕の親しい友人なんです。少し早いかもしれないけれど、勉強になるかと思いまして」
「真面目だなあ、学生の間は遊んでおけばいいのに」
 馬渕は軽い調子で言い、笑った。草摩は愛想笑いを浮かべ、会釈する。
「七条です。はじめまして」
「馬渕です。よろしく」
 にこやかな笑みのまま、馬渕は続けた。
「そういえば、桐生がモテるのに全然遊ばないのって、そっちの趣味があるからじゃないかっていうやつらがいたなあ」
「違いますよ」
 桐生は苦笑した。草摩は小さくため息を噛み殺す。桐生がどんな趣味でも草摩は構わないが、彼がかつて女性との――というよりも他人との関わりを避けていた理由は、そんな単純なものではない。
「冗談だよ」
 馬渕はくすっと笑った。ブリーフケースを抱え直し、辺りを見回す。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、はい」
「桐生……お前さ」
 馬渕は目を細め、桐生を眺めた。
「なんか、雰囲気変わったよな」
「そうですか? 老けただけでは」
「いや、そうじゃなくって……」
 馬淵は何かを言いかけて、考えるように言葉を切った。
「うん……そうだな。なんか、いい顔してるよ」
「…………」
 桐生はやわらかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
「じゃ、またな」
「はい」
 踵を返して去っていく馬渕の後ろ姿から視線を外し、桐生は真面目な顔で言った。
「草摩君、僕別にそういうつもりで君を引き取っているわけではないので、安心してくださいね」
「……わかってるよそんなこと」
 相変わらずとぼけたことを言う桐生に、草摩はやれやれとため息をこぼした。
 その後も、桐生は何人かの先輩や同級生に声を掛けられた。そしてその誰もが揃って言う――桐生は変わった、と。そして彼の傍らに立つ草摩を、興味深げに眺めるのだった。
「前のお前って、どんなだったんだよ……」
 草摩がぽつりと言うと、桐生は困ったように微笑んだ。
「さあ?」
「…………」
 草摩はそれ以上何も問わなかった。だが、何となく――わかっていた。
 草摩は、桐生の口から友人の話を聞いたことがない。知人、同僚、先輩、後輩。そういった言葉は聞かれても、友人、と分類されている人物はおそらく桐生の中にはいない――いや、「いなかった」のだろう。
「俺、お前の友達なんだ?」
 軽い調子で尋ねると、桐生は目を瞬かせた。
「親戚、の方が良かったですか?」
「別に、そういうわけじゃないけどさ」
 どんな言葉で表現しようが、実態は変わらないのだから。
 桐生とは一回り以上年が離れているから、「友人」という表現は不思議に思われたかもしれない。だが、桐生が彼を友人として紹介してくれたのは草摩にとっても嬉しいことだった。当初桐生は草摩の保護者だと名乗っていたが、草摩が成人になってからだろうか、徐々にそうは言わなくなった。これからは友人として、対等の立場で付き合えればと思う。今はまだ学生だが、あと数年以内には社会人になれるから……。
「草摩君?」
 気が付くと桐生の顔がすぐ目の前にあって、草摩は思わず仰け反った。
「な、何だよ」
「そろそろ発表の準備に行かないといけなくて……少し待っていてくれますか?」
「あ、ああ。うん」
 後で連絡します――桐生はそう言って、彼の傍から離れて行った。
 その後ろ姿をぼんやりと見送った後、草摩はさて、と辺りを見回した。どこに行こうか。ひとりでふらりと発表やポスターを見に行っても、横で分かりやすく解説してくれる桐生がいなければほとんど何も理解できないだろう。だからといって企業ブースへ行ってノベルティをかき集めるのも品がない。既に数本のボールペンやマスコットキャラクターのストラップ、薬品名の書かれたクリアファイル、レポート用紙などで彼の鞄の中は溢れ返っている。
「うーん……」
 確か、一階にカフェがあったような気がする。混み合っているかもしれないが、一度行ってみようか。そう思って振り返った先に、見覚えのある男がいた。今まさに草摩に声を掛けようとしていたのか、軽く手を上げている。彼の隣には、同じ年格好のスーツ姿の男がいて、やはり桐生の知り合いなのだろうか、と草摩は思った。
「……馬渕さん、でしたよね」
 草摩がそう言うと、彼は笑って頷いた。
「桐生は? トイレ?」
「いえ」
 あっけらかんとした言い方に、草摩も思わず笑った。
「発表の準備をしないとって……すぐ戻ってくると思いますけど。連絡してみましょうか?」
 携帯電話を取り出した彼を、馬渕は手を振って止めた。
「いや、別にたいした用事があるわけじゃないんだ」
「そうなんですか?」
 では何故自分に声を掛けたのか――不思議そうに瞬く草摩に、馬渕の隣の男が言う。
「あの桐生が、愛想笑いじゃなくて普通に笑っていたって聞いたからさ。ちょっと見てみたかったよ」
「あの……?」
 草摩は首を傾げ、つぶやく。桐生といえばいつも柔らかい笑み浮かべているイメージで、それもあからさまな愛想笑いといった風ではないと思う。不思議そうな草摩を見て、馬渕は苦笑した。
「昔のあいつのあだ名、知ってる?」
「……いいえ」
 聞いていいのかな、と草摩はためらったが、結局はそう答えるしかなかった。自分が彼の過去に触れることが、彼を傷つけなければいいのだが……。
 馬渕の隣の男――江藤と名乗った彼が、ぽそりと言った。
「『氷の王子様』」
「……は?」
 草摩君はぽかんと口を開ける。
「そうそう、あれ確かまだ桐生が研修医の頃だよね」
「無口で無愛想で、なのに腹立つくらいイケメンだしな……患者には優しくて評判は良かったが、やりにくい後輩だった」
 口々に語られる逸話――桐生のものとは、にわかに信じがたかった。
 桐生が無口? 無愛想? 本当に?
「歓迎会とか忘年会も一切来なかったし。あれで仕事ができないやつだったらどうしようもなかっただろうね」
「実は、最近丸くなったらしいって噂は聞いてたんだけどさ」
 彼らの好奇に満ちた視線を浴び、草摩はうろたえた。
「何ですか?」
「いや、『氷の王子様』の友人って、どういうことなんだろうなって。昔は友達なんているようには見えなかったから」
「そうそう。あいつに何があったのか、正直気になるんだけど」
「ええっと……」
 草摩は曖昧な笑顔を浮かべた。――桐生が変わったきっかけは、草摩の父である一騎の殉職と、それに端を発した一連の事件だろう。だが、それをここで説明する気にはならないし、その必要性も感じなかった。
「俺が知ってる桐生は、最初からああでしたけど」
 草摩はただ、そう言った。確かに、桐生は草摩の前では最初から優しく、穏やかで、決して冷たくなどなかった。では、どちらが本来の彼なのか――そんなことは疑問に思うまでもないことだ。
「ふうん……?」
「そうか……」
 草摩の答えに、ふたりは並んで首をひねった。
「あいつ、彼女できた?」
「多分、いないと思いますけど……」
 自分の知る範囲では、と答える草摩にふたりは顔を見合わせた。
「……俺があの(つら)で生まれたら、もうちょっと有効活用するけどなあ」
 ぼやくような江藤の言葉に、草摩は小さく吹き出した。馬渕も深々と頷いて、そして不意に真顔になった。
「でも、まあ――なんか、安心した」
「そうだな」
 江藤はふ、と笑みを見せた。
「楽しくやってるようで、良かったよ」
「……あの」
 桐生にもう一度会わなくていいのか――問う草摩に、ふたりは顔を横に振った。
「この業界狭いからさ。また会えるよ」
「うんうん。いつまた同じ勤務先になるかもわからないしな」
「七条君も、良かったら外科に来てね?」
「あ……ありがとうございます」
 軽く頭を下げた草摩にひらひらと手を振り、彼らは立ち去った。その後ろ姿が消えた後――。
「『氷の王子様』……ねえ」
 草摩はぽつり、とつぶやく。
「似合わねえなあ」
 確かに桐生は整った顔をしているが、氷のように冷たいイメージなどかけらもない。ついでに言えば、王子様、というのもしっくりこなかった。確かに職場での彼や、こういった場所でフォーマルな装いをしている彼だけを見れば、そう呼ぶことにさほど違和感はないかもしれない。しかし、草摩は知っているのだ――彼が家でどんな風に過ごしているのか。案外だらしなかったり、おやじくさかったりする、彼の日常を。多分、今のところその姿は草摩しか知らないのだろう。
 ちょうどその時、彼の携帯電話が振動した。メールは、桐生からのものだった。発表のための手続きが終わったのだという。草摩は桐生の指定した場所に向かって歩き出しながら、小さく笑みをこぼした。――桐生は、かつての自分のあだ名を知っているのだろうか。もし知らなかったとしたら……それを聞いて、彼はどんな顔をするだろう。結構動揺するんじゃないかな、と考えて、草摩は桐生に話してみようと思った。

 その日の夜。無事に発表を終えた桐生と草摩は、桐生の提案通りの温泉旅館にいた。こじんまりとしたその旅館の露天風呂には、今は二人の他に人影はない。
 そして、案の定――。
「何……ですって?」
 桐生は、目を丸くして聞き返した。普段はビールしか飲まない、しかもどれだけ飲んでもほとんど顔色を変えない彼だが、今夜は珍しく日本酒を飲んだせいか色白の顔が赤く染まっている。
「だから、さ」
 草摩は笑いに肩を震わせながら繰り返した。
「お前、『氷の王子様』って呼ばれてたんだって。研修医時代。知ってた?」
「し、知りませんよ!」
 桐生はさらに顔を赤くして声を上げた。
「なんですか、それ……お、王子様? カレーの? え?」
「氷の、だろ。カレーじゃあただの商品名じゃん」
「うう……何だかすごく恥ずかしいんですけど……」
「全くだな」
 鼻の下まで湯につかり、桐生はぽこぽこと息を吐いている。その妙に幼い仕草に、草摩は苦笑した。
「まあ……昔のお前がどんなふうだったかは知らないけど、さ」
 ――そらを振り仰ぐ。雲間から、薄ぼんやりと月が透けていた。
「いい顔してるんだって。今のお前」
「……はあ」
 桐生は顔を湯から出し、タオルでごしごしとこすった。照れ隠し、だろうか。
「良かったな」
 振り返ると、桐生は頷いて微笑んだ。
「草摩くんの――いえ、草摩くんたちの、お陰ですよ」
 言い換えて、目を細める。その笑顔は――。
「あ。王子様っぽい」
 思わずつぶやいた草摩に、桐生は盛大な水しぶきを上げ、湯の中へと突っ伏したのだった。